草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2018年07月30日
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第 三百二十六 回 目


 今回からは俳優としての人間と、台本・言葉・作品との関係について、私流に書いてみようと思います。

 最初はデカルトの「吾、思う故に、吾あり」から始めます。コギト・エルゴ・スム cogito ,ergo sum

 I think ,therefore I exist.

 私は一人の俳優として、デカルトを演じてみようとします。私とデカルトとは生まれた国も、時代も、

考え方も、何から何まで違いますので、私としては哲学者としてのデカルトの一番の本質と思われる所

を、先ず第一に真似てみようと考えます。彼は徹底して物事を疑ってかかった。そしてかの有名な「吾思

う故に吾あり」の結論に達したと言います。

 私・草加の爺は元来がごく素直で、どちらかと言えばお人好しのきらいがある方ですので、あまり人を



 私がこの世で物心がついてから感じたことは、自分は「この世界に、何の目的でやって来てしまったの

か?」という、言葉に翻訳すれば漠然とした疑問でした。幼時期の私は「遊び戯れる」ことが無性に楽し

く、ただただ愉快に感じられ、小学校に上がってからも勉強などよりは、圧倒的に遊びの方が面白く感じ

られていた。遊びの事を考えてそれに打ち興じていさえすれば、毎日が楽しく、文句なくあっという間に

時間が経過した。しかし、周囲の大人達、両親や学校の教師達はそれを許そうとは決してしなかった。

で、仕方なく、全く心ならずも勉強の世界に足を踏み入れざるを得なくなった、実際問題として。

 中学から高校に掛けて、私の生きる道は勉強に打ち込む以外には何処にもなかった。少なくとも、当時

の私にはそう思われた。で、無理してがり勉に走った。辛くて辛くて、世の中が真っ暗闇に見えた。真っ

暗闇だから何も見えなかった。出来れば自殺したかったが、怖くて、闇雲な恐怖感からそれも出来ない。

全くの八方塞がり状態。幸いと言うか、たまたまがり勉が功を奏して、自ずから一筋の細い道が行く手に

見えてきた。その道を厭も応もなく辿る裡に、大人の仲間入りを果たしていた。



嫌な世界に自分は来てしまったのか?」と。

 それで、私がデカルトという人物を可能な限り似せて演じる場合には、内面から入るより仕方がないと

腹をくくる。彼は徹底して神や宇宙を疑って掛かった。その目的は徹底して自分自身の理性の力を駆使

して、神や神が創造された宇宙を確かに信じたいと願ったから。そう私は彼を理解した上で、私に可能な

役作りを始めます。肖像にある姿形に似せることなどは、初めから諦めて掛かる。



う確たる対象を自分自身の手でつかみ直したかったに相違ないと。

 所で私・草加の爺であるが、ある女性と偶然に(― 断って置くが、偶然とは必然の同義語である。何

故なら必然は偶然の連鎖によって構成されるのが常であるから)出会って、その結果で彼女の愛によって

教育され、人生の目的の何たるかを悟るに至った。そいう私としてデカルト役を演じる。それ以外には

そもそも演じる手掛かりがないのだから。これは誰かが何者かの役柄を演じる際の心得を、実際に則して

具体的に解説したに過ぎません。

 これまでの俳優や役者について申し上げましょう。日本の場合に、男優ならやくざ者、そして女優なら

娼婦役が誰でも様になると言われました。事実、そうだと思いますが、それは何故でしょうか? これも

私の持論ですが、人気先行の興行主義の影響で役者に長い時間をかけて役作りの余裕がなく、柄なり生得

のキャラクターだけで勝負せざるを得なかった、台所事情、裏事情が大きく影響している。つまり、役者

としての基礎的な修行が著しく不足していて、「銭になれば取り敢えず良しとする」現場の促成栽培的な

営利主義の弊害が、顕著に出た現象でありますね。

 本来の役作りからすれば、ヤクザ者にしても、娼婦にしてもそれぞれに独自のキャラクターが必要であ

り、生得の柄だけで十分な役を演じることは出来ない筈なのですから。少なくとも私たちの目指す「

理想のセリフ劇」に於いては、完全なカタルシス・浄化作用を期す意味からも、中途半端な役作りでは

目的の達成は実現出来ないでありましょう。長い年月をかけた人間修行の裏付けが必須ですよ。

 最初の第一歩たる音読の奥深さとは、実はこの含みを意味している。気軽に入門することは可能です

し、特別な資格や能力の有無は問題とされませんが、完成という境地が無い程に極めて奥が深く、同時に

横の幅も限りなく広い。これは人間としての修養や精進の奥深さと全く同等なのですね、実際の話が。

 そしてセリフ劇と銘打っている通りに、セリフが飽くまでも主体になりますから、背景の大道具から

持物の小道具類、衣装などには基本的に頼らないでドラマを進行させるのが原則です。つまりは身振りを

含めた言葉の表現力を最大限に生かす工夫と、その為の演技者の能力が最終的には問われるもの。

 俳優たる者は日頃の弛まぬ精進と努力が欠かせない所。男性が女性を演じることは勿論、幼児から

老人に至るまで、職業や性格や特徴を細部にわたって演じ分ける必要もある。古代人は当然、必要ならば

未来からの人物も、そして身も知らぬ他国の人であっても、悪魔や鬼、様々な神々さえ演じる能力と

用意とを備えている必要がある。つまり、生きとし生けるもの全てに感情移入出来、それらしく、そして

自分らしさを殺さずに演じ切る。その心構えと、技量とが非常に大切なのですね。

 閑話休題、最近の世相を見ていて非常に気になる事柄がありますので、一個の、一人の人間としてとて

も気になるので敢えて発言したい。悪の問題です。殺人はそれ自体が悪であるから死刑もまた悪であると

決めつける主張が、もっともらしい社会正義やヒューマニズムの仮面を被って、大手を揮って大道を闊歩

しているかに見える。世の識者と言われる人間がいて、何か賢げに、或いは思慮深げに沈黙する。そこに

一理がある様な態度をしてみせる。

 これに対して私は一人の常識を備えた者として、次のように言いたい。癌細胞を切除する外科医を生命

体を損傷する行為として、あなたは糾弾しますか、と。凶悪な殺人犯は明らかに健全な社会を根柢から

危険に陥れる「癌化した細胞」に等しい存在である。速やかに切除するに如くはない。

 もうひとつ、弱者の問題です。弱いという概念は相対的な問題です。現在の強者が明日の弱者に転落

しない保証はない。また、弱者は悪人とは根本的に違う。またまた、民主主義とは一種の弱者が考え出し

た自己保身の為の社会保障的制度なのです。その社会で弱者を糾弾するなど、自己矛盾も甚だしい。

 私がどのような社会問題について憤懣やるかたない怒りを爆発させているか、分かる方には直ぐにお解

り頂ける筈ですから今はこの程度にして置きましょう。

 私の人間理解には極端な考え方は少しもありません。社会常識という公道・大道のど真ん中を歩いてい

るだけで、人間を極端に理想化もしない代わりに、無闇に軽蔑もしないだけであります、ただそれだけの

こと。

 再び、俳優論に戻ります。聖徳太子・厩戸皇子(うまやどのみこ)は同時に十人の人の訴えを聞き分け

られたと伝えられている。この賢人にして聖人の太子を演じるとなったら、俳優は一体どうしたらよいで

しょうか? 「らしさ」を芸の力で出すと言っても、現代では真の賢人も、それこそ聖人の名に値する

聖人らしい人も皆無ですから、お手上げ状態になってしまいます。ですから、ここからが本当の俳優・

役者としての真価が問われることになる。無論、台本の内容・質にも依るのですが、俳優の人間的な

大きさやスケール感などが問題にならざるを得ない。つまりは、まな板の鯉でありますから、小手先の

小細工などは頭から排して、虚心に、己のその時点での最良のものをすべて曝け出す覚悟で、役柄の中に

「身を投げる」しか仕様がないでありましょう。日頃の精進努力が大切と言われるのは、この時の事を

言うのでありましょう。己に無い物は表現の仕様もないのですから。

 ヤクザ者や娼婦なら、適当な演技で「誤魔化し」も利くでありましょうが、世の中には「らしさ」を

出すのさえ至難な役柄が無数にあるのですから。それらに備えて日頃から奮励努力して、人間としての

幅や深さを極限まで究める修行が、人間としての鍛錬が不可欠な所以でありますよ。

 誤魔化しの多い、上辺だけの演技は見物し眺めているだけの客は騙せても、真実に体験し、実感しよう

と待ち構えている「真実の客」には通用し辛らく、どうしても不満足感が残ってしまうでしょうから。

それでも「劇通の本物の客」はその人自身の人間的な技量によって、役者の不足を上手に補う術を心得て

居るでしょうから問題ない、と言えば言えるのですが、善良なる通常の客には、消化不良が起きたり、

カタルシス不全が生じたりの、好ましからぬ悪しき結果を齎すことになりかねないのであります、残念

ながら。

 ここで寄り道のような文章を差し挟むことにします。人を殺す行為の是非ではなく、人間は何故「不明

な理由で」しばしば殺人を犯すのか、という問題です。私は基本的に次の如くに考えます。

 人もまた動物の一種として、他の生物の命を自分の体内に取り入れる必要がある。生存の為の摂理であ

りますので、それに就いてとやかく論議するのは無意味とまでは言いませんが、あまり生産的なことでは

有りませんので、「神がそのように御作りになられた」と取り敢えずは済ましておくとします。野生動物

の場合には実に厳しい自然の掟があって、飽食や過食には一定の歯止めがかけられている。しかし半分以

上野生状態を脱している人は、この歯止めが非常に緩くなっている。しかし動物本来の野生が完全になく

なっているわけではない。それで、食事行為に伴う直接、間接の殺傷行為には必然的に「快感」が存在す

る。自己の生存を保証するものとして。人の行動が時に著しく常軌を逸し、果てしない暴走をするかに

見えるのは、その為なのではないか? 飽くまでも、個人的な仮説であります。

 しかしこの見解には一つの裏付けの様な体験もありますよ。子供の頃の話ですからかれこれ70年近い

昔に、父方の祖父から聞いた実話です。祖父は明治の生まれですから、日露戦争や日清戦争の戦争体験

を持っていました。そしてこれは若かりし祖父の誰かから聞かされた伝聞であり、直接の体験ではなかっ

たようですが、幼い私にとっては相当なショックをもたらした「お話」だった。その内容は、実弾の

飛び交う戦場での実体験者の実話として紹介された。つまり、実際に人を、生きている人間を銃であれ

軍刀であれ殺すという行為は、限りもなく大きな快感を齎すものだ、という恐るべき告白なのです。

 そして、告白の続きですが、始めこそ躊躇や戸惑いがあるけれども、や(殺)るかや(殺)られるかの

戦地では連続して殺人行為を実施していると、果てしもない快感を伴う行為だけと化してしまう。途轍も

なく恐ろしい事にだ。

 この一事を以ってしても、戦争は非人間的行為の最たるものだ、と伝聞者は祖父に教え伝えたと言う。

 このショッキングな体験が、私の人間観と戦争観に異常な影響を及ぼし続けている。そして半世紀以上

を閲した今も影響は消えないでいる。





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最終更新日  2018年07月30日 16時34分54秒
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