草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2019年10月01日
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イエスは自分の敵を愛せ、と教える。

 これは私に限らずに、誰にとっても難しい。と言うよりも、むしろ至難の業というべきかも知れない。

 成程、自分に身近で親しい者や、友人、知人を愛する事は、自然の人情であり、誰にとっても容易い事

であろうが、敵を愛すとなると、たちまち誰にも出来ない、人間の理想的なあり方になってしまう。

 自分の敵を愛せたら、どんなにか素晴らしい世界がこの世に現出する事であろうか。しかし、それは余

りにもハードルが高すぎて、出来ない相談ということになってしまう。

 しかしイエスキリストは私たちに、汝の敵を愛せよ、と事も無げに命ずる。

 これは一体、どういうことなのか?

 所で、イエスにとって「敵」は存在したのか。敵がいたとしたら、それは誰なのか?



ずもないわけだから、彼・イエスキリストは確かに彼の敵を愛したに相違ない。その結果の十字架上の死

だったとも言える。

 すると、イエスは我々に十字架上の死を推奨している事に、なりはしないか…。しかし、しかし、これ

は通常人、俗人には不可能な事なのではないだろうか。

 そして、人類の罪を一身に背負っての贖罪が、イエスの死の意味だと言われている。と言う事は、誰も

が自分たちの犯した罪の、( この罪は謂わゆる原罪、アダムとイヴがエデンの園で蛇に唆されて知恵の

実である林檎を食べた事に始まる、各世代に亘る罪の数々、と言う事になろうか ) 償いの為に、地上

での生活の中で、各々、銘々がその分に応じて、贖罪を行う事を指し示し、そのような生き方を推奨して

いることにほかならない。そんな風に、私には感じられる。

 人間は本来、素晴らしい、愛すべき、賞賛すべき存在であった。それがどうしたはずみか、道を踏み間

違えてしまった。「悔い改めて」反省し、綺麗な身体と心を取り戻して、父の居る天国に入ろうではない



 これは、結論ではない、一つの解釈にしか過ぎない。格調高いイエスの教えが示唆する、ほんの僅かな

理解の一部、その片鱗に触れるもの。

 これから聖書を読み進める中で、私なりに理解を深めていきたいと、切望する。

 所で、敵は即ち、隣人であるとの解釈も可能だ。つまり、同胞 即 敵対者 とするもの。だから、己

自身も敵の中に含まれる。何だか、東洋の仏教的な思想が、知らず知らずに影響しているような気がしな



全くないのだから、残された時間のすべてを懸けて、イエスと真正面から向き合う努力を続けたい。

 そんな風に今は思っている、思っている。





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最終更新日  2019年10月01日 09時29分21秒
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