草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2018年05月28日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
第 三百七 回 目


 今回は、自然とメッセージというテーマで書いてみます。


 ご承知の如く、自然には「声」が有りませんので、所謂「声なき声」のメッセージという事に

当然の様になります。で、必然的にその声に耳を傾ける 人間の力量 が問われる。自然が声なき

声で以って伝えようと 企図 しているメッセージに、真剣に耳を傾ける、その真剣度合が問題に

なるわけです、実際。


 何故なら、そのメッセージは、声どころか、色も形も匂いも、触感も人の持つセンサーの機能を

遥かに超越した広大にして無辺な、際限もない、途方もない「重要極まりない」メッセージを

絶えず、止めどなく、幾度となく度外れな回数、私たちに発し続けて止まないから、でありますね。




神懸かり、乃至は 神憑り の状態でこの文章を書いている。否、書かされているから、そうなるのであ

りますので、何のことか皆目見当もつかない、とお感じの御方がいらっしゃいましたら、これは無視して

、つまりスルーしていただいて結構です。申し添えますが、これは私が偉そうに、もしくは傲慢な態度で

発言しているからではありません。本質的に そう言った性格の物言い だからなのです、はい。


 さて、自然の発しているメッセージに話を戻しましょう。私たち人間も自然の一部でありますので、

個々人が本質的に固有のメッセージを保有して、無自覚にそれを発している。発し続けている。それも

無限に近い膨大な量のそれを。

 数学の事を頭に描いてみて下さい。無限にも、本来は較べようがない無限にも大小があって、どちらが

大きいかはどちらがどちらを「含む」かによって、大小が分かる。例えて言うならば、整数の中には偶数

と奇数がありますから、偶数も奇数も整数に含まれますので、無限である整数の方が、同じく無限である

偶数・奇数より大きい、と言ったように。



緻密で厳密な、そして繊細かつデリケートな緊密さが、或る視点を獲得した者には鮮明に浮かび上がって

確定的なイメージを、映像を感じさせる。その辺の精妙さ、見事さは言語に絶して美しい、殆ど醜悪な

までに…。


 その一つと言ってよいのが、曼荼羅・マンダラでありましょうか。仏教や最近の深層心理学が注目

する人類の魂を透して見た、自然のメッセージの原風景。



なものではありませんか。自然は、飽くこともなくこの小宇宙の数々を次々と創造して、倦む事が無い。


 私たちにはそれぞれにあらかじめ定められた「役割」がある。ですから、自由に、勝手気ままに、生き

ることなど、本来は許されていない。そのことの意味合いを、よくよく、篤と考えてみる必要がある。間

違いなく、なのでありますよ。

 キリスト教の方では「初めに言葉があった」といいますが、言葉をメッセージと言い換えてみてもよ

い。言っていることは同じでありましょうから、結局は。

 熱い、熱い、思い・想いという火・炎が赤々と燃え立ったし、いま尚赤く灼熱して燃え滾っている。そ

してその火は未来永劫に亘って燃え続けることを、止めないでありましょう。


 信教の自由という事が言われます。一見して尤もと思われる主張の様に思われますが、ここで私は

思い切って断言してみます。そんな自由などは、体裁のよい上辺だけのもの、それ故に嘘偽りだと。


 信ずるに値する対象をこそ信じなければいけないのだ。それはこの世でも、無論過去世でも、当然にあ

の世でも、唯一無二のもので、ただの一つしかない。それ故に「宗教」、つまり宗とする教えなのだと。

 それは大切なメッセージを発し続けている自然の背後に、或いはその遥かな彼方に、確として存在し

自然を的確に支えている。

 この事実は、乃至は、真実は直観力によってしか私たち人間には把握・感受することは許されない。ま

して合理的な、余りに合理的に過ぎる科学の常識をはるかに超越している。

 私は何も殊更に誇張した、或いは、持って回った、奥歯に何か物の挟まった言い方をしているわけで

は、ありません、けっして。

 ただ人間というものの限界を素直に認め、真っ正直になろう。すると不思議な事に「 真実の 不思  

議 」が何処からともなく、その在りのままの姿を浮かび上がらせて来る。その事実を、真の実在に関し

て述べようとしているだけにしか、過ぎない。お判りでしょうか?


 これを仏性と呼んでもよい。私たちは仏という全体の、微小ではあっても、有難い事に一部なのですか

ら。全体との関係・関連を素直に、ただありのままに認識すればよい。

 妙好人と呼ばれる人々がいます。そのほとんどが無学であり、無名な庶民の典型のような人。その

一人がこんな言葉を発しています。「親様の家なのだから、遠慮や余計な気遣いなどいらない。安心して

暮らそう」と。そして彼は、それを事もなく実行して見せた。

 これを私は、否、周囲にいた人々は驚嘆、讃嘆した。偉人や哲人も及ばない見事の一語に尽きる、

素晴らしい生き方ではありませんか…。

 こうした達人の生き方、暮らし方が、万人に対して開かれている。これは実に有難く、勿体無く、

驚異の一語のみ。外に言葉を失ってしまう。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2018年05月28日 11時00分55秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: