草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年03月25日
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今回は何を書こうか、実のところテーマはまだ決めてはいない。とにかく、書く事にしようと思う。

 時間の経つのは早いもので、来月にある亡妻の命日まであと一ヶ月を切ってしまっている。

 昨年までは、長男の家族と、次男夫婦の総計七名が一堂に会しての偲ぶ会を、縁の深かった浅草今半で

行っていたが、今年からは別の場所を選んで、長男達とは大船近辺で、次男とは浅草か草加の近辺で実施

しようと考えている。

 岡田という素敵なお店が浅草にある。悦子が開拓して私たちに紹介してくれた、悦子縁のお店でもあ

る。次男夫婦も賛成してくれているから、第一次の偲ぶ会はこの岡田で行うことになるはずである。

 ただここに、問題と言えば問題がひとつある。それは私がこの店で、ハメを外しすぎて酩酊する習慣の

ようなものができてしまっている事だ。どこかの店で下地が出来ていて、ママの勧めてくれる日本酒がべ



笑を買うような醜態を演じてしまっている。

 悦子は何が嫌いと言って、この私の酒の上での酔漢丸出しのみっともない振る舞いくらい嫌っていた事

はないのだ。彼女の理想の夫たる者は、適度にお酒を嗜み、どのような場合でも品行方正な振る舞いを心

がけなくてはいけないのだ。そう、百も承知の私が、彼女を偲ぶ会の席上で、醜態を演じるのは、何とも

故人に相済まぬ所業である。

 だから、怖いような、楽しみでもあるような、妙な期待感のような物を胸に秘めながら、何処かで「な

に、大丈夫さ。悦子がしっかりガードしていてくれるから」などと、76歳を過ぎてなお幼さを棄てきれ

ないでいる愚かな老人は、極めてオプティミスティックな心境でいる。

 沈香も焚かず、屁もひらず、という表現がある。どんな貴人でも人のいないところでは、屁のひとつ位

は漏らすであろう。そんな、いいわけにもならない、バカを心中に唱えながら、馬鹿は死んでも治らない

の言葉通り、人様の顰蹙を買うような所業を、死の瞬間まで続けるのが、私の生き様というものなのであ



 こんな与太をはきながらも、出来る限りは、人目に醜く映る行動は、極力避けたいものと、真剣に念じ

ていることも、事実なのであります。私だって、惚れた女房から嫌われるような振る舞いを好んでしよう

などとは、当然なが望んでいない。

 しからば、どうする。どうも出来はしない。出来ないと諦めて、腹をくくるだけである。

 腹をくくった上で、自己を少しずつ見つめる。これなら、努力次第では可能であるから。



れるのでないかとの、安易極まりない甘い観測が、心のどこかに潜んでいるやもしれない。仏の顔も三度

と言う。最後よければ全てよい、とか。出来るだけ、老人に相応しい行動をして、何とかこの世を無事に

フェイドアウトしたいものと、切に望んでいる今日このごろであるが、人生にはいたるところに落とし穴

が潜んでいて、油断していなくとも、何事が起こるかは、予測がつかない。

 神のご加護と、悦子の深い、豊かな愛情に守られ続けながら、とにかく大過なく今日を過ごしたいと、

誠に、頼りない私の現状を、誰から言われたわけでもないのに、自ら進んで吐露してしまっている、これ

が私の掛け値なしの、正体なのであります。

 お前には完成を目指す向上心というものがないのか? そう問われれば、私にも向上心はあるし、人一

倍の見栄も、気取りもある。しかし、どちらかと言えば、他人の目を気にするよりは、自分の心が満足し

たり、満ち足りたりする事のほうをより重んじていることも、事実だ。

 誰のでもない、私自身の人生ではないか。自分の望みが叶えられないような生き様が、良いなどとはど

うしても思えない。自分本位や勝手気まま、とも少し違う。そう考えている。

 人様や公共の福祉に反しない限り、人は自由や気まま、気随が許されて然るべきだろう。

 さて、旧約聖書の件だが、エズラ記を終えて、エステル記にかかろうとしている所だ。正確に解釈する

ことは出来ない相談だが、神と人間との葛藤は同じような事柄の繰り返しで、一向に新しい展開が見られ

ないようである。まだまだ早計ではあるが、イエスキリストの出現による、新約の時代の到来がどうして

も必要であった。そんな気もして来ている。人間も変わらないけれど、神様の方も旧態依然、従って両者

の関係性も当然に変化が見られない。キリストの革新性はこの基本的な構造を破るべく、実行されたが、

結果から見れば、失敗に終わったかの観がある、愚見によれば。

 未熟なる者、不完全な存在と、完熟した者、完全な存在との間に折り合いはつかないだろう。両者は完

全に平行線状態を続けるであろうから。だから、キリスト教的な世界観からだけでは、埓が開かないの

だ。従って、異質な宗教の、例えば仏教の教えが要請されることが分かる。少なくとも、異教徒であり、

神国の大和の国の血を受け継ぐ私などには、ぴったりとくる。

 世の中の事は思うに任せないと言うが、愚かで教養の足りない私などは、自分自身のことすら、自分の

思うに任せない事柄ばかりだ。つくずく情けなく思うことがしばしばである。

 しかし、例えば仏教の尊い教えでは、思うに任せないことを思うに任せようとすることから、苦しみが

始まるのだから、そのような小我を放擲せよ、と教える。小我を捨て、宇宙の大我と同化し、安心立命を

得よと説く。成程、そのようなことが可能ならば、苦しみも軽減されるかも知れない。しかし、その道の

専門家でない限り、簡単に小我を捨てるなどという芸当は、おいそれとは出来はしない。

 ジタバタしたり、悪あがきをしたり、他人から軽蔑されたり、要するに人から見て立派だと、感心され

るような生き方が出来ないからと言って、無闇に悲観するには及ばない。どんなケチな人間にも、ひとつ

くらいは美点や長所が与えられている。

 だから、無闇と他人と自分とを比較するのを止めて、自信を持って暮らせば良いのだ。何しろ、創作者

の大基は神という名の絶対者なのだから。無条件に己の生存を、この世に生きてある事実を肯定すればよ

い。夜明けの来ない夜はないのだから。あすの日に東から昇る太陽の光を夢見て、その暖かな光、そのぬ

くもりを全身に浴びる準備をして、安らかな夢路を辿るに如くはない。

 それが人生さ。我々が生かされてあるという、真の意味なのだ。ただ日輪と共に歩もう。星辰とともに

安らかな眠りに安住しよう。全ての禍や、不幸は一場の夢、幻と化する時が巡ってくるに相違ない。

 証拠、確信、エビデンス。そんな戯言を言っているから、不幸を、被らなくとよい災厄を呼び込む事に

なるのだから。神の大きな掌の上で遊ばせてもらっている事実に、気づきを持とう。

 さすれば、安心立命は間違いのないこと。全ての暗い予測は杞憂にしか過ぎないことを、肝に銘じよ

う、貴方も、私も。





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最終更新日  2020年04月07日 17時01分57秒
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