草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2019年01月25日
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三方 一両の 得 の展開 こそ セリフ劇の

                  最大の 醍醐味 なのだ


            第 三百九十八 回 目

 ご承知のように元々は「三方、一両損」であったのを、私が敢えて「 三方が一両ずつ得をする 
」ともじって言い換えたもの。元の形は落語などでお馴染みのお話ですね。左官の金太郎は三両の

大金の入った財布を拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎は一旦落とした以上は自分

のものではないと受け取らない。大岡越前守は名奉行ですから、一両を足して二両ずつ両人に渡し

三方一両の損として事件を見事解決した。めでたし、目出度し!

 私たちの目指すセリフ劇では三方、つまり三者とは客、役者、この両者を支える町の人々を言い



当初こそ野辺地町の住人に限られますが、直ぐに客と同様に誰彼を不問にする。町の人々という

範疇にしても町おこしの当面の課題をクリアーした暁には、人類一般へと大幅に範囲を拡張して

解釈して頂けばよろしい。

 そして、一両の得という意味合いですが、これも同様に金銭上の価値だけに留まることはありま

せんで、雪だるま式に時間の経過とともに際限もなく膨らみ、天井知らずの様相を呈する。

 これは音読励行からスタートする大きな発展の姿を外観した場合の見取り図であり、人間とスト

レスと劇のエッセンス・本質との関係を外側から眺めたスナップ写真であります。

 勿論、現行の世間で行われている劇の形態がこうした理想の姿を呈しているわけではありません

ので、私が述べるような簡単極まりないものではありません、その事実は言い出しっぺの私・草加

の爺が一番よく心得ている、つもりであります。しかしながら、理想のコンセプトが完成し、それ

に向けての努力と協力があるならば、必然として最も望ましい仕事の基礎・土台は揺るぎなく確定



 という事は、セリフ劇は単なるセリフ劇にとどまらないで更なる発展が無限に期待されている。

具体的に申せば、音楽とか舞踊、絵画、建築などとの関係性の再構築に関連して様々な可能性や、

新たな方向性が模索されて然るべきなのです。それは取りも直さず「正の方向」に向けての人間性

の限りない豊かさや優しさの涵養・醸成に、根底のところで役立ち、支え、寄与する。人類全体に

とってがえのない宝・財産となる。



の新しいコンセプトに依るセリフ劇の構築こそそれであり、もっと言えば劇の台本を根本から匡し

改めること、劇の機能を本道に帰し、歪みや偏向を矯正する事業・仕事がそれであります。

 これは固より個人の手には負えない一大事業でありますが、少なくともその方向性だけは、明確

なベクトルの提示だけは手掛けなければならない。私が最初にしり込みしていたのは、実はこの

事の重大性を具体的に悟ったからであります、確かに。

 そして納得したのです、ベストを尽くすのみ。結果や目標に目が眩み平常心を失わずに、自分に

可能な範囲でのベストを心掛け、直向きに邁進する、一切の雑念・邪念を払って…。


 ここで少し劇に関して本質的な考察を加えておきましょうか。ごく浅く、関心の薄い人々にも

解り易く、可能な限りかみ砕いた表現で。


 小説も詩もドラマも、その元をたどれば一つです。神々や英雄や偉大な人物についてのストー

リーが語られ、登場人物の思いや感情が詩という形式でまとめられた。音楽もストーリーの効果を

より解り易く直截に伝わる様に工夫された。ですから根っこには語られるストーリーが存在してい

たと言えるでしょう。

 基本形では語られるのは神、もしくは神に近い英雄がストーリーの中心にいた。時代が下るに

つれて主人公に私達に近い通常人が選ばれ、その非凡と思われる行為や事績などが主に題材の中に

取り入れられ、近代からは平凡人の常軌を逸した異常事がテーマとなって今日に及んでいる。

 乱暴な言い方をすれば、ドラマの主題が偉大な人物から、平凡人の異常な思考や行動に向けられ

る傾向を辿っている。そして、人間の行動よりも内面の心理や性格などに重点が移り、心理・性格

の大きな段差やギャップへと注目や関心が移動する傾向が顕著になった。

 私達には偉大なる英雄的な人物をヒエラルキーの頂点に据え、そのピラミッド型の権力構造の

適当な位置に自分を置き、頂点から裾野へと流れる権力の流れに身を浸して満足する、英雄崇拝の

願望があるとされます。アイドルとかアスリートという現代の疑似英雄を、一時的な仮想現実の

場で満足させているファンたちの熱狂ぶりを目にすると、その仮説も首肯出来る。

 舞台からも感情移入しやすい英雄的な人物が姿を消してしまった現代にあって、新たな舞台上の

ヒーローやヒロインの出現は必須の条件でありましょう。また、古典や近代傑作戯曲のアレンジや

再構成も喫緊の課題でありましょう。新しい時代の要請に応えるべき作業は数多くあるのですが、

私達はこれを天与のチャンスと捉えて果敢にチャレンジする覚悟で居ります。

 そこで、今度は劇の本質や劇的効果についてカタルシスというキーワードを、気が済むという日

本語に置き換えて考察を加えてみようと思います。

 先に私は、私達が人生を生きて行く上で私達の毎日の行動が、常に中途半端に終わってしまい、

何の脈絡もなく次々と別の行動に移らざるを得ない。そういう決まりのつかない思いが積もりに

積もって、ストレスが意識されないで心の奥底に蓄積されている。その様に断定して置きました。

 これは申すまでも無く、私・草加の爺一個の勝手な独断などではなく、科学的な裏付けのある

今日の常識化された定説となっているものであります。これを私は用心深く一応は仮説として取り

扱うつもりですが、それによって少なくとも劇の本質が私達にとって、より理解しやすいものに

なればと言う期待が込められている。

 さて、「気が済む」という和語ですが、気が澄む(清む)でもあり、気が行くと言い換えても

佳い。兎に角自分なりの(当事者なりの)満足が得られる、或いはそうした心の状態と心得て

おきましょう。カタルシスなどと言うと、人によっては何か「御大層な、迂遠な」表現と敬遠され

てしまうかも、知れませんから。

 そこで劇の中では主人公たる「客」が心の中で「気が済めば」よい。それを手助けする舞台の俳

優が、ハムレット劇ではヒーローたるハムレットが本懐を遂げて、父王の無念を晴らす行動が

行き着く處まで行く。この基本構造こそ大切な要素なのです。

 私達にお馴染みの大相撲を例に採ってお話します。御承知の如くに相撲という国技は、土俵と言

う丸の中で廻しだけを身に附けた力士が、勝負を競うものであります。殆どの勝負が数秒と言う

短時間に決着がつく。明瞭に、はっきりと気が行く、力士も応援の観客も。極めて劇的なのです

ね。原理は単純明快でありながら、本物の人生さながらに奥が深い。今日では若い女性ファンも

急増していると聞く。相撲の「気の済む」効果は抜群ですから。つまり、土俵上の力士に合わせて

見物人も心の中で相撲をとっている。

 序でながら申上げると、私はセリフ劇の目指す目標として「日本で言えば宝塚歌劇、外国で譬え

ればブロードウェイのミュージカル」と言うのですが、当面は大相撲を目指すと言い換えても好い

のですよ。

 また本筋に戻りましょうか。「オイディプス王」では、テーバイの王オイディプスは国に災いを

齎した先王殺害犯を追求するが、それが実は自分自身であったと知る。しかも産みの母親と交わっ

て子まで儲けていた事実を知るに至る。その結果は母親の自害であり、自らは自分の両目を潰すと

いう惨劇に終わる。余りと言えば余りの「気の行き方」ではあるが、ヒーローが当初の気を済ま

せるにはこれより外の手段はなかった。これが悲劇の傑作たる所以なのですね。

 近代劇の場合を見てみましょう。イプセンの「人形の家」は現状に満足していたノラが本当は

「気の済む」ような生活ではなかったと知って、家出という暴挙を敢えてする。近代女性の自立の

ドラマだと世間では持て囃されますが、果たしてそれだけの内容でしょうか。ここではこの指摘だ

けに留めて置きましょう。

 チェーホフのケースではどうか。「三人姉妹」を例に採ってみます。これは従来のドラマトゥル

ギーでは律し切れない新鮮で深みのある傑作で、解説に窮する部分もあるのですが、無理矢理に

遣って退けましょう。自分の気の済む理想の行動が許されていない、不満足な環境の中で、それで

も自分の「気の済む」行動を模索しながら生きる三人の姉妹の、精一杯に生きたいと足掻く葛藤

を科学者の合理性を以って、中立的に描いている。無論、作中の人物たちの気は済まないのです

が、「観劇者たる主役」の心の中では気が済む。その様に巧みに構成されている。劇的カタルシス

は十分に計量され果たされている。

 以上、本当に駆け足で述べた劇の骨格・真髄の描写ですが、実際の姿はこれに多彩な肉付けや更

には様々な衣装が付加され、豪華絢爛の 生命や人生の祝宴 が準備され整えられている。

そうです、劇の場は人生その物、生命エネルギーの祭典・儀式という性格を持っている。参加者

の誰もがその喜び、歓喜に参画できる。のみならず、観客、俳優、劇作家、その他の劇を有形無形

で支えている人々が優先的に祭りの恩恵に浴し、エンジョイ出来る最高の芸術なのですよ、少なく

ともその理想のパフォーマンスに於いては。


 と言う事は、理想の観客、理想の俳優、理想の劇作家達が本質的に要請される。それは人生その

ものの写し絵と言ってよく、完成への弛まぬ不断の努力が必要なのですね、根本の所では。





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最終更新日  2019年01月25日 10時10分02秒
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