草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2016年10月21日
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第 九十六 回 目


 法子の足が、突然止まった。いつの間にか二人はこんもりとした雑木林に囲まれた、

小さな池の辺(ほとり)に立っている。池の水は清く澄んで、木漏れ日を微かに反射している。

 「ご覧なさい…」、そう言って法子が一本の樹の根方を、指差した。最初彼は、仄暗い

光線の具合で、物の形が明瞭には識別出来ない為いもあって、水際に蹲るようにして横

たわっている男女二人の姿を、丸く盛り上がった岩か何かと、錯覚していた。が、漸く

視線がその辺りの暗さに慣れると、その姿を如実に見極めることが出来た―、彼は思わず

「あっ!」と叫んで、息を飲んだ。それは確かに、彼自身と法子の死体であったのだから。

 「随分と、苦しかったでしょうね」と、法子が独り言の様に言った。淡々とした、静かな



溺死したことを了解した。同時に、気のせいか窒息して死ぬ直前の、凄まじい苦悶と、その

後に訪れた不思議な恍惚感とを、思い起こしていた…、苦しかったのは、法子だとて同様で

あろう。いや、女性の身ではあるし、おまけに年齢が年齢である、自分以上に大きな苦しさを

味わった筈だ―、「可笑しいわね、丸でセミの抜殻みたいだわ、私たち……」、今度も他人事

のように、ケロリと言ってのけた。実際、岸辺に並んで両膝をつき、水を飲むような恰好で

顔を伏せた儘の、二人の亡骸は、首筋から背中の付け根辺りにかけて、ポッカリと盛り上がりを

見せて、口を開けている様子は、さながら脱皮した蝉の脱殻を連想させた。

 「こちらへ、あなたも早く、いらっしゃい」

 見ると、池の中程に法子の白い顔が浮かんで居て、彼においでおいでをしている。既に水辺の

情景は一変していて、彼等の死体も嘘の様に、消えている。彼は躊躇する暇もなく、水の中に

飛び込んだ―。飛び込んでから、自分が余り泳ぎが得意でなかった事に気附いて、少し心配に



スイスイと身体が水の中を、進む……。

 稍あってから、幾分心にゆとりが出来た彼が、頭を擡げて法子の居た方角を見ると、てっきり

水上だとばかり思っていた其処は、高い、高い空の上なのだ。

 遥か足の下に広がっている、青々とした海原のような物は、厚い雲の層が幾重にも積み重なり、

折り重なり合って、見事な渦巻模様の絨毯を現出している。



法子の白鳥であり、後から続くのは、勿論、彼自身だ。―― そうか、そうであったのか。

自分も白鳥に変身していたのか、それで、さっき法子の姿が思ったより、小さく感じられた

理由が解った。彼は心の中でそう叫ぶと、会心の笑みを満面に浮かべながら、力強く、両の

翼で風を後方に押しやった………


 眞木が意識を回復したのは、翌日の早朝であった。目が覚めた時、彼は自分が病院のベッドの

上に寝ていることに、気付かなかった。

 何時もの朝の如く、ごく自然な目覚めであったし、カーテンを締め切った薄暗い室内は、自宅の

寝室の様子との違いを、彼に感じさせなかった。眼を開けて、天井を見遣りながら妻はもう、台所

で朝食の支度に取り掛かっているのだろうか、などと、そんな事をぼんやりと考えていた。だから、

ドアを静かに開ける音がして、春美が室内に入って来た際には、てっきり食事の準備が出来て、

自分を起こしに来たものとばかり、思ったのである。「やあ、お早う」、眞木が上機嫌で声を

掛けると、妻は「あっ」と低く、驚きの声を発していた。続いて、「気がつかれたのですね、よかった

わ」と、と言うのを耳にした時、眞木は始めておや、変だぞ、そう思った。同時に、枕から

浮かした後頭部に、鈍い痛みを覚えていた…。

 春美の説明で事態を了解した眞木が、真っ先に考えた事は、法子の事であった。発作で倒れた

彼を、校長室のソファーの上に安静に寝かせてから、隣の教員室を覗き、教師が誰も居ないことを

知ると、電話で救急車を呼び、救急車が来ると、驚いてただオロオロしている生徒や教師達を

尻目に、病院の名前を確認して、眞木の自宅に連絡して呉れている。

 春美はその電話の相手の、落ち着いて、要領を得た報告に感心したと、言った。夕方の買物から

帰ったばかりの春美は、取るものも取り敢えず、夫が運び込まれたという病院に、駆けつけた。

そして、夫の発作が脳溢血の虞れがあると聞かされて、腰が抜けるほど吃驚してしまった。

日頃健康そのもので、風邪ひとつ滅多にひかない彼が、脳溢血だなんて、とても信じられない

気持だったと言う。

 幸い大事に到らずに済んだようだし、そう言いながら妻の春美は、夜を徹した看病の為に

憔悴した、蒼白い顔に、涙を浮かべている。

 その妻の涙がまた、佐々木法子のことへと、眞木の意識を促すのであった…。





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最終更新日  2016年10月21日 11時40分22秒
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