草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2018年03月22日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
第 二百九十八 回 目

 「 人間万歳! 人、この素晴らしいもの 」  ―― ナザレのイエスの場合

 人物:司会者、男、女 の 数人


 司会者:普通にはイエス・キリストと呼びますが、キリスト教の信者ではない者が、一人の人間として

イエスを理解した上で、なお且つその「素晴らしさ」を讃美してみようという、一つの試みを今回は

敢えてしてみたいと考えました。ご協力を宜しくお願いいたします。

 男「イエス・キリストと言えば誰もが、彼の十字架上での痛ましい死を思い浮かべますが。今回は

これを 弱い者・弱者の王・King として捉えた上で、あの有名な磔の刑での姿を心・精神界で最高位

を極めた人の象徴と理解する立場をとります」



頂けるでしょう」

 男「イエスは言います。かの栄華を極めたソロモン王ですら、野に咲く百合程に豪奢な衣装に身を

着飾ったことはない。この驚くべき事実を改めて直視して御覧なさい、と。人間を含めた地上の生物たち

に注ぐ超越者の慈愛の広大無辺な事を、見事に言い切っています」

 女「彼は人類が生んだ最大にして最高の詩人である所以ですよ」

 男「実際。仏教で言う 泥の沼から次々に咲き出る清浄にして無垢な蓮華 の比喩と並んで、野の百合

の譬えは傑出した素晴らしい表現でありますね」

 女「シェークスピアは『マクベス』の中で魔女たちに言わせています。綺麗は汚い、汚いは清浄(

きれい)だ、と。この伝で行けば 弱いは強い であり 強いは弱い なのであります。驚くべきことに

弱者こそは実は、真の強者であった。イエスと弱者、弱者の代表であるような女性や貧者たち。そして、

彼の母親であるマリアの位置付け・立場」



物質的・精神的に貧しい者、子供、女性等など様々な意味合いにおいて劣等な境遇に在る者の味方、助力

者として自己を明確に位置付けている」

 女「マザーテレサは言う。愛の反対は憎しみではない、無関心だ、と。彼女はイエスの心を直接に

受け継ぐ聖女だと言えるでしょう」

 男「憎しみは時に殺人と言う残虐行為に及ぶことがある。現にイエスは時の権力者カエサルによって



怨恨という人間存在が内包している、恐るべき、唾棄すべき悪感情を称揚しているのではなく、無関心

という人にありがちな怠慢の齎す害毒の大きさを、強く、強く糾弾し戒めている言葉と、解すべきでしょ

う」

 女「現実を知る努力の必要性を、無知、たとえそれが邪気のない、それ自体は罪のない単なる怠慢で

あっても、その結果として出て来ている様々な不条理や、非情苛烈な偏見・差別の実態を、無知な状態で

怠惰から留まっている大衆に向けて、大きな怒りを込めて叱責している」

 男「イエス・キリスト、つまりメシア・救世主としてのイエス像に触れてみましょうか。救世主とは

ダビデやソロモンに代表される 支配者・王 Sacred kinng を意味しますが、明らかにWar kingである

カエサルに対して カエサルの物はカエサルに と彼は自分の権利を自己規定しています。少なくとも

自分はWar kingではない。Sacred beingであると主張しているのですが、飽くまでも旧約聖書に説く

メシアを待望していた人々には、意味が通じなかった」

 女「生かす者であり、殺す者では断じてない。彼のこの高邁な志は素直には受け入れられなかった」

 男「ユダヤ教に言うメシア像の大変革であり、或る意味で質的な大転換が見られた。事実、新しい宗教

の派生・発足があった」

 司会者:ここでイエスの言葉に耳を傾けてみましょう。狭き門から入れ、とは一般民衆にとって難しい

注文と感じられますが、どの様に解釈したらよいのでしょう。

 女「滅び・死に通じている入口に在る目印の門は広く、大勢がいともたやすく通ることが出来る。然

し、命を真に生かす正しい道は狭く、本当に選ばれた者だけが入ることを許されている。例えば、罪を

犯すことは誰にとっても容易であるが、人間としてあるべき隣人愛に生きることは、至難である。だか

ら、人として神に選ばれた者として生きるためには、自分から進んで困難で狭い門を目指し、自分を

可能な限り高め、輝かせて立派な隣人として生きるように、心掛けたいものだ。大体、その様な意味内容

になる」

 男「そういう意味では、彼自身がそうした 狭き門 をめがけて、一直線に生き切った。あたかも、十

字架上での死がゴールであることを、熟知していたかのように」

 女「本当にそうですね。あんなにも鮮明に自己の立場を明らかにしなくても、よかったのではないか?

そう感じさせるものが確かにあった。それは何かと言えば、権威や権力によって無視され、否定されてい

る弱者一般の 声なき声 を高らかに代弁し、反旗を翻すこと」

 男「右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ、の教えにしても、無力な弱者が絶対の暴力を振るう権力者

に反抗する、唯一の手段・方法だった。その究極の姿が、磔刑(たくけい)での死。彼は単に言葉を発し

ただけではなく、果敢に自ら実行して見せた」

 女「敲けよ、されば開かれん、の言葉にしても同様でしょう。先ず切実な思いを、自身の行動として

示そうではないか。そうすれば、進んで行く道は自ずから姿を見せて来るし、それに伴う困難や支障は行

動を起こした者自身の努力だけではなく、対象の方から自然にその解決策を指し示して呉れる。勇気を

鼓舞して自己の信じる道をまっしぐらに、進め、邁進せよ! そう教えている」

 司会者:キリストと奇跡とは切っても切り離すことが出来ない程に、非常に密接な関係にあると言えま

すが、この現象を私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか?

 男「素直に信じられる人は、そうすればよいと思います。しかし疑問を抱く人々は、無理に奇跡を

信じなくともよいのではないでしょうか。所謂 奇跡の行為 を除いても、イエスがこの世に出現し、

様々な教訓を残された。それ自体が人類共通の遺産なのですから」

 女「マリア信仰、女性に属する 女性性の優越 への無条件の肯定もイエス・キリストの偉大なる功績

と、言って良いでしょう。いや、言うべき事柄でしょう」

 司会者:数々の奇跡を信じなくともよい。もう少し、かみ砕いて理解しやすく説明をして下さると、

有難いのですが。

 男「飽くまでも自然体で接すればよいと、言う事ですよ。無理せずに信じられるのであれば、それに

越したことはないわけですが。個人の資質や置かれている環境や境遇などによって、様々な反応が有り得

るし、また有って構わない」

 女「合縁機縁と言う言葉がありますが、イエス及びキリスト教との出会いも、色々な不思議な出会いや

結びつきが現にあるのですが、無理に信じたり、信じなかったり、するには及ばない。自然に任せれば

謂わば 神の御意思 に叶うと言うもの」

 男「それから、或る程度までは信じられるが、どうしても疑問が残ってしまう。そいう人も同様に

自然体で考えればよい。疑問を安易に自分流に解決するのではなく、自然に氷解するまで心の底に

大切にしまって置けばよいのです。時が、解決してくれるでしょうよ」

 女「奇跡を廻っては多くの疑問や反応が想定されるし、又現実に存在する。ある人にとってはそれが

きっかけとなって、深い人生理解へと到達する契機となるでしょう。或いは、バカバカしい迷信として

キリスト教との決別の原因とも、なり得るでしょう」

 司会者:そのどちらに対しても天上の神は OK とおっしゃり、決して強制はなさらない。選択は

私たちの側の自由に委ねられている。それも素晴らしい。父なる神は寛大で慈愛に溢れている。最愛の

嬰児(みどりご)を血塗られた犠牲の祭壇に、自ら進んで差し出した。優しいは同時に厳しいのでありま

したよ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2018年03月31日 08時52分09秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: