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2019年10月22日
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新約聖書の「ルカ伝」まで一応は読み進んでいる。

 最初に断り書きをしたように、一種のノヴェルとして読んでいるので、キリスト教信者の読みとは本質

的に意味が違っている。尚、蛇足めいて付け加えるならば、だからと言って 不真面目に 読んでいるの

ではない。真剣そのものだ。

 ノヴェルは日本語では通常 小説 と訳されているが、その表現に拘泥して言えば、謂わば 大説 と

して拝読しているので、救世主・イエスキリストとは、私にとって、76歳になる一人の老人にとって何

者であり、私自身の対話の大切な 縁・よすが として謹んで向かい合っている。事実、そうしているつ

もりだし、一心不乱に読み耽ろうと努力もしている。

 イエスには不可能という事がない。それは彼が神であるから、首肯出来る事。しかし、イエスは自分自



然の偉大なる能力を惜しげもなく発揮するが、十字架にかけられて処刑される父なる神が定めた、ミッシ

ョンには恰も屠所に就く家畜のごとくに、従順に従う。「アバ、お父ちゃん、何故に私をお見捨てになら

れるのですか?」という悲痛な最後の叫び声は、イエスの中の 人間 が弱音を吐いているに過ぎず、神

の子としての揺るぎのない信頼、絶対的な愛・安心は露ほどにも、揺らいではいない。そう、無条件で私

たちに感じさせるものが、根底に確かにある、間違いなく。

 そうであるから、同じ神性を有しながらも、父なる神と、子としてのイエスとの間には截然たる差別・

区別が、はっきりと置かれている。

 と言うよりも、キリスト教における神の存在は唯一絶対なのである。そう言った方が、より正しい

理解なのであろうか。

 先ず最初に存在した者と、その存在から続いて生まれでた者との、秩序としての差異と言う方が

良いのかも知れない。



そして、否である。絶対的な存在にはそもそも男女の区別はないのである。

 人間や動植物の位相に至って、種の伝達の為に、その便宜の方法として雌雄や男女の別が発現する

わけで、謂わば二次的な、派生的な問題である。男である、女である、そのこと自体に大きな意味を

置き、男尊女卑などという問題を持ち出すこと自体が、神から見れば次元の低い、重要でない問題なの

だ。そう、自然に認識して、あとは不問に付して問題のない、些細な問題意識でしかない。つまり、一人



はなかろうか。ここでは、一応そんな風に片付けておこう。

 すると自然に、神との関係と人間相互の関係の別が浮かび出てくる。人間の間の問題を神に頼るのは

よいが、例えば神の責任にするなどという不心得は許されない事。やはり、次元の違う事柄と承知すべき

なのであろう。

 神が不在で、従って神などという存在を頭から信じていない現代人にとって、一見不必要と見える問題

を持ち出したのは、理由がある。そもそも、人間に神は不要なのか? 人間などという愚かで儚い存在に

生きる、よりよく生を全うするなどという難しい業・芸当は可能なのであろうか…。

 現代の混迷、原始から綿々と続く大自然の脅威・圧倒的な暴力にどうして対処したらよいのか。それに

加えての人間の愚かな所業に依る自然界の狂い、制御不可能な暴走化現象に如何に対処したらよいのか。

 考えれば、考えるほどにお先真っ暗になるばかり…。

 自分の死んだ後の、この世の事などに誰が一体責任が持てようか。なのに我々は、何と浅知恵で、思慮

不足をも顧みることもなく、馬鹿な振る舞いに終始して、頬被りして済まそうとしている事か。

 救いは、完全なる救済と安寧は、神なる存在との正しい関係の中にしか見出すことは、出来はしないの

にも拘らず。少なくとも、いまの私には、そんな風に思えて仕方がないのだが…。





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最終更新日  2019年10月22日 10時04分02秒
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