草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2019年01月19日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
「 目指すものは、商売にして 商売にあらず 」


            第 三百九十六 回 目

 町興し・地域振興の一助として「セリフ劇」を根付かせる方策を、私・草加の爺は野辺地の町

に対して提案してその協力を仰ごうとしています。国の政策と同様に、経済的な裏付け、商売繁

盛・諸産業の発展や進展の為には外部から人々が大勢やって来て、同時にお金を町に落して貰う必

要がある。その為の自力での、自前での強力企業・優良産業の育成計画であります。

 ただ単に娯楽としても有力な産業として、劇・ドラマ・芝居というエンターテイメントのジャン

ルがありますが、それに新しい工夫を施して世界中の人々にとって魅力のある「癒しと活力を

無尽蔵に与える」セリフ劇という新製品に仕立て上げて売り出す。しかも、町の財政的な予算は零



不可欠である。

 商売という従来の観点からすれば 「無謀極まりない」 と見えもし、感じられもする「絵

に描いた餅」と思われる事柄ですが、実はそうではない事を、これから可能な限り説得力を持たせ

て、お話する所存です。何度も繰り返すようですが、論より証拠で一歩、いや、半歩でも踏み出し

て頂ければ直ぐに納得の行くことですが、前例が極めて稀少なケースですので、とにもかくにも、

説得に邁進いたす所存であります。どうか、暫らくお付き合いをお願い致します。

 私は商売としてセリフ劇を売り出すと表現しましたが、実は商売とは本質を異にする、と言うよ

も商売の持っている弱点を根本的に否定し、改める発想をコア・核の部分に隠し持っている。商売

的な性質を克服して、人々の幸福と平和に直接に貢献する事業なのでありますが、現在の経済的な

在り方からすれば貨幣価値に換算した評定を除外して物事の重要性を、即座に理解してもらうのが

至難だからなので、已むを得ずこの表現を借用するのですよ。ですから、その様にご承知おき下さ



 野辺地と言う、地上の一点から始まるこの運動・ムーブメントでは最初からターゲットは地球村

の住人全体でありますので、理窟から言えば世界企業並みの発展が想定され、世界企業が当たり前

の事のようにして実行している「税金逃れ」の手法を将来において採用することは、当然の成り行

きとして考えられます。

 が、この様な流れには絶対にしない、断じて。



独自の性質によるのであります。取らぬ狸の皮算用などと茶々を入れたりせず、まあ、お聞き下

さいませ。始まりに全てがありますし、一事が万事です。

 ごく一部の少数者の収益に収斂されてしまうのは、一将功成って万骨枯る、であっては困るので

あります。ウインウインの関係どころか、観客も俳優も、劇団を支える様々な人々が、地球上の

全員が幸福と言う利益を、恩恵を等しく分け合う参加者全員が「勝者」である、地上が文字通りに

人々の楽園と化す、そういうコンセプトに終始しなければ、苦労を重ねる意味がない、張り合いが

無いというもの。

 それから、唐突な印象を与えるかも知れませんが、付言します。

 私の意見ではやがて外国人も「大挙して」押し寄せ、千客万来方式でやって来る予定になってい

るようだが、セリフが主体である劇で日本語を解さない外国人に、如何にして劇の面白さを伝える

ことが出来るのか、非常に疑問に思う。と言う至極ご尤もな質問が届きましたので、取り敢えず手

短にお答えします。少なくと最初の段階では従来の娯楽の一種としてデヴューしますが、娯楽は

娯楽でもショーや見物するだけのイヴェント類似の物ではありません。カタルシスを体験する治癒

や治療の場であり、

主役たる客・ゲスト・顧客と心の交流を深めることがより重要な要素となります。また、セリ

フ劇を契機とした複数のゲストたちの、無言・有言・挨拶を含めたボディーランゲージに依る相互

の交流こそが治療の効果を高める要素となります。粗筋を前以ってパンフレットその他の手段で

ゲスト達に伝えて置く。一種の御存知物を中心に演目・レパートリーを構成する。

 シェークスピアの「リア王」であれば荒野で老王が怒りの叫びを発する場面を中心に、触りを前

面に押し出して一部分の短編として公演する。

 などなどの工夫を凝らしてカタルシス効果にフォウカスします。

 何故ならば、新陳代謝、つまり新しいものと古いものとの入れ替えと言うよりは、心理的な不要

物や老廃物を体外に排出し、捨て去る行為だからなのです。捨て去るのはストレス全般。

 新しい知識や情報を積極的に身内に取り入れる行為ではないから、それが可能なのですね。むし

ろあらゆる可能性を蔵したゼロの状態に復帰する心の運動と規定してもよい。

さて、昨日一月十八日に大船に住む長男から電話がありました。息子の貴信は私の野辺地への働

き掛けの現時点に於ける最大の理解者でありますので、私を気遣ってアドバイスしてくれたので

す。「神とか、幸福などのフレーズを多用しない方がよいのではないか。読む人が引いてしまうか

ら」というもの。私は「有難う」とだけ答えておきました。

 貴信の心配は尤もだと首肯出来る、素直に。だが、であります。この際、「誤解」を怖れていて

はいけない、とも強く思うのだ。彼が心配している事は神だとか幸福とかをやたらと強調する狂信

的な新興宗教まがいの折伏の一種ではあるまいか、とのあらぬ疑いの目を受ける事への警戒心から

の大人の知恵から発したもの。

 人を見たら詐欺師か殺人者と思えと、無警戒で不用心な人々に対する、社会的弱者に対する、過

剰ではない親切心からの声掛けが、むしろ必要とさえ感じられる一種異様な社会情勢であります。

白を白だと念押しする、そして黒は飽くまでも黒だと言い張ることも、あながち意固地とも言えな

いご時世であります。神からの声掛けがあった、人間存在を遥かに超えた絶対的存在者からの啓示

が示されたから、正直にそう吐露する事が何故いけないこと、悪いことと無下に否定されなければ

ならなのか。どの様な事であっても誤解が必須であるならば、誤解を恐れてはいけない。

 天は今、明らかに私にそう命じて居られる、己の信じる道を勇気を持って行け、間違い様もなく

そのように明示された。どうしてその正しい指示に従わない理由があろうか。

 目明き千人に目暗が千人、と言う言葉がありますし、棄てる神があれば拾う神もある、とも言い

ますね。蛮勇なのか、真の勇気なのかは時間の経過が直ぐに答えを出してくれる筈。恐れたり、心

配したりすることは何もないのです。ただ只管に人事を尽くそうと腐心すればそれでよいのだか

ら。それが当面私に与えられた仕事であり、役割なのだから。

 ――― この様に書いて来てふと気づいた、私はいま思わず知らず「私自身を 演戯 してい

る」事実に…。まるでシェークスピア作のハムレットが父王の復讐に立ち向かった折の如くに。

 読者にはあるいは唐突な印象を与えているかも知れない。それ故に、戸惑ったり当惑したり、理

解に苦しむ方が大多数なのでしょう、さぞかし。

 劇の運び手である俳優を可能な限り説明しようと勉めていた私に、突如閃くように与えられたヒ

ントなのですが、平易に説明したり、要領よく解説したりするのが困難である。しかし出来るだけ

解り易くお伝えしたいと考えます。

 非常に乱暴で図式的な伝え方になってしまうのですが、劇・ドラマの効果という重要な事柄を

御理解頂くのには却って、好都合かも知れない。詰り現在の私の立場をハムレットに準えることが

であります。それは一体どういうことを意味するか。デンマークの王子ハムレットにとって復讐を

遂げることが目的でありますが、劇的な効果を考える際には、目的を果たすその事よりもプロセス

が大切なのだ、要するにカタルシスを充分に体験するには。同様に、私は町おこしの目的の為に

行動するのだが、私の人生を完成させる大きな目的と完全にクロスし、ぴったりと重なっている

為に、どちらが主たる目的・目標なのか分からなくなってしまっている、自他共になのだ。つまり

は行動その物に大半の価値が移動してしまっている。野辺地の町の人々に働き掛ける行動によって

私にカタルシスがもたらされる。プロセスが適切に遂行されれば自然に果実・好結果が生れ出る、

間違いなく。

 私の身ぶり・演戯は大切に違いないが、もっと重要なのは、真の主役は( 客席に座っている 

)野辺地の町の人々なのだ、人々の心の中で鬱勃と意欲がわき上がって或る強力な行動へと移行

する、その結実が新たな行動意欲へと高まり、素晴らしい現実が招き寄せられる。正に 劇的な

効果 なのであります。

 私・草加の爺の説明は稚拙そのものでありますが、それを棚上げにして、話を先に進めますが

大切なのはストーリーや筋書を知ることではなくて、カタルシスを実感し、体感する、そのプロセ

スなので、カタルシスが完全に果たされたか否かだけが、問題とされるべきなのだ。

 そして人間はこのカタルシスを何度でも、繰り返し、繰り返し経験したいと待ち望んでいる

存在なのであります。命の完全燃焼を希求している。その結果のゼロから、健全な日常へと旅立

ち、再び三度、カタルシスを求めて劇の場に戻って来る、あたかも疲れ果てた「兵士」の如く。

人生という戦場へと新たな心身をひっさげて還って行く。零であるがゆえにあらゆる可能性を胸に

秘めて…。

 一時的な人工の仮死を経験する儀式を通過して、再生する巧みな装置こそ劇・ドラマ・芝居の

エッセンス・醍醐味であります。その完全版を目指すのがセリフ劇なのでありますね、間違いな

く。

 同じ健康を保証する仕組みであっても、医学は、命を創り出せない現代医学は完璧を期せないが

が、劇は完全無欠を目指すことが可能なのですよ、少なくとも理論上は。その目指す完全無欠は、

パーフェクトな台本・シナリオによってこそ実現する。よって、私の実質的な役割の大半は傑作台

本をものする事に懸っている。そう、今の段階では言えるのであります。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年01月30日 13時19分04秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: