草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2021年02月17日
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サン・テグジュ・ペリの「星の王子」に就いて書きますが、今回改めて読み直したわけではありません

で、嘗ての読後の印象を確認する意味で、スマートフォンで粗筋などをたどってみたに過ぎません。

 最初にこの話を読んだのは、国際放映という会社に、同期で入社した中山和記から勧められての事でし

た。中山は非常に優秀で、且つ又、飛び抜けて優しい男でして、色々と優しくして貰った記憶がありま

す。

 少し前に書いた「私の恋懺悔」で触れた二人の女性は、彼、中山の紹介でした。不幸な結末になってし

まいましたが、私は勿論の事、お二方共に非常に真面目に、真正面から私と向き合って下さった。従っ

て、後味は少しも悪くありません。ただ、K M さんに関しては、少しばかり残念の感は未だに残ってい

ます。K M さんのその後の人生がお幸せであることを、心より願っております。同時に、私がわざわざ



すが、それでも、尚且つ案じられてしまうのは、なぜでしょうか? 兎に角、ご縁が深かったチャーミン

グな女性ですから、この世での御多幸を願わずにはいられないのですよ。

 結婚直後に、悦子に彼女との事を話した際に、「私は、その方の替りだったのね。その方の分まで私は

克征さんを幸せにして上げなくてはいけないし、私自身もその方の分も含めて幸福にならないと、いけな

いわね」と言ったのが、とても印象に残っています。

 さて、星の王子様のことですが、私は万年、精神年齢十歳を自称しておりますが、私自身が娑婆という

砂漠に迷い込んだ「星の王子」だと思っています。但し、私の星が大空に輝く星のうちのどれだったのか

は全く記憶がありません。従って、地上での旅を終えたあとで、何処へ帰るのか、行くあてはありません

ので、悦子が胸躍らせながら待っているであろう、天国の星に同居させて貰うつもりで居ります。

 それは多分、遠い先の話で、今現在の 星の王子・ Le Petit Prince の心境などを述べておきたいと考

えます。



が大騒ぎしている暗い時に、何でまあ「罰当たりに」一人だけ燥ぐ必要があるのかと、自分でも不思議な

のですが、「私の神様」が特別に授けて下さっている故に、それなりの理由があってのことと、謹んで拝

受致しておるわけであります。

 昨夜、近所の居酒屋「車屋」で家族で飲んだり、食べたり、盛大に楽しんで来ましたよ。

  車屋は 菩薩 観音共々に  吾らを饗す 海山の幸  ( 克征 作 )



でしょうか。フジテレビの能村庸一氏が生きておられたら、毎晩でも通いたいときっと仰ったに相違ない

実に庶民的な、それでいて高級感の漂う、通好みですから、言うことありません。

 序でにと言っては何ですが、このお店を発見したのは私の次男の嫁でして、この女性がまた実にお酒と

美味しい料理に目がないという、通人振りを発揮してくれていて、最近の私を元気づけてくれています。

   義理チョコを 口いっぱいに ほうばれば 幸せ法悦 身内に満ちる  ( 克征 作 )

 私は現役サラリーマンの時に、商売柄でホステスさん始め、山の如くに義理チョコを頂戴しています

が、今回、嫁の菓(このみ)さんから貰った日本酒入のボンボンチョコ程に美味しいものは、生まれて初

めてのものでした。感謝、感謝であります。

   幸福は 身近にあった 嬉しさよ 努力もせずに 極楽に居る  ( 克征 作 )

   嬉しさは 自然の中に 幸来る 老いても楽し 生きてある  ( 克征 作 )


     白鳥(しらとり)は かなしからずや 空の青 海のあおさにも 染まずただよふ

     幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終(は)てなん国ぞ 今日も旅ゆく

 御存知、若山牧水の絶唱でありますが、草加の爺の今の心境にはかなりそぐわない孤独と、生きる悲し

さが氷付いた如き心象風景であります。若かりし頃の私には非常にぴったりと来ていたので、今でもなん

の苦労もせずに、瞬時に口を衝いて出てくるほどに、心に染み付いている。

     海鳥は 嬉しと知りぬ 空に雲 水面に波の 花咲くを知り

     幾たりの 佳き人と遭い 契りしか 嬉しさのみぞ いや勝りゆく

 上の二首は牧水への私の、老いた星の王子の、オマージュとして捧げる、ささやかな「反抗」の歌であ

ります。素人が即興で詠んだものですから、措辞の稚拙は御容赦願い、御嘉納頂ければ幸いであります。


  犬猫も ともに遊べば 楽しいな 生きる仲間で また嬉しいぞ  ( 克征 作 )

  子供らも ともに学べば 嬉しいな 教えは学び 学ぶも教え  ( 克征 作 )

 今の草加の爺・星の王子の極めて能天気な、そして楽天そのものの境地から眺めた時の牧水歌の、深刻

で不幸極まりない心の在り方は、どうでありましょうか。同じ世界での体験とは余りの違いに驚愕せずに

はいられません。歌作の巧拙や文学性を云々するのではありませんが、私の駄作の方が、問題なく人間性

に於いては勝れている。同じく「浮世の花見」をするのであれば、老いた星の王子に軍配を上げるべきで

ありましょう。麗々しく、これ見よがしにご披露したのは、人としてのあり方では、凡人と達人程の開き

が見られることを、読者と共に公の場、と言いましても、私のブログ上で、一緒に確認したかったから。

 私は、表現で大事なのは、「何を」ではなく「如何に」だと過去に主張いたしました。それは今でも、

変わっておりませんで、原文 乃至 原典を熟読すべしとの固い信念を抱懐する故に、粗筋とか翻訳とか

は却って本物を理解する妨げになる。今でもその信念通りに実行しております。

 さて、私はどうして今の如き 爺でありながら「星の王子」を得意げに吹聴して恥ずかしいと感じない

のか、それは世界の大偉人達から学んだ以上に、子供や、猫や、犬から多くを教えられたからでありま

す。本能の侭に生きるとされる犬猫も、実は接し方によっては知性があり、教養があり、命を、その魂を

生きる生き方を根本の所で弁えていて、私にその奥義を伝授してくれた。

 その大師匠の猫のカンナと、遥々飛行機でニューヨークからやって来た犬のトビーの話を、これから少

しばかりしてみようと思いますので、お付き合い下さい。

 カンナは家内が、子供たちが、長男はアメリカへ、次男は金沢へとそれぞれ外国留学と国内留学に家を

出たので、寂しいからと言うので横浜の方の野良猫保護施設から貰い受けてきたもの。十月に我が家に来

たので「神無月」のかんなから名付けたもの。オスだったら「オクトーバー」のオクトにしようと、私が

予め考えておいたものです。

 このカンナ、元々が野良育ちで、幼児体験で虐めを経験していたためか、最初は極端に怯えて、飼い主

の私たちに懐こうとしませんでした。色々ありましたが、何故か時期と言い、タイミングと言い、家内に

ではなく、私にばかり接する時間が多くなり、気づいた時には、寝るときも私の布団に入り込んで、私と

同じような姿勢で、同じようにイビキまで私と同じ高いびきで眠るという始末で、性分として、自分の寝

床にまで入り込んでくる、猫を素直に受け入れる私でなかったのですが、成り行きで仕方なく、そんな馴

れ馴れしい関係になってしまった。大分後になってからですが、「カンナはメスだから、女の私より男の

方がいいのですよ」と、家内が私とカンナとの異常接近に嫉妬するまでになってしまった。

 このカンナ、中々の美人で、性質もお淑やか、我が家の深窓の令嬢と言ったところ。

 ここに、突如、9・11事件で、急遽帰国する運びになった長男と一緒に、ニューヨーク生まれでニュ

ーヨーク育ちのナイスボーイのトビーが、颯爽と葛飾区金町の我が家に姿を現した。そのデビューの瞬間

のトビーの勇姿は今でも鮮明に目の裏に焼き付いている。

 カンナは最初のうち、トビーの余りの颯爽とした姿に気を飲まれたのか、黙って見過ごしていたのです

が、暫くすると度々このオス犬を攻撃するようになった。トビーはスムースと言うチワワで、まるでネズ

ミを大きくしたようであり、カンナの本能を痛く刺激した模様で、私たちが留守をしている間、二匹の間

を隔離しては置いたのですが、どのようにトビーに接近したものか、彼の長い両耳にピアスの穴のような

傷跡が数箇所、名誉(?)の負傷のごとくに残りました。

 さて、この二匹に私が教えを受けた次第ですが、これは「企業秘密」でも何でもないのですが、中々人

様にお伝えするのが難しい。私の側の無心な「子供心」と「目線の低さ」が鍵でありましょうか。子供た

ちに接する以上に謙虚に、無邪気に心を虚しくして、彼女や彼と接する。それが全てでありましょうか。

それともう一つ、同じく命を、生を共有する親近感の成せる技を、巧みに駆使する。以上に尽きるのです

が、私の持って生まれた野生の心が、カンナやトビーのもつ野生・本能と強く、強く共鳴したのだと思わ

れます。

 後から考えてみると、この二匹の「偉大」なる教師の後で、草加に引越し、勤務することになった学習

塾の講師の仕事に就いたことが私の運が非常に良かったことに直結するわけでありました。

 丁度、定年で仕事をリタイアーして、キャリアーカウンセラーとしての勉強をする運びになったのです

が、それが後に世の為、人の為を目的とする私の後半生の再スタートを切るきっかけになったのと、同様

でありました。

 私は今、自由気ままに生きる自由と、限りない幸福感でいっぱいの毎日を送ることが出来ております。

数年前の私には想像すらできないことであります。

 上に書いた如くに、世界中がパンデミックで大恐慌を来たしていると言うのにです。大体私は昔から世

の趨勢とは真逆を行くへそ曲がりな性格を持っていますので、幸か不幸か、今日まで曲がりなりにも大過

なく生きてこられたようなもの。あれもこれも皆が皆、神や仏の御計らいに因るものと心得、有り難く、

勿体無い事と頭が自然にさがるばかり。


   子供らは 皆それぞれに 教師にて 手取り足取り 我に教える   ( 克征 作 )

   真夜中の 路上に憩う 子猫らは 軽々ジャンプ 闇に没する   ( 克征 作 )

 最後の歌は、季節が夏か、冬かによって状況が少しばかり違うのですが、厳冬と解した方が、野良猫

達の置かれている厳しい環境が強調され、尚且つ、「心頭滅却して」、寒風やひもじさを忘れ去って、

遊び戯れる姿のいじらしさがクローズアップされると考えますが、如何でしょうか?





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最終更新日  2021年02月18日 20時39分45秒
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