草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年10月02日
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今回は 人間と悪魔 との関係について書いてみようと思う。

 私たちは、とりわけ私などは、悪魔ほどでは無いにしても、悪の誘惑に弱いから、悪魔の存在を無視し

ては生きられないのです。

 正義に憧れ、正義を果敢に遂行したいと心に念じているのだが、己の信じる正義に忠実だった記憶は残

念ながらない。逆に、悪(魔)の誘惑に乗るまいと思いつつも、易易とその毒牙にかかった、無念の思いが

数々思い出され、慚愧の想いで今でさえ胸が痛む。

 少々理屈っぽく言えば、悪にも絶対的な悪と相対的な悪があって、人間の犯す悪は「相対的な」それで

あって、「絶対的な」それには及んでいない。そう私は思う。

 然らば、絶対と相対との違いは何かと言えば、絶対者と相対者との相違に準じて、神と真正面から対峙



 従って、絶対者たる神の領域に近づくことを許されない典型的な相対者たる人間は、悪魔に近づくこと

も、ましてや悪魔そのものと化する事も出来ない。

 ここでも又、人間とは善と悪の中間に位置する、中途半端な存在であることが知れる。下世話な言い方

をすれば人間の犯す罪咎・悪の類など高が知れていて、実にちまちましたものだとも言えるだろうか。

 しかしまた、それだからこそ始末に困る、或いはたちが悪い、処置に困る。そうも言えるわけだ。

 常識的に言えば、人間・人類が犯した最大の悪は「無意味な」大量虐殺たる戦争であろうか。「汝、殺

すなかれ」と真っ先に神が我々に命じるのは、産みの親として子供の性質を熟知するからには、当然のこ

とであろうか。

 無意味と言ったのは、「あらゆる口実を設けて」、「時には正義の旗印の下に」と同義である。人間は

本質的に「殺人が好き」なのだ。

 私はこれまでにも何度かブログ上で、「人間・人類は本質的に殺人、同胞殺しが大好きなのだ」(大好



ば、残念ながら間違いではないようだ。残念ながらと書いたのは、この様な私の暴論に対して、世の識者

からの厳しい叱責と慈愛あふれる教えが示されることを、強く、強く期待している気持ちもあったから

だ。だから、今のところ私の所説は間違いなどではない、という前提の下にこれからの論を進めたいと思

う。

 そもそも、生物、とりわけ動物はおしなべて他の生命体を食料としなければ己の命を維持し、尚且つ活



生物というものの基本の在り方だ。人間も、勿論その例外では有り得ない。必要に迫られれば共食いさえ

辞さないし、それ以外に生きるすべが無いと知れば、親兄弟の肉であっても食べる生き物だ。

 自然界の動物と人間に異なる点があるとすれば、本能のみで生きるか、知性という「贅物」を併せ持っ

て生きるかの違いである。

 聖書によれば人類の祖・アダムとイヴは蛇の唆しに乗って、神から禁じられていた禁断の木の実・林

檎(諸説があるようであるが、ここでは一応そうしておく) ― 知恵の果実を食べたことによって、造り

主たる神の意向に反して、善悪を判別するようになったらしい。私が知性を贅物と表現したのは、神から

すれば正しいのであるから、どうぞ、ご不満のある方は神の方にその尤も至極な矛先を向けて下さるよう

にお願い致しますよ。

 本能という非常に清潔で簡明な原理に支配されて生きる野生動物は、皆様もご承知の如くに非常に美し

く、また立派な生き方を全うしている。この事実を、素直に私たちは認めなければいけないでしょう。人

間の浅知恵は遂に本能を克服することは出来ないでいる。また、克服する必要もないことでありましょう

か。善悪の彼岸という言葉があります。フリードリヒ・ニーチェの命名から来ている。

 善悪の彼岸とは、譬えば生きることが絶対命題である動物にあっては、善も悪もない。とにかく生きる

こと、生きる本能を充足させる事こそが、全てであります。よい とか わるい とかの価値判断が入っ

て来る余地もないわけで、非常に健全で、尚且つ、完璧であります。

 完璧・完全である理由も明快です。絶対者の与えったものである故に、本能は絶対的に信頼すべき基準

であり、相対者である人間が定めた善悪であるから、絶対的な基準たる本能に劣る。

 こうして理詰めで押してくると、驚くべき結論に達します。不潔で、嫌らしい筈の常識的な本能観が根

本から覆されてしまっている。おかしい、全くおかしい。そう考える御人は、神を裏切った人類の祖の正

統なる後継者の名に値する、不届き千万な輩という事になる。理屈を申すならば。

 モーゼの十戒に、父母を敬うこと、殺人を犯してはならない、姦淫をするな、盗み・偽証の禁止・隣人

の財産を貪るな、などが人間社会での最低限の掟として定められている。

 これらのことは、ごく普通の人間として当たり前に己に禁じなければならない事であって、それを守っ

たからと言って、一個の人間として褒められる事ではない。極めて緩く、やんわりと箍を嵌めているに過

ぎない。裏を返せば、野放しにしておくと、人間は「父母を敬わず、人を殺し、姦淫をし、盗み・偽証・

隣人の財産を貪ってしまう」始末に負えない代物なのだという、確たる認識が先ずあったから、出て来た

禁止事項にしか過ぎないのだ。

 この人類性悪説にはやるせない思いが禁じえない。余りに真実過ぎるから。救いが無さ過ぎる。今の私

には神の完全無比なる人間認識に反論する蛮勇はない。ただ、人間の一人としてささやかにプロテストを

試みたいと思うのみ。

 人間は、人類は猿の一種であるが、それは別に恥ずかしい事ではない。恥ずかしいとすれば、知性を誇

りながら、その知性を未だ己の自家薬籠中のものとして、完全にコントロール出来ていないことであろ

う。我々の生みの親たる父の慧眼は当然のことながら流石であった。

 しかし、良くも悪くも一旦は知性・知恵と言う利器を所有した以上は、それを有効かつ人類の幸福に役

立つ為に、精々有効活用するしか仕方がないのである。

 ソクラテスは 己自身を知れ と教えた。「己を知る」とは終わりのない途轍もない探求であったこと

を熟知した哲人の、最も神に近似した叡智にして言えた事であって、凡人が簡単に理解して、実行できる

事柄ではない。哲人はそれを承知の上で、半ば以上己自身に向けて言った。

 さて、魔に魅入られる、とか、魔が差す、と言った表現から窺えるように、魔は一瞬にして我々の心を

毒の如くに麻痺させ、通常では想像だに出来ないおぞましい行為へと駆り立てるもののようだ。

 ナチスドイツ・ヒットラーのユダヤ人大量虐殺などその典型例なのであろう。時代と人との不思議な取

り合わせが、あの様な悪魔の所業を人間の一人にさせたのである。恐るべし、悪魔。恐るべし、人間。

 もう一つ、悪魔に魅入られた例を見ておこう。上田秋成の名作「雨月物語」の 白峰 に怨恨の権化と

化した崇徳院が天性の天才歌人・西行と論争する話が語られている。勿論フィクションであるが、現実以

上に恐ろしい迫真性をもって語れている。『 時に峯谷ゆすり動きて、風叢林(はやし)をたをすがごと

く、沙石(まさご)空に巻上(まきあぐ)る。見る見る一段の陰火君が膝の下より燃上がりて、山も谷も昼の

如くあきらかなり。光の中につらつら御気色を見たてまつるに、朱(あけ)をそそぎたる龍顔(みおもて)

に、おどろ(乱れた)の髪膝にかかるまで乱れ、白眼(しろきまなこ)をつりあげ、熱き息をくるしげにつが

せ給ふ。御衣は柿色のいとうすすびたる(煤、垢、塵などがついて、薄汚れること)に、手足の爪は獣のご

とく生(おい)のびて、さながら魔王の形(かたち)あさましくおそろし。』― 天皇であったお方がこの様

な浅ましい姿に変じてしまう。何と恐ろしい事であろうか…。

 人間と悪魔の関係について考察しているが、人間とは何と色々様々であって、しかも何と中途半端な在

り方に終始していることか。悪人にしてもせせこましく小粒であり、どこか道化じみている。現実では御

免被りたいが、お芝居やドラマなどでは精々カタルシス・精神の浄化の為に、大悪党が縦横無尽に暴れま

わって観客の胸をスカッとさせてもらいたいと思っているのだが、現実の制約をフィクションにおいても

逃れることが出来ないのが、我々の有り様だ。同じ道化でも、シェークスピアが描いたフォールスタッフ

ぐらいにまで徹底すれば、もう一種の英雄の如き相貌を帯びてこようものを。

 私の一応の結論 ― 本当は人間礼賛をしたかったのだが、どちらかと言えば、おぞましい悪魔礼賛に

偏りたがる自分の心を抑えるのに非常に苦労した。つまり、両極端は同義であって、悪魔とは神の見せる

或る一面にほかならない事を、知らされたのであります。結局は神様を鑽仰することに行き着くようであ

る。





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最終更新日  2021年03月04日 21時23分57秒
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