草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年06月07日
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またぞろ夢の話から始めます。真剣な、そして大真面目な話の相手になってくれる相手を失った今は、神

仏との対話しか残されていないのだが、残念ながら私にはその為には、修行が足りな過ぎる。

 そこで勢い、自分自身と向き合う形になり、そしてその流れの中で、来し方を振り返り、あれこれと

還らぬ昔の事柄を反省したり、点検してみることになる。

 自分は様々な人生上の重要な局面で、誠実さに欠けるところはなかっただろうか? 相手に対していい

加減に対応したことはなかっただろうか……。

 すると、答えは直ぐに谺のごとくに帰って来る。「お前は、いつだって誠実そのもだった」と。

 そうなのだ。私という男はどこまでも純だし、純粋過ぎるくらいに誠意を以て接していた。

 結果が上手くいかなかったのは、決して私の側の不誠実な対応ではなかった。そう、躊躇なく断言でき



だが、「あのような不幸な結果」に終わったについては、忸怩たる思いが残って、後味が悪い。夢見が

悪い。

 それでは、翻って相手が全面的に「悪かった」のであるか? 然り、そして、否である。

 それは、一体どういう事なのか? 真相は、相手の側も意識した不誠実はなかった。また、ある意味で

真剣そのものだったに相違ない。だれが、人生の大事に臨んで「いい加減で」いられようか。その意味で

人間の側に「落ち度」は全くなかったのだ。ただ、行司役の神仏からの誠に辛辣極まりない「判定」が下

ってしまっただけの話で。

 ここでまた、野次馬の無責任な声なき声が、私に降りかかってくる ―― お前は、無責任男だ。自分

の責任を他に、神仏などというマヤカシの言葉を弄して、責任転嫁しているに過ぎない。お前の流儀は

いつだって無責任な、遁辞を口から出任せに、発しているに過ぎない、と。

 野次馬には、勝手放題を言わせておくに限る。ここからは、本当は内緒にしておいた方が良いのだが、



てはおりませんで、却って「悪いことをしてしまった。取り返しのつかない仕打ちをしてしまって、本当

に申し訳もないことでした」と、そう、風の便り(そういうことにしておきましょう)に聞いておりますか

らね。もうこれだけで、私の心は休まるのですが、人の善い、善人にすぎる私は、尚且つ、細部にまで何

度も詮索の再訪を繰り返しては、ああでもない、こうでもない、と、還らぬ往時を振り返り、反省しない

ではいられないのであります。



伝えた傑作の物語であります。内容の説明などは此処では省略しますが、人間の行動や運命に天上の神々

の考えや感情などが大きな影響力を持っている様が、巧みな話術で描写されます。神々とは言え、ゼウス

を始めとして、極めて人間臭い所が強調されているのが、ギリシャ神話の神々の特徴です。

 大まかに言えば、神と人間の違いは不死であるか、短命の定めの下にあるかの、違いだけです。

 さて、古代のギリシャと二十一世紀の日本。英雄と凡人の違いこそあれ、私に関しても神々、ここは

日本でありますから、神仏と並び称さないわけには行きませんので、神々や諸仏、並びに諸菩薩方が天上

で下界を見下ろしながら、様々な評定を繰り返され、評議一決、あの様な「両者にとっての不幸」な結末

へと、導いて下さった。その後の事は、私に関しては天上世界にも劣らない幸福の絶頂へと、誘われたわ

けですが、あの御方、そして、この御方に関しては実地に検証する術がありませんので、これは私の六感

に拠る当て推量にしか過ぎませんので、確かな事はいえませんけれど、余り幸せと言えない人生を辿った

と思われます。

 私の信奉する神や仏は絶対的に公平無比であり、えこ贔屓のえの字もありませんので、その人の心がけ

や人生に対する態度その他を総合的に勘案して、相応の判定を下しているに間違いがないのです。

 私は、自分自身に就いて百パーセントの自信を持っているのは、愚直なまでに誠意・誠実を貫き通す

その一途さ、なのであります。バカが付くほどの純粋さなのであります。

 良くも、悪くも、これが私の身上であり、特色でもあった。しかし、度外れという形容詞が付くと、良

いことばかりが有ったわけではなく、誤解される事の多い、私にとっては非常に迷惑な、理由のわから迷

惑を殊のほか数多く被っております、実際。

 これも身から出た錆と、半ば呆れ返っておりますが、翻って考察を逞しくしてみると、世の中には「人

の悪い、不純で、不誠実で、意地悪」が無数にいる計算になりますね。で、よくこんな汚泥まみれの不潔

な憂世で、私の様な者が、曲がりなりにも生きて来られたものだ、と呆れるやら、驚くやら。

 強引な論を敢えて申せば、そんな風に普通に生きていて問題ない「悪党達」を思わず知らず、あぶり出

してしまった私も、無罪ながらも「罪作り」な存在なのでしたね。

 他人と比較するのはよくない、と事ある毎に言い募ってきたわたしであるが、自分自身を、その特異な

在り方を得心するには、世間を、通常の有象無象をある程度までは知る必要があった。その必要上で、比

較することは、止むを得ない事なのだったと、一部分訂正を施さなくてはならないでしょうか。

 人は誰でも自分自身をしか「知らない」ので、他人を評価する場合に、ああいう時には自分だったこん

な気持ちでするだろう。従って、あの人も、ああしている以上は、こんな気持ちでいるのだ。だとすれ

ば……、などと、他人のよくは分からない気持ちや、考えなどを推測する。

 この場合に、基準となるのは飽くまでもその人自身なので、従って出される人物像は、対象となった人

ではなくて、観察している人物が投影されたもの。悪人なら、悪人像が投影するだろうし、善人なら、善

人らしいそれが描かれる事になる。

 その結果で、どういう事が起こるかと言えば、観察された当人の姿はそこにはなく、いつだって無関係

な観察者の似姿が現出することになる。

 「善人」の私が、ある人の影口にかかると、非常な「悪党」になってしまう。このカラクリを夢にも知

らなかった私は、純粋に吃驚仰天してしまった。なんで、そんな不思議な事が起こってしまったのか。

 後になって、眼からウロコが落ちるように知ったことだが、私をワルだと断定した御仁は、私には想像

も及ばない程の、悪であり、擦れっ枯らしだったに間違いのないことだった。

 誰かの、誰かに対する批評や評価は、批評された人物であるよりも、評価した人間にこそ酷似している

ものだ。これは、どの様な高級な人物批評においても、その儘で通用する普遍の原理である。

 これは、人間に関して私が理解を深めるに従って、益々、確信を深めるに至った一真理である。

 神々のあり方が、人間臭さを免れないのも、この真理の応用編として捉えて、間違いのないところで、

多くの場合、神が人を作ったのではなく、逆に人間が勝手に神の姿を作り出しているからこそ、そう言っ

た珍現象が起きてしまっているのだ。これは、一事が万事という、深遠なる諺の一例を示したのに過ぎな

い。

 私は素直であるが、自分で納得したことだけしか、本当には信じられない、頑固一徹な性質も、併せて

持っている。これは自分の性分を、単に吐露したに過ぎず、それ以上でも、それ以下でもない。

 その意味では、私の神や仏は、一点の曇りもない真澄の鏡の如き存在であって、其処に映し出される映

像は掛け値なしで、正真正銘の本物の在り方を、寸分の狂いもなく客観視させて下さる。

 人間を騙すのはわけもなく出来ることですが、神仏を偽ることは、金輪際できないことなのでありま

す。四方を鏡に囲まれたガマの蛙は、己の醜い姿に恐れをなして、たらり、たらりと油汗を流すとか。

 どうか、その醜い蝦蟇にならないよう、自分の平素の姿を努めて清らかにする努力こそ、我々に課され

た人間としての勤めと心得、どなた様も、悔いの残らない毎日を送りたいものですね。



 何故、こんな言わずもがな、の事柄を念押しするか、私が受けた邪推の数々を想いやって頂ければ幸い

であります。





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最終更新日  2020年06月15日 19時29分39秒
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