草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年10月15日
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今回は、妹について書いてみます。

 実は、妹について書くにはあるリスクが伴うので、実は躊躇する気持ちもあるのですが、その気持は

すでに克服しました。

 私と妹の郁恵とは、幼少の頃から、五十五歳で病死するまで、常に非常に「仲良し」でした。板橋の実

家に私が家族と一緒に生活していた頃、御近所の主婦が、「克征ちゃんと郁恵ちゃんはまるで恋人みたい

に仲がいいね。あんなに仲良しの兄妹も世の中には珍しいよ」と、母に告げたそうです。母曰く、「あの

人はね、根性が悪くて、他人の事を悪く言っても、褒めるようなことはないのだよ」と。

 そうです、他人から見た私と妹の関係は恋人同士のように見えていたようです。

 妹の郁恵がまだ三歳位の幼い幼少期に、妹は母の仕舞い忘れた裁縫用の裁ち鋏で遊んでいて、誤って自



いるので、それで瞳を傷つけてはひとたまりもありません。不幸中の幸いと言うか、上野池之端の眼科の

名医の適切な処置で、最悪の両視力喪失という事態は免れる事が出来ました。

 つい昨日まで、非常なお転婆ぶりで活発だった妹が、青菜に塩とはこの事と言った意気消沈ぶり。幼心

に私は妹が不憫で、不憫で、仕方がありませんでした。そして、将来は医者になろう。そう決心しまし

た。決心しただけではなく、学校の担任や家族にもそう告げたのでした。勿論、その理由は明かしません

でしたが。

 するとある日、同居していた父方の祖父が、「克征、お前の気持ちはわからないではないが、今の医学

の水準では、いや、将来の医学の進歩があっても、一旦視力を失った者に視力を回復させることなど、不

可能なのだよ。残念だがね」と言って、幼い私の無謀な計画を断念させたのでした。

 私に一体、医者になる能力があったか。また、家庭にその財力があったか。それは自ずから別の問題で

した。私としたら、罪もない妹が理不尽にもとても耐え難い不幸に見舞われたことが、我慢できなかっ



 例えば、学校で仕入れてきたばかりの面白い話を、夜寝る前に妹に語って聞かせた。すると幸いなこと

に無邪気な妹は、手放しで喜んでくれた。「克坊兄ちゃん、また、あの狼の話をして頂戴ナ」と毎晩の様

にリクエストがありました。私は気をよくして、精一杯話を膨らませて、瞬きもせずに私の口元に視線を

向けている妹に語って聞かせた。話の内容は、大食らいの狼が子供たちを大勢食べてしまった挙句に、調

子付いて、食べ物を散々食べ尽くした果てに、ついには食べ物ではないものまで口にして、最後にはナイ



お腹の皮を切り裂いて、無事に生還するという、一種のナンセンス物でした。

 妹が余りに面白がるので、私も精一杯話を膨らませ、演出にも工夫を凝らして、妹を楽しませることに

成功したのでした。

 話は飛びますが、片目の視力を自分の過失で失った妹ですが、ごく限られた人だけにしか自分の身体的

なハンディキャップを告げないで、妹は一生を健気に通常の健常者として、立派に生き抜きました。そし

て、普通高校を優秀な成績で卒業し、ある生命保険の会社に通常の社員として入社し、上司たちから特別

に贔屓にされた模様です。そして、結婚。それにつては次のようなエピソードがありました。

 プロポーズを受けた際に、相手にこう言ったそうです。「私のすぐ上の兄に会ってください。その兄が

OKを出せば、私も大丈夫です」と。これを聞いた私も驚きましたが、相手の博君は開いた口がふさがら

ない思いをしたようであります。親の承諾と言うのはよくありますが、次兄の審査を受けろと言うのは、

先ず聞いた事がなかったから。またまた、話が少し飛びます。

 晩年の父親に、妹が非常な親孝行で仕えた。そう言った現代の珍しい美談であります。

 父の事はブログでも殆ど触れていません。私が触れたくないと思っていたからです。ですが、妹のこと

を話すについては父の不祥事を端折るわけには行かないので、簡単に暴露致します。

 父は、若い頃の父は事業をする上でなかなか目端が利き、戦後という混乱期という要素も味方して、か

なりのボロ儲けをした。しかし、様々な要因が重なって、中年にしてサラリーマンに転向せざるを得なく

なった。ぼう大手銀行に中途就職をしたのですが、定年を間近にして、女子行員と、それも実の娘以上に

年の離れた若い女性と男女の関係になった。のぼせ上がったのは父親では無く、女性の方だった。女性の

両親が荒縄で娘を柱に縛りつけても、それをいつの間にか振り解いて私の父の元に走った、らしい。

 父としては男の最低の責任を取る形で、母に無理やり離婚届けに判を押させ、その女性と所帯を持っ

た。土地勘のあった王子駅に近い堀船で赤提灯・もつ焼き屋を夫婦して営み、当時職人の街と言われた場

所で、大変な繁盛店に盛り上げた。しかし、やがて父の後妻となった女性が常連客の一人と駆け落ちし

て、年老いた父は寂しい晩年を迎えるに至った。( ああ、疲れた。さあ、ここからまた妹の話に戻りま

すよ )

 このもつ焼き屋「正美」を、妹が本格的に手伝うようになった経緯です。それまでにも、忙しい時に臨

時のアルバイトとして、何度か店を手伝っていたが、「気の毒」な父親の為に、一肌も二肌も脱ぐ気にな

ったのもとても優しい妹の心根が、そうさせたようです。もう一つ、夫博君との夫婦仲も悪くなりかけて

もいた。妹は元々客商売が肌に合っていたのでしょうか、「掃き溜めに鶴」のような妹の美貌や容姿に惹

かれて通う常連客も少なくなかった。父の為と始めた客商売だったが、だんだん面白くなって、生きがい

と感じるまでにのめり込むのに、そんなに時間はかからなかった。

 私は、プロデューサー稼業が一段落ついた頃で、時折「正美」に通って、店を早仕舞いした妹や、常連

客と色々な場所に飲みに歩いた。勿論、カラオケも散々歌った。妹は歌の方もなかなか上手で、天童よし

みの「珍島物語」や、加藤登紀子の「百万本のバラ」などは十八番にしていました。

 ここで、私の十八番の愛妻・悦子に登場してもらいましょう。悦子は、郁恵と私の仲にひどく嫉妬した

のでした。悦子が具体的に嫉妬した女性は、私の母と妹だった。

 私は、綺麗事を言うわけではありませんが、所謂浮気をした試しがありません。「私も女ですから、浮

気をしたのが解かれば、嫌ですから、浮気をするのなら、私にわからないように上手くしてください

ね」、と悦子は言った。私の母と妹との関係は悦子にとって「浮気」以上に忌々しい、嫉妬の炎をいやが

上にも煽り立てるものだったようです。

 こんな事があった。仕事の関係で、阿部 寛さんの舞台を両国で観た足で、タクシーを飛ばして「正

美」に寄った。その夜は疲れている事もあって、外の店には私は行かなかった。家に帰ると、珍しく早く

帰って来た私の顔を見て、「こんな時こそ、郁恵さんの所にでも、顔を出して上げれば喜んだでしょうに

に」と悦子が柄にもなく言ったものです。私は嘘を言う理由もなかっが、何となく妹の店には行かなかっ

たと、言ってしまったのだ。

 所が、悦子はどういうつもりだったのか、翌日に「正美」に顔を出して、「克征さん、最近は仕事が忙

しくって、此処にもなかなか来られないのよ」と、気の毒げに言ったそうだ。妹は、「あらッ、お兄さん

なら夕べ寄ってくれましたよ」と、さも愉快そうに答えたとか。

 さてここで嫉妬という人間に普遍の感情について考えてみたい。十分に満たされていると自足している

者が、滅多矢鱈に嫉妬したりするものだろうか。病的に嫉妬深く生まれついた者以外、それなりの飢餓感

を常に抱いていない限りは、通常は嫉妬を覚えないだろうから、嫉妬心を自他に対して発したりはしない

はずである。

 すると、母や妹に要らない嫉妬心を起こさせた夫たる私の責任である。嫉妬した悦子を責めたりしては

断じていけないわけだ。当時は、若気の至りというほどには若年ではなかったけれど、人が練れている方

であればすぐに反省して、それなりの対策を講じるなり、何らかの方策を立てたであろう。もう全てが後

の祭りであるが、悦子許して欲しい。当時の私はそれなりに全身全霊で君の愛情に応えるべく、努力をし

ているつもりでいた。しかし、母や妹に嫉妬させるとは、どう考えても、私の愛情表現の不足であったと

今の私には思える。

 「正美」に寄って来たのに、寄らなかったと嘘を言ったのは、前の経験から要らざる嫉妬心を掻き立て

る事は言わないで置く方が、得策だと、ただ深い考えもなくその場の判断で、口にしたに過ぎない。もっ

と賢明でフェアーな、逃げを打つのではなく、真正面から妻に向き合う努力を地道に続けるべきだったの

に、それをしなかった。慚愧の至りである。

 妹の話は常に悦子の蔭を意識しないではいられない。現実がそうであったから。妹・郁恵の最後につい

て述べる際にも、それは免れないことだ。

 郁恵は五十を前にして乳がんを発症して、医者の診断を仰いだ時には、即座に手術をしなければ余命の

半年も保証できないと、癌研の医師から宣告を受けていた。妹はそれを無視して、「正美」の仕事を続け

た。手術を受けたのでは今の仕事を断念しなければならないだろう、そう考えた。生き甲斐を捨てては生

きていても意味がない。そう、いい悪いではなく、決断した。私は後で妹からその話を聞いて、妹らしい

と思った。彼女の人生である。思うように生きるのが良いのだ。私は可愛い妹の生き方、死に方を背後か

らじっと見守るしかない。

 妹は、五十五歳で築地の聖路加病院のホスピス病棟の、まるで豪華な高級ホテルのような病室で、静か

に息を引き取った。臨終の直後に、ベットに横たわる妹の全身の上に、鮮やかな金粉が数秒間立ち篭めて

いた。殆ど徹夜状態で看病していたから、異常な神経が私にだけ西方浄土からお迎えに見えた阿弥陀如来

様の神々しさの片鱗が、垣間見えたのだろうか。その時に私は、「分かったよ、君は十分に美しいよ」と

周囲の人に聞こえる声音で言っていた。その心は、自分の美しさをベットサイドを取り巻いた皆に、誇示

したかったのかと感じたから。立ち会っていた看護婦さんの一人が、そんな際なのに「クスッ」と笑った

のを、何故か覚えている。

 悦子のこの際の反応その他については、あまり諄くなるといけないので、省略します。源氏物語の作者

から学んだ手法です。





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最終更新日  2020年10月15日 16時23分31秒
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