草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2016年07月02日
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第 六十八 回 目



 気が付くと腕の中に、得子がいた。義清の胸に、そっと頬を寄せるようにして、躯を預けている。

悩ましい髪の匂いが、咲き誇る満開の桜花の如き体臭が、若者の鼻を痺れさせる…。気の遠くなるような

陶酔と愉悦が、芳醇な、強い酒のように、若者の心を揺すり、蕩かしていた。

 「儂は、御方の招きに応じて、参上致した。とうとう、儂は……」

 義清は半分譫言のように、低く呟いて、長く豊かな黒髪に埋まった横顔に、眼を落とした。白く

透き通るような項が、微かに、微かに、揺れ動いている。若者の逞しい手が、その胸元に触れた瞬間、

驚きとも、歓びともつかぬ、小さな声が女の口から発せられ、花びらが風に誘われて枝を離れる如くに、

女の躯が若者の膝の上に、沈んでいた。義清は、得子が意識を失った事を、相手の重みで知った。





色々と気が散って、はかが行かない。佐々木法子の蒼白い顔が、瞼の裏にちらついて、落ち着かないのだ。

 法子の母親というのは、どのような女性なのだろうか?尾崎の説明では、男出入りの激しい、淫奔な

性格だと言うが、娘からは想像もつかない思いがする。眞木はさっきから銜えたタバコの先が、長く

灰になり、それがポトリと机の上に落ちたのにも気附かず、物思いに耽っている。

 ―― 眞木はまだ、小学生の頃に、恋をしたことがある。相手は、恐らく二十歳を越えていたであろう、

美しい女性である。無論、恋などとは言えない、淡い憧憬の感情であり、先方にも通じない、一方的な

片想いであった。それを眞木が敢えて 恋 と呼ぶのは、それが彼の半生に於ける、唯一の恋情の

思い出であり、常に打算を事として行動する現代人である眞木の、計算を超えた、不合理にして不条理な

感情で、あったからである。一体に彼は、理屈に合わないこと、説明のつかない奇妙なことは、頭から

信じないことにしている。その様なバカバカしい事柄にかかずりあっている時間も、気持ちも持ち合わせていは

いなかったのだ。第一に、正体のはっきりしない相手と付き合うことは、不経済に過ぎるではないか…。



袋小路を行ったり来たり。暇を持て余している閑人ならいざ知らず、彼のように忙しい人間には、他にいくらでも

することがあったし、その為には、人生は余りにも短か過ぎた。

 初恋を経験した小学校五年生の頃にも、彼にはちゃんとした将来の設計があり、その目的に向かっての

日々の生活があった。人は或いは小学校五年生、たかだか十歳かそこらの子供に、何が将来の設計、何が

日々の生活と言って、哂うかも知れない。しかし、大人たちが考える程には、子供は子供でないのだ。



今日のように、町医者と言わず、大学病院の医師と言わず、軒並みに評判の悪い時代ではなかった。「医は

仁術」という古色蒼然たる、美しい夢物語が立派に世間に生きていたし、彼のような子供が本気で医者に

憧れ、貧しい人々の苦しみを少しでも救って上げたい、と志すことが可能だったのだ。しかも、表面だけの

子供じみた、ロマンティックな単なる夢ではない。経済的な裏付けもちゃんと有った。

 その当時、物資が不足して、人々が苦しい窮乏生活を余儀なくさせられていた戦時下にあってさえ、彼の

一家が住んでいた東京近県のM市では、医者は一種の貴族の如き、物質的に豊かな生活を送っていることを、

彼は知っていた。その頃は彼の家が農家だったので、食う物には事欠かない、比較的に恵まれた生活を

送っていたのであるが、何といっても贅沢な医者の存在は、魅力だった。長男だったこともあって、彼は幼時から

一日も早く、一家の大黒柱になることを、自分の使命と心得ていたのだ。単なるヒロイズムやロマンティックな

美しいだけの憧れに、溺れているわけにはいかなかった。

 その彼が突如、得体の知れない、非生産的な感情の虜に、なってしまったのである。その女性は、今考えると

恋人か許婚者を戦場に送り出していた、悲しい境遇の人だったのかも知れない。粗末なモンペ姿の彼女を

町で見かける時、美しい顔に漂う憂愁の翳りを、彼はいつも発見した。その、子供の彼には理解しがたい

悲しみの表情が、一層彼の心に染み、勢い幼い恋心に油を注ぐ結果に、なったのかもしれない。お白粉も塗らず

紅もささず、増して今時の若い女性たちのように、カラフルなドレスも身に着けていない彼女が、この世の

ものならぬ美しさで輝いていたのは、一体何故だろうか。彼女が悲しみというベールを纏っていたからだろうか、

それともまた、愛する男性をひたすら待ち続けていたからだろうか…。長い、清潔そうな髪が川岸に芽吹いた

柳のように、風に靡くとき、懐かしい郷愁に似た幻の香気が、彼を恍惚とさせた。その瞬間、彼は毎日の勉強も、

医者になって豊かな生活を手に入れる、将来の夢も、何もかも実に儚い、蜻蛉のように実体のない、そして

それ故に自分にとってどうでもよい、詰まらない事の様に、思えてくるのだった。

しかしやがて、その恍惚状態から醒めると、恐ろしい夢魔にでも魅入られた後の如く、薄気味が悪くなって

もうその人の事を考えまいと、決意する。だが、無駄だった。学校の教室にいるときも、桜並木の続いた

土堤の上を歩いている折も、裏山の叢に寝そべって、青空を眺めている場合にも、その女性の小麦色の面影が、

瞼の裏に灼きついて、離れようとしないのだ。そうして、あの人が自分の姉さんだったりしたら、いや、自分が

もう大人で自由に恋をしたり、結婚出来る年齢であったら、恋人になれるかもしれない。そうすれば、どんなに

自分は倖せなことだろう―― そんなことを、ぼんやりと空想してみるのだった。











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最終更新日  2016年07月03日 19時15分01秒
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