草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年11月21日
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心貧しい者は幸いである、そうイエスは言った。天の国はその人達のものである。へブル語では貧しい人

とは柔和な人と同義であると言う。「圧迫を受けて、背を曲げた者の姿」が語源であるから。

 ですから、心、霊が貧しくなっているので、ただ神に頼る以外に仕方のない状態にあることだと、キリ

スト教関係者は説明します。

 さて、それを踏まえた上で、私の新解釈を此処で披露するのではありませんで、キリスト教信者でない

私が思い浮かべる「心貧しい人」のイメージを検討しようと思うのです。

 貧しいの反対は富んでいる、豊かである、つまり豊富な状態を言うのであるから、心が豊富であるとは

一体どういうことを意味するのか。それから考えてみたいと思う。

 私は自分の心が富んでいて豊かである。また、霊力がみなぎり溢れているなどとは、これまでにただの



あるとはこれまでに常に感じて生きて来ている。

 つまり、貧しい者の飢餓感や欠乏感から来る強い空腹の感じは、馴れすぎる程に馴れて、自家薬籠中の

物としている。これは、何も自慢にも何にもならないけれども、取り分け「心貧しい、故に背中が丸まり

縮こまっている」者の心理は、ある程度は理解できる気がしている。

 天の国とは、普通に天国、神なる父親が支配する精神世界、を意味するのだが、天国に入る資格を有し

ているのは、心が満たされず、神しか頼る相手がいない者だという。

 私に言わせれば、頼る相手が神であれば、十分過ぎる程に十分だと思うのだが。如何だろうか…。

 カエサルの物はカエサルに与えよ、と言い放ったイエスである。カエサルの物とはこの世での権力やそ

れに付随する諸々の富や利権など、人間が通常目の色を変えて欲している欲望の対象の全てを言うだろ

う。

 すると、この世の全ての人間的な欲望の対象たる物質から、ことごとく阻害され、排斥されている貧者



り、ヒエラルキーのピラミッドを構成する、心富める者以外、地上では救いが全て絶たれ、絶望している

者、即ち心の貧者を、キリスト教の神は全部救済しようと意図している。まあ、大体において、大体の解

釈では、大まかに言えばこんな所で間違いはないであろう。

 しかし、私は聖書からそんな風には、神の意図を受け取らなかった。

 私の信ずる神の概念からすれば、人間はすべからく「心が貧しい者」と言う範疇に属し、自分の心が富



での所謂「悪人」であり、その正体は、真実の姿は、その誤って奢り昂ぶっている者こそは、神の救済の

中心に居るターゲットであって、自分を「心貧しい」と既に正しく認識している善人は、遥かに以前の時

点で慈愛溢れる神の愛の網の中にあり、救い取られている。

 私は、人間が他の動物と違って神により近い存在である所以を、苦しみに耐える能力の多寡に見る者で

あります。真の悪人は、諸々の煩悩に支配されて、あの悪魔の声の命ずるままに、縦(ほしいまま)に欲望

を追求して止まない一群の人々を指すのです。彼等は既に悪魔に魂を奪い取られ、それゆえに、自分こそ

は人間の中の勝れた者の中でも、最も優れていると心底信じさせられている。

 これら悪魔の支配を受けて苦しまず、却って喜び勇んでいる哀れなる者達、通称はキング・王者などと

おだてられ、彼に扈従する小集団によって俗権を恣(ほしいまま)にした悪魔の傀儡・木偶の坊達が、人類

の歴史をあらぬ方向に歪め、人類の品位を尊厳を何れ程下落させたことか。いまさらに、私が此処で喋々

するまでもないであろう。歴史は必然であったから、正しいなどと聞いたふうな事を言う輩を、私は断固

として無視する。人類の歴史は必然であったが、大きな誤謬であったと、私は普通に判定する。

 イエスキリストは様々な難病や不治の病に苦しむ人々を、その心根の善良なのを吉としてたちどころに

癒すと言う奇跡を何度も示している。また、地上権力の象徴たるカエサルには一指をも触れず、圧政や貧

しさに苦しむ無辜の民に向かっている。事実、この神イエスの偏ったと見える、事実偏っている、姿勢を

鋭く批判する向きもあるが、私にはそれに加担する蛮勇はない。神の、人間には伺い知ることが出来ない

深い愛情と、叡智とを知る故に。私には、今の私には説明できない、また、解釈が難しい行為にも、深

い、深い意図が隠されていることを直感するのだ。

 神は、人類全体を救済する目的でおられる。それには謂わゆる人類の中の悪だけを剔抉して、滅亡させ

ればよいと普通には考えるかも知れないが、それは誤りである。善と悪とは混在してある。また時系列に

よっても善悪に変化があり、同じ人間が時には善であり、また時には悪でも有り得る。その様に神は人間

を創造された。

 それなら、神は人間の創造に際して、善しか行えないようにしたら、事は簡単であったろう。神にはそ

の能力が十二分にあったのだから。

 恐らく神は、人間を創造するに当たって余りにも親バカだった。つまり、誕生以前から可愛さが募っ

て、遂には御自分にそっくりに似せてしまおうとなさったのだ。御自分は、完全無欠なる神は、完全なる

が故に身内に在る悪的な要素を善の支配下に置き、コントロールされておられたから。

 人間にも、生まれる前から溺愛を以て遇する余りに、過大なる期待を人類に寄せてしまったのだ。それ

を神の唯一の過失と責めるのは酷と言うもの。神の美点の最大なるものと、私は、被創造者の一人として

賛美したいと思う。

 父であり、母でもある神を、正当に御立派であると、客観的に評価出来る為にも、我々人類は、なお一

層の努力を重ねなくてはならないだろう。立派過ぎ、愛情溢れる存在者の神に少しでも近づく為に。

 少し結論を急ぎ過ぎたようであります。人間が心貧しいとは、一体どういうことなのかを、もう少し探

求してみよう。

 貧しいとは poor である状態とは、虚しい、空虚である事とは違っている。貧しさには期待がある、希

望が残されてある。虚しさ、空虚の果てには絶望しか残されていないのだから。

 貧しいとは謂わばスタート地点の様なものなのだ。そこから全てが始まる。生まれたての赤子を思い浮

かべて見よう。植物の種の事を思っても良い。貧しい状態ゆえに、大きな希望が芽生えるではないか。明

るい明日への期待と、望みとが自然に湧き出て来るではありませんか、最低限、取り敢えず必要な物以外

は所有していないが故に。

 貧しいから、素直になれるし、謙虚でも居られ、自ずから感謝の気持ちも生まれる。貧しさは、健康、

健全、清潔、潔さ、明るさ、光、温かさ、希望、若さ、美しさ、微笑み、祈り、などの諸々の善が芽生

え、成長へと移行する全ての要素が含まれている。貧しいからこそそれが可能なのだ。そこでは、悪でさ

えもが浄化され、美化されて、再生への準備がなされる。そうなった悪はそれこそ灰汁が抜けて、もう悪

とは呼ばない、何物かに変化している。

 だから、貧しい状態とは、あらゆる善が芽生えの状態で伏在していることを意味し、それ故に善き事の

全てが可能性として存在させられている。そんな善いことずくめの缶詰なのだ。

 これが心ではなく、肉体や物質の方で貧しいということになれば、良いことだけではすまされませんよ

ね、当然のことながら。第一、あまり貧しさが募ったりすれば、人間としての生存が危うくなってしま

う。清貧に甘んずという表現がありますが、これは貧乏が程よい程度であって、ひいては生活も快適に過

ごせる、ある意味では肉体的、物質的に恵まれた状態を言うわけです。

 清貧とは、無理をして富を求めず、行いも清らかで、貧しい生活に安んじている状態ですから、ある意

味での人間の理想的な生活を意味していますね。清貧ですから、安んじる事が可能なので、富豪の生活に

安穏さはないわけで、欲望にはきりがなく、己の所有する富はいつ災害や盗難などで失われてしまうか分

からないので、不安が寝ている間も彼の胸中を去ることはありません。

 つまり、神は無言のうちにも貧しさを推奨して止まず、反対の富栄は人間の安住する場所ではないこと

を暗に戒めている。

 朱に交われば赤くなるの言葉の通り、朱という欲望・渇望は節度や節制ということを弁えず、どこまで

も赤さの濃度を強めようと欲して止まない。また、悪性の伝染病の如くに、身近に接した者を己と同じ色

に染めて、次々と伝播させる。清貧が選ばれた少数者だけに限られるのとは、好対照をなしている。

 善は常に少数者の嘆きをかこち、悪は世に蔓延るのが通例となっている。

 ここで、私の場合の貧しさ、貧乏との関係について、書いてみようと思う。本当の幼少期は、ちょっと

した御大尽の坊ちゃんと言った生活を送っていましたが、以後は食うや食わずやと言った程のではないに

しても貧乏人の仲間入りは間違いなく出来る生活状態を、今日に到るまで続けております。途中の四十年

程は仕事柄で、一見お金持ち風の生活を送ったし、貧乏人の名には相応しくないお金の使い方もしており

ますが、実態は、個人の家計としては決して裕福などとは言えない、生活でありました。

 それが証拠と言っては何なのですが、家の子供達は家内から「家は貧乏なのですから、贅沢はできませ

ん」と口癖の如く言われて育っています。これは以前にも書いたことですから、これだけに止めます。

が、私にとって貧しい、貧乏であることが私の人生を歪めたり、誤った道に足を踏み込ませた、と言った

事は全くありませんでした。それどころか、私の場合には、心と、物質面での貧困さが、有り難い事に私

をまっとうに成長させてくれた、原動力になっている。貧乏さまさまでありますね。

 神の過大な愛情に値する対象であるか否かは、これからの我々の生き方次第で決まる。などと、評論家

の如き論評はすまい。我々は、私は、神の有難い愛情に応えるべく、奮励努力を重ねなければならない。

私は私の人生から受けた恩恵に報いる意味でも、寿命が尽きる瞬間まで努力を続ける所存で居ります。





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最終更新日  2020年11月24日 19時34分54秒
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