草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年10月22日
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今回は正直という事について書いてみます。

 正直とは文字通りに、正しく素直であることを意味します。それでは、正直者は嘘をつかないのでしょ

うか? 意識して、相手を欺く為に嘘をつくことはないのでしょうが、全く嘘をつかないことは、恐らく

ないだろうと想像されます。しかし、実相は私にはわかりません。

 誰にも差し障りのないように、私自身を俎上に載せて話を進めてみましょうか。

 私は普通に「正直」な方だと自分をみなしているのですが、それでは嘘をつかないと言えるのか。いい

え、私は嘘をこれまでに何度もついています。しかし、詐欺師の様な他人を騙して悪い事を仕掛ける、悪

党の嘘は一度も口にした事はありません。一般に、嘘 = 事実と違う言明 が人を傷つける為に有害で

あるとすれば、嘘そのものに罪はなく、従って「嘘も方便」と言う仏教由来の諺も生きて社会に役立って



 いつの場合でも大切なのですが、対象との距離の取り方が問題なので、対象だけ、今の場合には

「嘘」だけが悪者にされる云われもないわけですね。

 フィクション、つまり作り事、事実ではない嘘の話は、それ自体に罪や咎などは全くないわけで、フィ

クションと承知の上で送り手も、そして受けても双方共に楽しんでいるわけで、そこからは何の害も障

害も生じて来たりしないものです。

 芝居や演劇、小説や物語などを、嘘、つまり事実通りではないと承知で楽しむのは、息抜きやパスタイ

ムの手段として極めて有効かつ効果的な時間の過ごし方であって、嘘の効用が最高度に発揮されたもので

ありますね。

 学問の発展にも嘘は大いに役立っている。所謂「仮説」と呼ばれている嘘ですが、仮説が事実と裏付け

られたり、科学的な検証で事実と証明された場合でも、仮説は飽くまでも仮説のままであります。事実と

見做しても有害ではなく、却って生活に役立つ場合に該仮説は事実に限りなく近い仮説のままで、人間社



 その典型例が最新の宇宙物理学で唱えられているビッグバン説であります。真空の中に何処からともな

く姿を現した宇宙の種が、瞬きする間もないくらいの瞬時に、林檎大の灼熱した塊へと成長し、その塊が

大爆発を起こし、今日の大宇宙を生成した。

 講釈師、見てきたような嘘を吐き、と言われましたが、この最新の科学者の吐いている「大法螺」に比

べたら可愛いものでありました。



んでいる世界自体が孕んでいる不思議、本当にパラドォキシカル(二律背反的)な性格に由来するのであっ

て、断じて科学者達の責任ではありません。

 真から優秀な科学者であるほど、絶対者なる神の存在を信じないわけにはいかないと、言われますが、

宜なるかな、宜なるかなと、心から首肯出来るのです。私は科学者でもましてや、優秀でもありません

が、ある時から私なりの神を感じ、常時、その神からの働きかけを感じながら生きております。

 何事にも厳密で論理的な科学者と、ファジィー過ぎて、非論理的な夢想家の結論が端無くもぴったりと

一致するところが、非常に面白いと言うか、興味尽きない現実の持つ不思議さなのです。

 何度も言いますが、劇聖シェークスピアは真の詩人ですが、同じ詩人の現人神・キリストイエスと酷似

しています。その証拠は、醜いは美しい、綺麗は汚い、と登場人物たる魔女に言わせている一事からもそ

れがわかりますが、イエスも「栄華を誇ったソロモン王ですら、野の百合程の豪華な衣装を身に纏った事

は無かった」と、さり気なく仰っておられる。

 コロンブスの卵で、誰かに言われてみれば、皆が一様に頷ける事柄も、稀有の天才が指摘するまでは、

見れども見えず、聞けども聞こえないのが我々の常ではないでしょうか。

 嘘に関しての記述が多くなっていますが、スタートは正直という人間にとって非常に重要な徳目であり

ました。嘘がこんなにも我々にとって重要であるならば、正直は更に重要な何物かをもたらしているに相

違ないのです。

 正直の頭に神宿る。少なくとも大和の国の神々は正直である事を、いの一番に好み、愛した。人々は皆

一様に正しく、素直を専らとしましたから、神から愛される生き方を自らの生き方とした。しかし、そう

した平和で牧歌的な生活は長くは続かなかった。恐らくは、物々交換の経済から、貨幣経済へと変化し、

他人を出し抜いてボロ儲けする不埒な輩が幅を利かす時代が到来すると、正直者が損をする現代と大差な

い歪で嫌な風潮が、炎の様に人々の純真な心を火傷させ、その傷が心全体に悪影響を及ぼして、悪習が世

の中に蔓延するに至ったのでありましょう。

 正直者がバカをみて、悪党だけが大笑いする社会が到来し、定着すると、悪知恵に長けた者が我が物顔

に社会の上層に伸し上がり、支配者面をして憚らない。もう正直などクソの役にも立たないのだ。人々は

心の底で自分自身にそう言い聞かせる。正義は必ずしも勝たない。それどころか、勝てば官軍でそのまま

居座ってしまえば、悪も善もないのだ。

 人々は必然的に、人を押しのけて勝つことだけを目指すようになった。手段は武力であり、次いで、金

銭力・資本力の時代が来て、今日に及んでいる。

 正直は無用の長物と完全になりおおせてしまったのか。イエス、そして、ノーである。少なくと、日本

の神々は庶民を見捨てたりはしていない。イエス流に言えば、正直者は地の塩である。この世になくては

ならないものだ。たとえどの様な時代が来ようとも、正直という徳は私たちに必要不可欠な最重要な、生

きるに欠くべからざる要件で有り続ける。

 貨幣経済が悪いのだと言っても始まらない。便利という魔物の魅力は今尚健在であり、これからも姿形

を変えて我々を蠱惑しまくるであろうことは、想像に難くない。覆水盆に還らず、一度覚えた便利の甘さ

は捨てられはしないだろう。

 貨幣経済だけではない。何にしろ今現在あるものは、在るべくしてある。つまり、人々がそれを欲した

から。今ある何かを在るが故に糾弾することは、つまり欲したことは悪いことだったと、へそ曲がりな不

平を鳴らすだけの児戯に等しい行為とは言えない行いである。

 生きてある限り人は、何事かを欲し続けるであろうし、欲するとはある種闇雲な衝動である。闇雲な衝

動に注文を付けてみたところで、何も良い結果は出て来はしないのだ。然らばどうする? どうも出来は

しない。出来るとしたら、悪足掻きだけだろう。

 方向転換しよう。正直の反対は、邪悪でねじ曲がっている根性、と言う事になろう。現代は少なくとも

私の知る限りではその最たる時代である。振れるだけ振れたら必ずその反動が来る。しかし、しかし泡粒

の様にたまゆらの間に生まれ、次の瞬間に消えてゆく個人はその時、最も振り切れて反動に移る瞬間ま

で待つことなど許されてはいない。然らばどうする? 

 今の状態で、自分の欲する事柄を心の底からの叫び声として、精一杯に叫ぶことだ。これなら、たまゆ

らの命にも可能なことだ。だから私は今、叫ぶ、無駄だと知りながら、焼け石に水と百も承知で。風が吹

けば桶屋が儲かり、砂漠に吹いた一陣の風が何処かで大竜巻に変じることを信じて、神に祈る、私の慈愛

溢れる慈母の如き神に祈る。

 正直者よ、心の中で、真心を込めて、結集しよう。これ見よがしに街頭でデモを、示威行動をしてみせ

るのではなく、静かに、一人で、しかし念力の限りを尽くして、一心不乱に心を互いに通い合わせよう。

正直者が一番得をして、根性曲がりや邪悪にねじ曲がった輩が割を食う世界の実現を、願おう。

 そんなことは念じても、願っても、無駄なこと…、ええ、ええ、そうかも知れませんね。でも、と私は

思うのです、私たちの願望が本当に切実であるならば、願いが偽りのまやかしでないならば、神は手助け

をして下さる筈だから。だって、そうじゃありませんか。今日の唾棄すべき世を到来させたのも、元はと

言えば人々の欲し方が熾烈で尋常ではなかったからではありませんか。

 えっ、邪悪や捻じ曲がった根性の方が、正しく素直な気性より勝っているですって。とんでもない、と

んでもない、人間は、人はそんなものじゃあ御座いません。私の知っている人は皆、根は善人です。根っ

からの悪人は誰もいないのです。それに間違いなどありません。

 人が望んで今日現在があるのなら、人が望めば明るい未来を、望むがままの将来を招き寄せることは可

能です。もし出来ないとすれば、それは人間が心底からは望んでいないから、に間違いないことなので

す。

 成せばなる、成らぬは人の為さぬなりけり、といみじくも昔の人は喝破しておりますね。

 画家は絵筆と画材で、詩人は言葉で、表現者は演技で、科学者は理論と思考で、私は念力で勝負、であ

ります。

 私は「私の神」が真実に信じられなくなったら、そんな時は断じて来ないと固く信じてはいるのです

が、万万一、そんな空恐ろしい時がきたとしたら、ああ、考えるだけで鳥肌が立つのですが、その時には

仕方がない。一人し静かにこの世フェイドアウトするつもりです。出来るだけ、他人様に迷惑が掛からな

い工夫を慎重にした上で ―― こんな風に最悪中の最悪をも想像上で想定した上で、私は根っからの善

人、史上最低のお人好しでありますから、私に残された寿命の範囲内では、このワーストエンドはやって

来ないと、どこかで高を括っているのでした。ええ、ええ、私は底なしの楽天家でもあるのです。

 そのバカバカしい程のお人好しさ加減を鮮明に浮き彫りにしているのは、私に悦子と言う素晴らしい女

性を出会わせて下さった「観世音菩薩」を筆頭とする諸仏・諸菩薩の、実に勿体無く、有難い御配慮を疑

うことなどとても、とても出来ない相談だという事実であります。

 これがある限りは、私に限っては、人間に、正直者に心底絶望することなどは、金輪際ないことなので

す、金輪際ないことなのですよ。





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最終更新日  2020年10月22日 17時17分36秒
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