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「寧波」観光(2) 城隍廟まで開放南路を北上して、赤い門の前まで到着したがまだ閉まっていた。五重の塔が見えたのでそこへ行く。途中は建築部品の問屋街みたいなところで、さっきの長春路よりずっと古くさい店が並んでいた。 8時30分に開門して一人2元で中へ入れてくれた。五重の塔だと思ったのは実は七重の塔で「天封塔」という。唐の時代に最初に建てられ、その後何度か火災に遭い、1984年に大修理が行われたそうだ。高さは51.5㍍。登るにつれて階段がだんだん狭くなり頂上へ着いたら息切れがした。しかしここから眺める寧波の景色は素晴らしいものだった。新しい街並みと古い街並みがごちゃごちゃに混ざった風景だった。平野の中にぼんやりと太陽が昇り、その方角は新しい団地が棟を並べている。北の方は二十階建てのビルを建設中。西は高いビルが立ち並んでいて、南はさっき通った寧波駅や、その向こうには水田が広がっているのが見える。建設中のビルは骨組みだけで中が空洞なので、いかにも頼りなさそうに見えて仕方がない。塔の真下は古い瓦葺きの二~三階建ての建物がびっしりと並んでいて、屋根は真ん中が下がってゆがんでいる。窓に洗濯物が干してあるのが見える。ここで実際に生活している人がいるのだと思うと複雑な気持ちだった。 そこを降りて再度城隍廟へ行くともう門が開いていた。昔はお寺だったところが店屋になっていて、いろいろな店が集まっている。中国のデパートなのだ。建物は古く、壁には三国志の絵巻が描かれていた。9時前が来たのでホテルへ帰ることにした。 9時半集合で昨日のバスに乗り市内を東へ離れて30分ほどの阿育王寺へ向かう。面積は5万平米と大変広い寺で東晋の時代(405年)に創建された。阿育王とはインドのアショカ王という意味で、梁の武帝の時代に増築したとき「阿育王」の勅額を授かったことからつけられたという。60人の僧がいる。宗派は臨済宗。また、ここには中国で三つしかない舎利宝塔がある。一つは北京の雲光寺で釈迦の歯、陜西省法門寺の指、それと阿育王寺の頭。舎利宝塔は高さ47センチ、幅17センチで四方に装飾が施された鉄でも銅でもない金属で出来ており、それを見たとき赤い光が見えると幸福になると言われているそうだ。文化革命の時他の仏像は全部壊され今あるものは復元されたものだが、この舎利宝塔だけはお坊さんが密かに隠していたので、今見ることが出来るのだそうだ。しかし本当に見せてくれるとは思わなかった。沈さんが管理人に何か言って、そのまま本殿に入っていくので、かまわないのかと聞いたら手招きする。ガラス越しではあったが実物をしっかり見ることが出来た。黒っぽい厨子の形だった。ただしあとから我々について入った中国人は管理人に立入禁止だと追い出されていた。ここで外国人特権を感じてしまったが、こんな事を中国人側から見れば気分の良くない事だと思う。しかし私は感激してしまった。
2001年11月30日
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「寧波」観光(1) 平 民永 寧波は「い草」の産地として有名だ。日本との合弁企業がたくさんあり、日本へ「い草」を輸出している。この地方(揚子江以南)では夏には気温が40度を越えるため、昔から寝ござを使用している。寧波には発電所があるのだが他の地方の電力も供給しなければならないために夏に電力不足が起こり、ときどき停電する。だからクーラーはまだそれほど普及していない。 寧波市は二つの大運河が合流して一つになる地点に開けた街で、合流点を三江口という。人口は120万人、面積は1、033平方キロ、地区全体では人口450万人、面積は9、365平方キロの中型都市だ。中国では「市」の方が「県」より格が上で、「省」-「市」-「県」の順番になっている。 9日朝、夕べは雨が降ったらしく路面が濡れていて、本日の予想気温は1度~7度とのこと。風も強かった。寧波の街の散策に出かける。まず寧波駅へ行った。マイクロバスがたくさんいて、その日の人夫を雇って工場へ連れていく。駅前の飯店ではお粥を持って食べながら出てくる人がいた。これが中国の普通の朝食なのだろう。 運河沿いに長春路を東へ歩くと問屋街だった。みかんも売っていたが、買っている人は少なかった。太極拳をやっている集団をあちこちで見かけた。交差点の真ん中では警官が交通整理をしている。信号が変わると通勤の自転車が横に4~5列に並んで連なって走り出すのは壮観だった。寧波の人口は120万人で自転車の数は100万台だそうだ。あちこちに新しいビルを建設している。足場や回りの囲いは全て竹を使っている。その竹を結びつけている紐も薄く剥いだ竹だった。ビルは、骨組みと床だけが鉄筋コンクリートで、後はレンガでその間を埋めている。その鉄筋も細くて、とても日本では建築基準に合格しないだろうと思った。この地方は地震がないそうで、だからこの程度の強度で大丈夫なのだろう。道路を掘り返しているところを覗くと、1㍍下に水が溜まっていた。河に囲まれた街なので地下水位が高い。土質は堆積した粘土のようだった。その工事現場を囲う柵も竹で編んだものだった。
2001年11月29日
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寧波でのガイド沈 建国さんの話 8日と9日の二日間、黄岩までの往復と寧波をガイドしてくれたのは沈建国さん。若いのに日本語が達者だ。北京の大学で日本語を学んだそうだが、日本へはまだ来たことがないという。結婚はしたくない、独身がいいですよ、とはっきり言っていたのが印象的だった。以下は沈さんの説明。 日本から寧波への観光客はそのほとんどが仏教関係だ。寧波には日本仏教にゆかりのある場所が多く残されており、唐の時代から日本との対外貿易も盛んに行われていた。 寧波から奉化までは去年4車線の道ができた。この道路は企業が共同で出資して作った道なので有料。大型は12元、普通自動車は6元。 私たちの乗ったバスは寧波郊外でガソリンスタンドに入った。ガソリンは数種類ある。「#0」と表示されているのは軽油で、1リットル1.85元。私たちのバスはこの燃料を入れた。「#70」はレギュラーで1.72元。「#90」はハイオクで2元。 街には昔の人力車を自転車で引っ張る「輪タク」がよく走っている。運賃は3キロまでが5元、それ以上は交渉次第。 幹線道路は時速40キロ制限で、罰金は2百元。キャッシュで支払わなくてはならない。運転手はおまわりさんが一番恐いそうだ。 幹線道路には並木が植えられている。木の種類は杉だが冬には落葉し、春に芽が出る。日本の杉とは種類が違うようだ。 社会主義の国でも住宅は個人のお金で建てる。 共産党も一種の宗教で、中国人は7割くらいが儒教の教えを信じる仏教徒だ。 中国は今一人っ子政策だが、やはり男の子が欲しいという傾向があり、特に農村部では最初の子どもが女の子だった場合六~七年すればもう一度子どもをつくってもかまわないことになっている。ただしそれも二人までで、二人とも女の子ならそれでおしまいということだ。また、中国は93パーセントまでが漢民族だが、少数民族に対しては一人っ子政策は適用されない。 開放政策以後、農業は請負制度に変わっている。一家族三人で平均35ムーの耕作権を持っている。米は政府に納める分だけ作り、あとは野菜やカエル、魚の養殖やアヒルを飼うという換金作物を作っている。寧波郊外をバスで走っているとカエルの養殖池などをよく見かけた。 自動車の運転免許は三ヶ月の練習で3千元~4千元かかる。ただし実際には先生に送る賄賂などを計算すると1万元くらいかかる。 寧波の企業は外見は派手で、社長はベンツと日本の高級車を乗り回しているが、実際は自転車操業というのが多い。銀行でお金を借りて、その支払期限が来ると次の銀行でまたお金を借りてそれを支払うということを繰り返している。 8日の夜は沈さんの案内で数名がカラオケバーで楽しんだ。料金は日本並だったようだが、我々のような一行が日本国内の感覚で安全に夜を楽しもうとすれば、やはりそれなりの金額が必要なのかもしれない。
2001年11月28日
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茅(マオ)建平さんの話(2) 上海の人の休日の過ごし方は、公園へ行ったり遊園地、映画、親戚回りなどだ。娯楽の中心はなんと言っても本場の麻雀。掛金があまり高いと警察に踏み込まれることもある。 黄浦港にかかる南浦大橋は世界で三番目に長い斜張橋で8百メートルあるが、長江にはもっと長い橋がかかっている。昔は12本のフェリーで黄浦港を渡っていたが、今は4本の橋と2本のトンネルで浦東地区とつながっている。浦東地区は特別区で、銀行・証券会社などの金融区、シャープ・日立などの輸出加工区、ハイテク技術開発のハイテク開発区、倉庫の保税区の4区に分かれている。 上海では三年前に株ブームが起こり、株価が百倍に値上がりした。それも無税なので儲けた人が沢山いた。今は下がっている。 上海の人口は1400万人だが、その上に観光客や海外からの人、地方からの出稼ぎ労働者などが360万人来ている。 南京路は土曜日の2時から8時まで歩行者天国になる。デパートの前では無料で散髪をしてくれたり血圧を計ってくれたり、衣類の修繕をしてくれるコーナーが作られている。ボランティアの義務があり、その人たちがやっている。 第一デパートのひと月の売上は1億5千万元くらい。毎日「最后一天セール」をやっている。このへんは日本のパチンコ屋の「本日開店」とあまりかわらない。 人民広場は元は競馬場だったところで共同租界の中にある。共同租界はアメリカ、イギリスなどが使っていたところで、フランス租界はその隣にある。この二つの租界は電圧も電柱の形も違っていて、フランスは110ボルト、共同租界は220ボルト、市内電車も乗り換えなくてはならなかった。 上海市内へのトラックの乗入れは朝7時から夜8時まで禁止。例外は白ナンバーの軍のトラックと証明書を貰った工事関係車両だけ。農村部でたくさん走っていた緑色の貨物自動車も上海には入れない。 北京、上海での平均月収は1万5千元+ボーナス。中国の中で一番豊かな省は広東省で、次が浙江省、江蘇省。 言葉は学校で公用語を習う。地元の言葉は地方によってかなり違ってくる。茅さんは上海の人だが、寧波の言葉は八割くらい解るが、黄岩の言葉は二割程度しか理解できないと言っていた。 日本語の自動車は中国語では汽車、鉄道は火車。お母さんは娘、娘は姑娘(クーニャン)または女児。妻は愛人で、愛人は情人。また、看板などでよく見かける公司は会社のことで、有限公司は株式会社のことだ。 上海空港近くで「西部花園別荘」という分譲住宅を見かけた。この辺りで三千万円くらいだから月給と比較すれば天文学的な数字になる。 上海体育館の側には8万人収容の陸上競技場が建設中。99年には上海新空港が完成の予定。 「あれは何のことかわかりますか?」とバスの窓の外を示す茅さん。見ると大きな看板に「三菱電梯 上上下下的享受」と描かれてあった。エレベーターのコマーシャルだそうだ。「ナルホド」とみんな感心する。「よい言葉ですね」と茅さんも笑っていた。
2001年11月27日
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上海でのガイド茅(マオ)建平さんの話(1) 上海と聞くと妙に親近感を覚える。まず最初に思い浮かべるのが「上海帰りのリル」。それから井上陽水の歌に「なぜか上海」というのもあった。先日解散した自由劇場という劇団の代表作に「上海バンスキング」という有名な芝居があるし、井上ひさしとこまつ座が「シャンハイ・ムーン」という、魯迅をテーマにした芝居を二・三年前にやってた。・・・で、歌や芝居になるくらいだから日本との関わりも深く、独特の情緒をもった街なのだろう。 上海の街はただ歩くだけで酔ってしまう。北京を越えて中国最大の都市。とにかく人が多い。威勢のいい雑踏がどこにいても聞こえてくる。かつてのイギリス租界、フランス租界のクラシックな建物が、長江につながる黄浦江の泥水のような水面に向かって立ち並んでいる。そこから大通りに入ると賑やかな商店街だ。赤や黄の看板に描かれた文字は全て漢字で、しかも金色。商店街から小さな路地に一歩入ると、崩れかけた煉瓦作りの建物や汚れたアパート。対象的な風景が一枚の紙の左と右、表と裏に描かれたような街だ。そしてそのミスマッチな風景が上海のノスタルジアをつくりだしているのだろう。 そんな上海の街をガイドしてくれたのは茅建平さん。日本語がうまい。7日と10日の二日間、バスで市内を巡りながら次のようなことを話してくれた。 上海の人口はおよそ1420万人。大阪と横浜が姉妹都市になっている。主な農業は米、麦、菜種、野菜。一年に米を二回、麦を一回の三毛作。ブドウ、スイカ、桃も少し作っている。 上海はいま建設ラッシュで古い建物や畑を壊して新しい建物を建てている。 会社や国が建てた賃貸アパートは2DKで月2百円くらいの家賃。最近では分譲住宅は最高級の一億円くらいから三千万円くらいのが建っている。上海の平均的サラリーマンの月収が一万円から一万五千円くらいだから破格に高い値段だ。 新しいのも古いのも建物は煉瓦造りが多い。地震がほとんどないからだ。竹の足場を組んでどんな高層建築も作ってしまう。法律で6階まではエレベーターが要らないので6階建ての建物が多い。また、平均海抜は4メートルほどなので少し掘ると水が出る。 通勤は自転車やオートバイ、バスなどを使い、自家用車を使う人はいない。 タクシーは多く走っている。ワーゲンとシャレードの二種類。基本料金はシャレードが10.8元、ワーゲンは14.4元。客は助手席に乗ることが多い。一つは前の席に乗るのが好きだから、もう一つの理由は道案内のため。 上海にはタクシー会社が五百軒ほどあり、運転手は会社に月1万円払って車を借りる。あとは自分の取り分になるが、運転手の数が多いので一台を二人で使ったりする。 上海を走る車のナンバープレートには「さんずいに戸」という字が書いてある。これは「フ」と読んで、魚を取る道具を意味する。上海の別名だ。 上海には去年地下鉄が開通した。どこまで乗っても2元で、夜9時頃まで運行している。(実は10時までだった)。
2001年11月26日
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「世紀末農民的中国紀行」はまだまだ続くのですが、旅行全行程の紹介が終わったところでミカンでも食べながらちょっと小休止を。温州ミカンには風邪を予防する効果もあるんです。まずは、お知らせから明日11月26日(月)の正午から始まる、みのもんたの「おもいッきりテレビ」(日本テレビ系列)で、みかんの話題が放送されます。これまでの常識をくつがえす研究結果が・・・「ミカンに生活習慣病予防効果!」という風なタイトルにでもなるのでしょうか?ぜひご覧下さい!!!さて、柑橘類は東南アジアの熱帯から亜熱帯の地域に広がって原生しているのですが、そもそもの原産地はどこだかご存知でしょうか?これは、紅茶で有名なインドのアッサム地方だといわれています。紀元前3~4世紀のころ、中国の揚子江流域(四川、湖北、湖南省)に伝わり、経済栽培が始まりました。日本へ伝わったのは「よもやま話(1)」で書いた「非時香菓・ときじくのかぐのこのみ」で、西暦1~2世紀のころです。ヨーロッパへ最初に伝わったのは、柑橘類の中でも香りが強くて酸っぱい「シトロン(仏手柑・ブッシュカンの仲間)」でした。これは、インドからメジア(ペルシャ地方?)へと伝わり、そこで栽培されていましたので、「メジアン・アップル」と呼ばれ、薬として珍重されました。紀元前2世紀の古代ユダヤの硬貨にシトロンが刻まれたものが残っているのです。次にヨーロッパに伝わったのが「サワーオレンジ(橙・ダイダイの仲間)」でした。これはアラビア、イラクを経由して(いわゆるシルクロードです)10世紀に地中海にまでは伝わっていたのです。そのあと十字軍の遠征によってヨーロッパへと伝えられていきました。それでは、レモンはどうなのでしょう?これは、中国から伝わったのですが、シルクロード経由ではありませんでした。レモンは広東省から陶磁器などと共に、船でシンドバッドの都・バクダッドへと伝えられていたのです。これも十字軍の遠征によってヨーロッパへ広がっていきました。ここまで読んできて、何だか変だ?と感じたアナタ、鋭いです。実は15世紀までヨーロッパには甘い柑橘類はなかったのです。スイート・オレンジがヨーロッパに伝わるのは、何と1492年、バスコ・ダ・ガマの喜望峰航路発見のあとになるのです。スイート・オレンジも原産地は中国なんです。その後スペインのバレンシア地方でたくさん栽培されたために、甘いオレンジのことをバレンシア・オレンジと呼ぶようになりました。ですからヘンリー5世やジャンヌダルクはスイート・オレンジの味を知らないでこの世を去ったわけです。16世紀の大航海時代、スペイン人やポルトガル人によって、オレンジはブラジル、フロリダに伝えられます。マゼランやコロンブスも、航海中の壊血病の予防のために、船にオレンジを積み込んだのです。17世紀には南アフリカに、18世紀にはオーストラリアに伝わっていきます。19世紀の始め、オレンジの突然変異として冬に収穫できるネーブルオレンジが発見されました。場所は南半球のブラジルです。その後アメリカの西部開拓時代に、ブラジルからカリフォルニアへネーブルの苗木が輸入されました。輸入を担当したのがワシントン政府だったので、カリフォルニアの栽培農家はこのネーブルの事をワシントンネーブルと呼ぶようになりました。ちなみにネーブルとは英語で「ヘソ(navel)」と言う意味です。明治10年になってカリフォルニアから日本へネーブルの苗木が輸入され、ようやく我々はおいしいネーブルを食べる事が出来るようになった訳です。隣の国中国でできたオレンジは700年以上かけて世界を一周し、日本へ伝えられたという歴史があったのです。この事実を知ってしまったアナタ、これから食べるオレンジの味はひと味違ったものになるのではないでしょうか。
2001年11月25日
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世紀末農民的旅日記(その6)■3月10日 中国最終日。予想気温は2度から10度。 8時30分に出発の予定が、忘れ物をしたりで9時になった。豫園へ行くのは時間の都合上中止になった。バスはホテルを出て環状線にのる。外白渡橋(ガーデンブリッジ)を渡って黄浦江と蘇州河の合流地点で展望台へ上がり記念撮影。再びバスに乗り日本租界跡を抜けて国際旅行社の土産物屋へ行く。うんざりするほど土産物屋に連れて行かれるが、店内に入ると皆夢中で買物をしている。全く日本人は金持ちだとつくづく感じる。 11時30分、上海空港到着。入口で上海でのガイド茅さんと別れてチェックインする。みんな土産を沢山買っているので預ける荷物を造るのがたいへん。赤服のポーターが世話してくれたが、後でチップをくれという。1元玉では要らないと言ったがみんながやったのでかなりの額になったようだ。 11時50分、行きと同じ順番に並んで全員通関。出発まで免税店などでぶらぶら時間をつぶす。 13時25分、上海を離陸。行きと違って帰りはANA。さすがに機内サービスは良い。 日本時間の14時過ぎには故郷の上空を通過。ここで降ろして、と言いたくなる。高松空港まで直進して右に旋回。吉野川に沿って徳島へ。左の窓から鳴門、大鳴門橋がはっきり見えた。 16時10分、関空に着陸。 17時、バスでポートターミナルへ向かう。 18時50分、洲本着。S観光のバスがしっかり待っている。3名ほど順番に途中で下ろす。 22時、JA出張所に無事到着。 後日談になるが、腹の調子の悪かった者2名、高熱1名。 ☆☆☆ ミカンフェスティバルの裏話 ☆☆☆昨日大阪城公園で開かれたミカンフェスティバルは盛況のうちに終了しました。午後1時半には全県完売となったようです。来てくれたみなさん、ありがとうございました。それでお約束の裏話ですが、Tetywestの家内が「農家のおばちゃん売り子」として参加していました。朝7時半に会場へ集合したのですが、ほかの県の売り子さん達は全然いなくて男性がミカンの箱をトラックからテントへ運んでいる。香川県だけおばさんたちも手伝って230箱のミカンをテントの中へ・・・10時からの開場と同時にたくさんのお客さんが来てくれました。しかしテントの位置が一番奥の端で、和歌山県の隣という最悪の場所。他の県の売り子さんは農家のおばちゃんではなくて、若い女性ばかり。試食してもらうと「美味しいわね」と言ってはくれるのですが、手にはしっかりミカンの袋を提げている状態。結局、香川県が売り切ったのはベコから3番目だったとか・・・とほほでも、消費者の皆さんと直接お話が出来て有意義だったと、元気に帰って来ました。
2001年11月24日
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世紀末農民的旅日記(その5) 先ずは三江口。その昔道元が中国への第一歩を踏み入れたという場所で記念写真をとる。 次は天一閣。ここは中国最古の図書館。見学後、またまた土産物屋へ。名所へ行く度に土産物屋へ案内されるのは日本も中国もよく似ている。日本に帰ればガラクタになりそうな土産物を一生懸命値切って買い求める日本人の姿も何か滑稽で面白いものがある。 最後に城隍廟で1時間30分の自由行動。城隍廟周辺をぶらぶらする。 17時。夕食は昨夜と同じ「亜細亜飯店」で。寧波最後の食事ということで豪華にスッポン料理、かに料理、鰻料理、ドジョウ料理などを注文する。ここの料理の味は日本人向きなのか、皆とても満足したが、スッポンの血の酒割はアルコールがきつくて飲めなかった。 19時。寧波空港到着。入口で寧波でのガイド沈さんと別れる。ここの通関は機械の感度を上げているらしく、全員がビービー鳴っていた。 飛行機は1時間15分遅れた。搭乗は暗闇の滑走路を飛行機まで歩いて行く。 20時35分、寧波を離陸。海南航空だった。機内の雰囲気は何か陰気臭い感じでちょっと不安になる。 上海に着くとやっぱり都会だなという感じがした。妙に懐かしい。 21時50分。一昨日と同じ「シェラトン華亭賓館」へ。チェックインしてからすぐに数名で南京路へ出かけたが10時をまわっていてどの店もほとんどが閉まっていた。ホテルへ帰っておとなしく寝ることにする。
2001年11月23日
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緊急ニュース☆☆☆ 大阪にお住まいのアナタへ ☆☆☆明日23日(金)に大阪城公園にて、ミカン・フェスティバル開催!!!!関西で年に1回だけ開催される、ミカンの試食販売会です。全国のミカン産地県が勢ぞろい。もちろん香川県も参加!さあ、食べ比べよう!安く買おう!PR目的のフェスティバルですから、美味しいミカンが安く買えます。時間があれば、ぜひお出かけください。(多分10時から3時だと思いますが、予定数量終了次第店じまいです。お早めに)エナエナさん、晴れ乞い!なにとぞ念入りに御願いいたします!!!(行った人だけにわかる裏話は24日の日記に掲載予定。)世紀末農民的旅日記(その4)■3月9日 出発は9時30分なので、それまでは自由行動。 8時にホテルを出て寧波の街を数名で散策。まずは寧波駅まで歩く。夜中に雨が降ったらしく路面が濡れていた。気温は1度から7度、風もある。駅前はバスと人とでごった返していた。バスはその日の人夫を雇って工場へ連れて行くらしい。 運河沿いに長春路を東に歩いて行くと問屋街だった。みかんも売っていたが買っている人は少なかった。解放南路を北上して城隍廟まで歩いたが、城隍廟はまだ閉まっていたので天封塔へ行く。天封塔は高さ51.5メートルの七重の塔。一人2元で入場。上へ行くほど階段が狭くなって、いつまで階段が続くのかとハアハア言いながらやっとのことで頂上に出ると、そこからの眺めに絶句。しばらくの間寧波の街を見おろした後、また長い階段を降りて再度城隍廟へ向かう。ここで買物をしてからホテルへ。時間がなかったのでタクシーで帰る。 9時30分集合で昨日のバスに乗り寧波郊外の阿育王寺へ向かう。ここには中国でも三つしかない舎利宝塔の一つがある。ここには頭部が収められている。ガラス越しだが好運にも見せて貰えた。阿育王寺はとても大きなお寺で日本との関わりも深いので面白く見学できた。笑ってしまったのは入っていきなりの弥勒菩薩の顔。同じ弥勒でも京都の弥勒とはだいぶ違ってニコニコしている。M谷曰く、「笑うセールスマンの実態は仏だった」。 一通り見学してから「阿育楼」という土産物屋へ寄る。K橋、ここで水晶玉を買う。 再び寧波に戻って「甬港飯店」で昼食。ここで待ち合わせ中に数名が輪タクに乗って来る。25キロ離れた天童寺へ行くかどうかの希望をとると、手をあげたのは僅か3名。従ってバスは寧波市内を巡る。
2001年11月22日
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世紀末農民的旅日記(その3) 寧海から三門へは峠越えだが、トンネルを建設中で、ほぼ完成していた。 三門から臨海までは峠を幾つか越える。この辺りは建設ラッシュらしく、道端のいたる所で家を建築していた。煉瓦とコンクリートの組合せで、竹で足場を組んで三階から四階の家を建てている。 11時30分、あと32キロで黄岩。トンネルを幾つか越えて黄岩に入る。道端では竹で編んだ篭にみかんをどっさり入れて売っている。みかんの産地にやって来たという感じがする。 12時15分。黄岩柑橘研究所(正しくは浙江省科学院柑橘研究所)到着。研究所は街のまん中、幹線道路に面していた。狭い門を何度も切り返しながらバスで入って行ったが、研究所の程さんと施(ルー)副所長を乗せてすぐ昼食に行くことになった。 黄岩区役所の駐車場にバスを止めて飯店へ。河魚主体の料理で味付けが濃くて辛い。地方によって料理の味は少しづつ違うそうだ。今回の昼食は「黄岩風中華」といったところ。沈さんによれば、黄岩は寧波に比べて物が高いらしい。 研究所に戻って全員が自己紹介をし合ってから施副所長の話を聞く。 15時、研究所の視察を終え、缶詰ジュース工場へ。程さんの案内で呉(ウー)工場長の話を聞き、工場内を見学する。 16時、全ての視察を終え、研究所で程さんにお礼を言って別れる。寧波への帰路につく。この頃から小雨が降りだす。 故障して停まっている車をよく見かけた。それから交通事故もよく見かけた。対向車は平気でライトをアッパーにしてるし、バイクや自転車は無灯火。その上かなりのスピードが出ているので、ゲーセンでドライブゲームをしている感じ。 22時15分、寧波到着。「亜州華園賓館」へチェックインしてすぐに夕食。歩いてすぐの所の「亜細亜飯店」へ。中華料理に紹興酒とビールで盛り上がる。ここの料理はなかなか良かった。9時半頃までゆっくりと食事をした後、数名はカラオケへ、数名は露店でフルーツなどを買ってホテルの部屋でくつろぐ。
2001年11月21日
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世紀末農民的旅日記(その2)■3月8日 5時50分、ロビー集合。バスに乗ると靴箱ほどの大きさのランチボックスが配られた。 上海空港の待合で食事を取っていると、アナウンスを聞いた茅さんが突然「さあ、行きますよ」と立ち上がりみんな急いで準備する。定刻より5分早く7時25分に寧波に向けて離陸。飛行機は東方航空。 飛行時間は30分。上がったと思ったらすぐに着陸態勢に入った。寧波上空から見た風景は広々とした水郷地帯だった。河が蛇行していてそれに沿って二・三十軒の集落がかたまっていた。 寧波に着くとまずはトイレ。入口で見張りのオバちゃんに2角を払って用を足す。 寧波でのガイドは沈建国さん。若いが日本語は達者だ。運転手は人民解放軍出身の鄭志軍さん。外事接待というプレートを掛けたイタリア製のマイクロバスに乗り込む。 8時10分、黄岩に向けて出発。寧波の今日の気温は12度。昨日は25度もあったらしい。暫く走ってガソリンを入れる。 寧波を出ると次は奉化。奉化までの道路は4車線。去年できたこの道路は企業が合同で出資して作ったので有料。大型は12元、普通車は6元。奉化に入ると緑色をした貨物自動車(本誌表紙画参照)や自転車、自転車で引っ張るリヤカー、人力車を自転車で引っ張る「輪タク」などがたくさん走っていた。特に貨物自動車の印象は強烈だった。ジーゼルエンジンのテーラーに運転席と荷台を取り付けただけという感じだが、どうやら田舎ではこれが大活躍しているようだ。 「○○○公司」と書かれた工場が目立つ。工場の塀にはスローガンらしきものがたくさん書かれていた。幹線道路の両わきには並木が植えられている。山手には竹林、みかん畑や桃畑も見られる。 奉化を過ぎる頃から煉瓦工場をよく見かけるようになった。 寧海に入ったところでトイレ休憩。工場のトイレが比較的整備されているらしいので工場のトイレを借りる。それでも腰くらいまでの仕切りがあるだけ。 寧海を越えて峠にさしかかる途中で結婚式を見かける。家中に赤い紙をべたべた貼ってある。「喜喜」という字が結婚の印だそうだ。
2001年11月20日
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■3月7日 世紀末農民的旅日記(その1) 7時30分。JA出張所集合、一名ジャストオンタイムで出発。貸切りバスにて淡路島津名港へ。途中、綾南で一名乗車。これで15名全員揃う。 11時。津名港着。待合室で弁当を食べる。配られた弁当のパックに書かれた弁当屋の名前は「北京」。オッッいきなり中華料理か、と思ってフタを取ると普通の幕の内。ちょっと安心。 11時57分。高速艇、津名港発。雨が降り出す。 12時40分。関西空港着。チェックインの後、出発まで免税店を覗いたり、お茶を飲んだりして時間をつぶす。 14時20分。ウィングシャトルで44番ゲートへ。中国東方航空と機体に書かれた旅客機が停まっているのが見える。ボディは白地に赤と青のラインが描かれているが翼は無塗装の銀色。全然アカヌケしない機体。ちゃんと飛ぶんか、と皆少し不安になる。 15時15分。東方航空、上海に向けて離陸。さすがに機内サービスはJALやANAとはだいぶ違う。スチュワーデスは平均若くて背が高い。面白いのはチーフパーサーらしき人だけ名札を付けていて、他のスチュワーデスは皆SO275とかSO244とかのナンバーだけの名札を付けていた。 上海との時差は1時間。従って飛行時間は2時間だが到着は16時20分。1時間得した感じ。 17時10分。入国審査。団体名簿の順番に一列に並んで審査を待っていると、私たちの傍らを空港係員が片手に洗面器のような器を持って通り過ぎる。不図見ると洗面器の中は多めのご飯に野菜炒めのようなおかず。誰かが思わず「犬のご飯?」と一言。どうやら公務員の給食らしい。 空港を出るとガイドの茅(マオ)さんが「○○町果樹研究会」のカードを持って待っていてくれた。マイクロバス(運転手は張さん)に乗り夕暮れの上海へ。日中の気温は18度もあったらしく、夕方でも思ったより暖かだった。ちょうど退勤時間らしく、バスを待つ人の群れがいたるところで見られた。上海の郊外は建設ラッシュ。古い建物を壊して新しいビルがどんどん建てられている。 まずは土産物屋で両替。1万円=770元。夕食は隣の「慶郷レストラン」で鍋の中華風バイキング。ここのコックの箸さばきは見物だった。 19時50分。「シェラトン華亭賓館」へチェックイン。 20時。希望者数名で街へ繰り出す。地下鉄(2元)にて人民広場で下車。南京西路の端から南京東路を外灘に向かって散策。途中食料品店で物価調査をする。閉店近くになると店員たちが算盤を取り出して売上をチェックし始めた。スイカの種を塩辛く煎ったのや金柑を干して砂糖をまぶしたのもの、またマンゴスチンなども数個買って、再び南京東路を歩く。道端でチマキを買ってみんなで分けて食べる。これは結構美味しかった。マクドナルド(麦当労)まで来て引き返す。途中「夜光市」と書かれた屋台横丁でシューマイを食べる。これもなかなか美味しかった。人民広場へ戻ると人々が駆け足で地下鉄の方へ向かっているので私たちもそれに続いて走る。10時の終電にぎりぎり間に合った。 22時30分過ぎ、ホテル到着。マンゴスチンを切ってみんなで食べる。 零時、就寝。
2001年11月19日
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「世紀末農民的中国紀行」はまだまだ続くのですが、硬くて真面目な研修報告が終わったところで、ミカンでも食べながらちょっと小休止を。柑橘系の香りにはリラックス効果があるんです。エプロン2号さんから、「ミカンで遊んでいる」というBBSの書き込みを頂戴しました。そこで今日は「みなさんもミカンでしっかり遊ぼうよ」という話題です。昔からポピュラーなのが、「あぶり出し」ですね。ミカンの袋の端をちょっと破って、果汁で紙に秘密の文字を書き、乾かします。あとは、ロウソクの上にその紙をかざすと・・・・あーら不思議。たちまち浮かぶ「おまえはアホや」の文字。これは、ミカンに含まれる糖分が焦げて色が変わるために起こります。※くれぐれも火事にはご注意くださいね。次に紹介するのは、「ミカン花火」です。これも、ロウソクか100円ライターが必要です。ミカンの皮を二つに折って、油胞の汁を火に向かって飛ばします。すると、パチパチッとロウソクの炎がはじけます。部屋を暗くすると、雰囲気はさらに倍増!夏の花火は夜空に開きますが、冬の花火はコタツの上に可憐に現れます。ミカンの油胞にはその名の通り純度の高い油が含まれています。これを使って柑橘系の香水を作るんですよ。それに、お風呂に入れると肌がすべすべするのも、この油の効果なんです。※これも、火事にはくれぐれもご注意です。silfy1さんからBBSに貴重な書き込みをいただきましたので紹介します。「みかんをこたつで食べた後、ミカンの皮をホームコタツの中に入れておくと、篭りやすい足の臭い匂いも消してくれて便利。」・・・ぜひお試しください。最後に、手品を一つ。ミカンの皮を剥くまえに、中の袋の数を当てることが出来ます。統計的には10~12個が多いので、あてずっぽうでもかなりイイ線いくのですが、より確実に当てるためにはヘタをはがして、中の白い放射状のスジの数をかぞえます。これは、内部で袋につながっているので、数は袋と同じなのです。ただし、みんなの見ているところでは、ヘタが落ちているのを気づかれないようにうまく演技してください。
2001年11月18日
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柑橘試験場・缶詰工場を訪れて(その4) 20キロ西にある山手の支場のポンカンを出してくれた。私が食べたのは大変甘くておいしかったが他の人が食べたのは大変酸っぱかったそうだ。まだ味の面での品質管理は進んでいるとは言えないようだ。 試験場の門には臨時作業員募集の張り紙がかけてあり、真っ昼間なのに四~五人の人がそれを熱心に眺めていた。中国の失業率はかなり高そうだと感じた。 試験場の視察が済んだのが3時。そのあと缶詰工場へ見学に行く。この工場は程氏の顔が効くらしく、竹で作った門を開けさせてバスで工場の敷地内にはいると麻袋に入れた加工原料のみかんが庭に積み上げてあった。サビダニ、黒点、かいようと見た目はかなり汚いみかんばかりだった。訪問したのは国営工場で8つあるうちの第一分場だった。他に民間の工場もたくさんあるそうだ。 工場長の呉(ウー)氏の話を聞く。1958年に工場が出来た。主な産品はみかんの缶詰、枇杷の缶詰、山桃の缶詰、黄桃の缶詰、今では豚肉、野菜の缶詰は生産を止めた。原料不足のため。1989年から日本の日商岩井と合作して輸出製品を開発した。品質は指導のもとで高くなってきた。95年の缶詰生産量は3、500トンだった。日商岩井は毎年ここから荷物を買っている。日本へは生産量の60%を輸出している。 だいたい生産量の15%が加工原料として消費されている。冷凍みかんは昨年からようやく日本へ輸出し始めたが、量は500㌧くらいだそうだ。 枇杷のジュースがあるそうですねという質問に何を勘違いしたのか、どうぞ試食して下さいと枇杷缶詰とみかんゼリーを持ってきてくれた。どちらも少し甘さがきついような気がした。みかんゼリーは日本向けに日商岩井の指導で開発したのだそうだ。黄岩は枇杷の大産地で中国一の生産量、1㎏5から6元(65円~78円)だそうだ。袋はかけないで栽培するという。 「どうか工場を見て下さい」と階下の工場に案内された。工場は今は作業をやっていなかったが、広い敷地の割に機械は小型でがらんとしていた。ピーク時に工場の従業員は第一分場で1200人雇用している。全体で5000人雇用している。缶詰の期間は11月10日から2月末までだそうだ。 ジュースの生産能力は1時間当たり1トンで濃縮を作る。缶詰と同じ期間なので缶詰の規格に合わないのをジュースにする。政府からは1千トンのノルマがあるが機械の能力では今年は800トン位しかできないだろうとのこと。袋に入ったジュース原料は小玉で、外観も極端に汚かった。それでも食べてみると甘くておいしかった。 工場で使う水源は西の山のダム。水は黄岩の水道用水場で一度濾過したものを工場内のイオン交換処理で再度濾過し、おいしいきれいな水を作っている。これがおいしい缶詰を作れる秘訣だそうだ。そういえば中国の河はたいてい黄色く濁っている。日本ではそれほど気を使わなくてもおいしい水が飲めることを感謝した。 工場の敷地内では製品を段ボールに箱詰めして荷車(大八車)で運んでいた。パレットもあったが、おもちゃみたいな大きさで、とてもフォークリフトで使うためのものではなさそうだった。製品を運ぶためにトラクターを改造したようなトレーラーが走っていた。 缶詰工場の視察を終えたのは3時45分。試験場で程氏にお礼を言って別れ、また一路寧波へ引き返す200㎞のバスの旅が始まった。この頃から小雨が降り始めた。
2001年11月17日
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柑橘試験場・缶詰工場を訪れて(その3) そのあとの質疑応答では○ 全国の柑橘栽培面積は112万㌶で、黄岩の栽培面積は8000㌶。全国の6.7%のシェアだから、大産地なのだ。黄岩のみかん栽培の歴史は全国でも一番古く、生産量も浙江省が一番多い。○ 温州みかんの生産量は 94年の統計では608万トン。95年では700万トン。 生食で輸出するのはカナダが中心。ロシア、アメリカ、香港へも輸出。カナダへの輸出を増やす予定はない。輸出量は生食の5%位の量だという。日本へはゼロ。冷凍みかんが少し。○ 加工部門では95年10月から96年3月までに全国で8万トン缶詰が生産された。そのうち3万トンが黄岩の缶詰で、主に日本に輸出している。(1.5万トン) その他にはアメリカ、ヨーロッパへ輸出。○ 中国で一番増えている品種は 70年代は温州みかん。80年代はポンカンとスイートオレンジ。○ 赤ダニはいるか?その防除は 赤ダニはたくさんいる。防除はニッソラン、ジサス(又はエサス?)国産の農薬では石灰硫黄合剤とマシンオイルをたくさん使っている。○ 中国の面積の単位は「ムー」で1.5ムー=10㌃。1農家の柑橘面積が平均30㌃。○ 黄岩の反収は1.5㌧~2㌧/10㌃。○ 市場価格は1㎏3元(39円)。農家手取りは約半分。米を作っている人よりずっと収益は多い。しかし6~7年前から柑橘の価格が横ばいで、今後、上昇する見込みがない。国家の政策によって今は米の値段が高くなっているので、米農家もよくなっている。○ 黄岩のみかん農家の後継者は減少している。沿海地区は開放政策がすすんでいて、農家はみかんで儲けた金で家内工業を興している。黄岩のみかん農家は8~10年前に柑橘類で儲けた資本を貯めているので78年以降開放路線になるとお金を出資して工場を作っている。○ 黄岩は全国でも有数のプラスチック工場、金型工場、食品加工工場がある。だから環境汚染はすごいものがある。
2001年11月16日
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柑橘試験場・缶詰工場を訪れて(その2) 本館二階のふかふかのソファーに座って程氏の通訳で施(ルー)書星副場長の話を聞いた。まずお互いに自己紹介をやった。この試験場は1936年に全国で最初に作られたもので、面積は25㌶、そのうち柑橘圃場は23㌶ある。本場以外に三つの支場があり、山手に一つ、山間地に二つある。栽培、品種、病虫害、加工の4つの研究室から構成され、加工実験工場、分析室、科学情報室を備えている。また「浙江柑橘」という機関誌も発行している。 品種研究室では新品種の開発と海外からの優良品種の導入を行っている。この二十年間で日本から一番多く導入された。その他にはモロッコ、アメリカ、スペインからも導入した。品種の交雑育種は継続的に行っている。その中で現在までに普及している品種は3つある。 栽培研究室では柑橘の栄養、特に複合肥料の開発を行っている。この試験場で開発した肥料は尿素を主体としたものだが国家農業部優秀賞を受賞した。また、柑橘の生理の研究も行われている。 病虫害研究室では陳氏が天敵の研究、ウィルス問題の研究、農薬も含めた総合防除の研究を行っている。 加工研究室では今回通訳としてお世話になった程氏が、黄岩の数多い国営から民間資本の缶詰工場での問題をテーマとして研究している。特に輸出するのが目的だそうだ。また、ジュースの生産のレベルが低いのでその研究も行われている。ジュースの苦みの問題や、ジュースの生産プロセスを研究しているそうだ。
2001年11月15日
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柑橘試験場・缶詰工場を訪れて(その1) tetywest 寧波から黄岩までの200㎞は幹線道路が一本しかない。従って信号はない。一本の道を人も、自転車も、バイクも「改造車」もバスもトラックも乗用車もみんなが使う。つまり我々を乗せたバスはいつも追い越しをしている。クラクションはしょっちゅうならす。道は一応舗装してあるが、ときどきでこぼこがあってシートの上で跳ね上がる。そんな中を4時間以上走って国立科学院柑橘試験場へ着いたのは12時15分だった。運転手が市内へ入ってからの行き先がわからずに警官に聞いていた。 試験場は街の真ん中の幹線道路に面したところにあった。運転手は技を見せて狭い門の中へバスを入れ、みんなは拍手をしたのだが、試験場の先生を乗せてすぐに昼食に行くことになった。こんな事なら門の前へ止めておけばよかったのにと思った。 試験場内の圃場にはハムリン、興津早生、試験場での選抜品種、文旦などが植えられていた。どれも肥料不足の様子で葉が少なく木は直立気味、わりと密植で栽培している。三十石は出そうな大きなスプリンクラーが設置されていた。試験場の中門入り口付近には台木に使う品種で黄岩地方のサワーオレンジがあった。赤い実が成っていた。 試験場で案内してくれた程氏に日本でブームになっている品種だとデコポンの果実をあげた。程 紹南氏は主任副研究員で先日我が町で講演されたH先生の紹介でお世話になった。以前には農水省興津支場で一年間研修した経歴を持っている。今までにこの試験場を訪れたのは愛媛、熊本、福岡、静岡だと言う。
2001年11月14日
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今、なぜ、中国なのか 江 知民 まず、身近な柑橘の輸入という観点からみると、我が国生鮮柑橘類の輸入量の94%は米国であるが、将来温州みかんの輸出攻勢が心配な国として中国、韓国、ニュージーランドがあげられる。中国では文化大革命後、果樹栽培が復興し、86年以降の農地の個人所有や、作付け・流通の自由化により爆発的に新植が始まり、生産量が急速に伸びている。しかし、中国の一人当たり年間果実消費量は21㎏(柑橘類5㎏)と少なく、当面は国内消費が優先されるであろう。しかし、底力のある中国のこと、十年、二十年後にはどうなっていることか・・・・。 もっと視野を広げ、二十一世紀を展望して世界の食糧・農業・環境を考えるとき、鍵を握るのは中国の食糧事情だと言われている。米国のワールド・ウォッチ研究所のレスター・ブラウン氏が提起した中国脅威予測をきっかけに、この問題に対する関心が再び議論を呼び起こしている。 ブラウン氏の主張は、「中国の人口は年間1400万人ずつ増え、所得も記録的な割合で増えている。所得の増大は、コメ等でんぷん質の主食で摂取カロリーのほとんどを賄う単調な食事から、肉や卵をより多く取り入れる食事への変化をもたらす。それに伴う穀物需要が急増する一方で、耕地を農業以外へ転用する動きが大規模に進んでおり、食糧生産力は減退すると見られている。莫大な人口と乳肉製品の需要急増を抱える中国は、まもなく食糧の不足分を輸入によって補うようになり、これが世界の中の食糧価格を急騰させ、ひいては世界的な規模の食糧危機が発生することになるだろう。」というものである。 ブラウン氏の予想には反論も多いが、世界的に注目されたと言う事実は、中国の影響力の大きさを物語るものであると言えよう。中国の食糧供給力がとりわけ注目をあびたのは、①改革開放以来の中国経済の急成長②農村地域の急速な商工業化③莫大な人口と消費規模④相対的に少ない一人当たり耕地面積(中国平均40㌃、日本は1㌶)のためである。これらの項目は、どこかで聞いたことのあるフレーズではないでしょうか。 農業には二つの発展方向がある。(1)耕地の拡大を中心とする外延的発展、(2)耕地拡大はそれほど多くなく、主に反収の増大による方法である。(1)はアメリカ、旧ソ連に代表され、機械化による農民一人当たりの生産性の向上が顕著である。(2)は優良品種、肥料の多投入、入念な作物管理による反収増を目指す。中国、アジア諸国等高い文明を築いた地域で、既に開墾し尽くされている様な地域に代表される。せまい日本の場合、言うまでもなく(2)にあてはめられる。 意外に中国農業と日本農業は共通した問題を抱えているのかも知れない。
2001年11月13日
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はじめに 1996年、3月7日、午前7時30分。一台のマイクロバスが、S地区のみかんづくりとみかん研究家の併せて15名を乗せて、JA駐車場を後にした。目的地は中華人民共和国、浙江省は黄岩。中国のみかん産業の実態を自分たちの目で見に行こうというわけだ。 そもそも中国のみかん産業についてはじめて知ったのはもう七・八年も前のこと。興津試験場長のエラい先生のお話を聞きに行ったときだった。「オレたちは加工品なんてつくらないから、ブラジルのオレンヂジュースなんてどうってことないね。」「オレンヂ自由化だって!遠い国から来たオレンヂなんて防カビ剤いっぱい使って、臭くて食えねーよ。それにありゃー毒だよ、ド・ク。人間の食いもんじゃねーよ。」と、強気だった私たちも、「何、中国でみかん?瀬戸内とおんなじ気候に恵まれてるとこで作ってるって。でも、オレたちの相手ンなるだけのテクニック持ってんのか。何、日本人の技術屋が現地で指導してるってー、バカヤロー。」「中国は近いから防カビ剤なんて要らないしなあ。外貨稼ぐんだったら何するかわかんねーし。最近、開放政策でけっこう盛り上がってるジャン。」というわけで、私たちの中国に対する関心は次第に高まり、ついに、「そんなら見に行ってやろうじゃねーか。」ということになり、「どうせなら、見てきたことをミニコミ誌に書こうじゃないか。」と、なったのであります。 拙い冊子ですが、見たこと感じたことを少しでも伝えられればと思っています。
2001年11月12日
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ここに一冊のミニコミ誌がある。「ルーヂャ6号」と名付けられたその小冊子は、「世紀末農民倶楽部」によって1996年8月5日に発行された。総ページ数は40ページの「世紀末農民的中国紀行」である。ミカンの収穫期を迎えて焦りまくっているtetywestが、窮余の一策として考え出した日記ノルマ対策、それは過去に発行した旅行記の丸写しだった。(非難轟々、石つぶて、雨あられ、ついでに寒まきびしまで飛んで来そう・・・・恐)前世紀の終わりごろ、私の地区に「世紀末農民倶楽部」というグループがあった。日々ミカンを作りながら、「農村を元気にしよう!」「農家の心意気を全世界に!」と理想は高く、地区内の全世帯220戸にミニコミ誌「ルーヂャ」を配布していた。「ルーヂャ」とはエスペラント語で「赤」の意味である。しかし別に共産党の手下ではない。私の住んでいる地域の地名は、古語で「赤」・「朱」と言う意味がある。「REDISCOVER OUR REGION」という願いを込めて命名されたのである。もうお気付きかもしれないが、過去形で書いたのには理由がある。現在「世紀末農民倶楽部」は存在していない。あまつさえ、「ルーヂャ」も6号を最後に発行されていない。新世紀になったので当然と言えば当然なのだが、「ルーヂャ」休刊の裏には、ここでは語り尽くせぬ物語がある。そんなわけで、この6号は私にほろ苦い過去を思い出させる特別の存在になっている。ともあれ、5年前は全く中国を知らなかったtetywestが、今一丁前に中国について語ることができるのも、この時の中国旅行がきっかけになっている。その原点に迫る「世紀末農民的中国紀行」をどうかお楽しみいただきたい。このミニコミ誌は、私が編集したものではないのだが、私の書いた原稿もある。また印刷技術の関係で、写真は使わず各所にイラストを配置した編集の冴えもお伝えできるように、デジカメで撮った画像ページも作る予定である。
2001年11月11日
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紀行文の構想が、まだ固まっていないので、代打に登場してもらいましょう。このネタもぼちぼちとシリーズ化の予定です。ミカンが日本で最初に残っている記録は古事記、日本書紀です。第11代垂仁天皇が田道間守(たじまもり)に命じて不老不死の珍果、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を中国から持ち帰らせた。とあります。しかしこれは現在皆さんが食べているおなじみの温州ミカンではなくて、橘だったようです(ダイダイ、又は小ミカンだという説もあります)。では温州ミカンはどこで生まれたのでしょうか?温州ミカンは学名を「シトラス ウンシュー マクロヴィッチ」といって日本産なのです。日本のどこかと言うと鹿児島県長島で、この地は古くは遣唐使船の発着の地でした。天台宗の僧が、中国は天台山のふもと浙江省の産地からミカンの種を持ち帰り、そこへ植えたのだと思います。その珠心胚実生(しゅしんはいみしょう)か突然変異が温州ミカンです。発見されたのは江戸時代なのですが、当時は種の無いミカンを食べると、子孫ができなくなると敬遠されて、あまり普及しませんでした。ちなみに浙江省の港町が温州です。面白いことに、現在、中国の温州市には日本から輸入された温州ミカンが栽培されています。それでは、英語では温州ミカンは何と言われているかご存知ですか?「サツマ マンダリン」または単に「サツマ」と言われています。この名前の由来にはちょっとしたエピソードがあります。1889年、今から112年前の明治22年にパリで万国博覧会が開かれました。エッフェル塔が出来た時ですね。薩摩藩は西南戦争の後ではありましたが、まだ独自路線を歩んでいまして、単独で特産品を出品したのです。その時のミカンが人気を呼んでそれ以来「サツマ」と呼ばれるようになりました。日本ではサツマと言えば「イモ」ですが、アメリカやヨーロッパでは「ミカン」なんです。珠心胚実生とは・・交配していない種から出来た品種のこと。親の良い特徴だけが現れる事がある。
2001年11月10日
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今日から市場回りで3日間いません。mmayunさん、ちゃんぽんと皿うどんのこといっぱい書いてくれて、ありがとうございました。この日記読まれたみんなも、ちゃんぽんと皿うどんのこと、ぜひBBS見て正しく理解してくださいね。それでは、行ってきます。 おお!12時ちょうどだ。
2001年11月07日
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皿うどんセットを食べる熊本駅から特急「つばめ」で1時間20分。博多駅に到着する。ちょうど昼食の時間だったので、駅ビルの地下にある食堂街へ行く。私は何故だか九州へ来ると皿うどんが食べたくなる。それも博多風ではなく、長崎風のパリッとした、細いラーメンのから揚げとしか言いようの無い、出し汁の中におさまるのではなく甘い八宝菜あんかけを載せた、讃岐うどんとは似ても似つかぬ、よくこれでぬけぬけと「うどん」と名乗れるとあきれ返るほど厚顔無恥な、あの皿うどんが食べたくなるのだ。実は九州には、もう一つ強烈に「ぜひとも一度は食べたい!」と思っているものがある。私にとってまだ未体験ゾーンの食べ物で、名前を「トルコライス」という。その実態は、一皿の上にチャーハン&スパゲティ&トンカツが同居しているらしい。東西文化の交流点をあらわすエキゾチックなネーミングといい、摩訶不思議そうな組み合わせといい、その存在を知ったときからたちまち「憧れのトルコライス」になってしまっている。残念ながら、博多駅地下食堂街では「幻のトルコライス」は発見できなかったので、皿うどんセットを注文した。これには餃子とチャーハンが付いているのでトルコまでは行けないが、中国くらいまでなら行った気分になれそうだ。ウエイトレスさんは、わざわざ「硬いうどんですね」と念を押して注文を取る。こちらもウエイトレスさんのスカートにあるスリットの長さを約10cmと目敏くチェックする。しばらくすると皿うどんが運ばれてきた。セットメニューなのでトレイの上にきれいに配置されている。昨夜のちゃんこはデジカメを忘れてエプロン2号さんの期待を裏切ってしまったのだが、今度は抜かりなくデジカメに撮ったので画像ページに掲載しておこう。そして、私は皿うどんをほおばり、チャーハン・餃子を食べながら遥かなる中国を想い、日本と中国との接点、異国情緒溢れる長崎に思いを馳せるのであった。これで、750円とは・・・かなり満足。それにしても、何で「うどん」なのだろう? 皿うどん(これで「熊本への旅」は全部おわりです)
2001年11月06日
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ちゃんこ&馬刺しを食べる熊本での夕食はちゃんこだった。ホテルの前に送迎バスが到着して、我々をお店まで運んでくれる。大きな鯛の看板と、ビルいっぱいに書かれた「大地」の文字。入り口がまた変わっている。トンネルのようなところをくぐっていくのだが、それが総ガラス張りで、頭の上にも横にも魚が泳いでいる。店内に入ると、まず目を引く大きな力士像。モデルは双葉山だそうで、高さは5mはある。その上には相撲の吊り屋根がぶら下がっている。天井まではゆうに10m以上ありそうだ。飾ってある有田焼の皿や壷も馬鹿でかい。まるで、ガリバー旅行記の「巨人の国」へ来たみたいな錯覚に陥る。この店のオーナーは元力士で、四股名をそのまま店の名前に使っているそうだ。大鵬の後輩弟子だったらしい。4階へ案内されると、そこは個室になっていて、それぞれ相撲部屋の名前がついている。我々が案内されたのは立浪部屋だった。柚子胡椒とゴマで味付けされた味噌鍋に、材料は鶏のミンチ、豚肉、椎茸、エノキ茸、ハクサイ、ネギ、ニラ、モヤシ、ハルサメ、豆腐、油揚げ、サツマイモ、餅。それ以外に、酢の物、刺身、ゆで蟹、辛子レンコン、そして、これ無くして何が熊本!という名物馬刺しが並んでいる。部屋の中は震えるほど寒い。早速今日の研修の成果を祝い、乾杯をして食事が始まる。部屋付きの仲居さんが一人いて、慣れた手つきでちゃんこの材料を鍋に入れてくれる。私は、まず馬刺しに箸が伸びる。大根のつまに青紫蘇をあしらい、その上に貴重品のように載せられている馬刺し5切れ。牛肉よりさらに深みを帯びた赤い肉の中に脂肪の筋が細かく走る。馬肉の霜降りなのだ。からし醤油に端の方を漬けて、口の中へ。おお!とろけるような舌触り。これを食べただけで、熊本へ来た甲斐があるというものだ。その皿の中にもう一つ小さな白い肉の塊がある。仲居さんに聞いたところ、馬のタテガミの付け根の肉で、精力が付くとのことだった。食べるとコリコリとした食感があった。そのうち、茶碗蒸とサクラ納豆(馬肉+納豆)が運ばれてくる。ちゃんこの方もぐつぐつと煮立ち始める。さっきまで寒くて震えていたのに、もう上着を着ていられない状態になってきた。ちゃんこはピリッと辛口で、実に美味しい。ボリュームも相当あるのだが、材料の半分を使ってこしらえた最初の鍋は瞬く間になくなってしまった。鍋が空になると仲居さんは、後の半分の材料を入れてくれる。そのすぐ後に天ぷらがやって来る。このあたりからは宴会モードに移行して、酒の徳利をもって席を移動し、さしつさされつの杯のやり取りが始まる。その間も私一人だけは、わき目もふらず鍋に喰らいつく。なぜかというとアセト・アルデヒド分解酵素欠損症の体質なのだ。平たく言うと「下戸」である。このような席でも烏龍茶しか飲めない。当然モトを取ろうと食いに走ることになる。おかげで、宴席が終わる頃にはすっかり満腹状態になっている。しかし、この店では最後にご飯と澄まし汁がでた。漬物をおかずに何とかこれを平らげたとき、何と!さらにチーズケーキが出てきた。さすがの私もちゃんこ鍋の後のチーズケーキという取り合わせにはついて行けず、胃袋にもそれが入る余地が残っていなかった。結局出されたチーズケーキは全部、仲居の「ひとみ」さんへのプレゼントになった。
2001年11月05日
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ハイテク選果機河内地区での研修の目的はハイテク選果機の使用方法についてだった。ここは日本で一番最初にハイテク選果機を導入した産地である。現在、ミカン産地の3分の1は、このハイテク選果機を使っている。おそらく数年中に国内の全部の産地で使われることになるだろう。そこで、かなり専門的な話になるのだが、なぜそれが必要で、どのようなハイテクを駆使した選果機なのかを説明することにしよう。 ミカンとは、同じ一本の樹に成った果実でも、果実の付いている場所によって味が違う。樹の上部から真中までは糖度が高く、下の方は低い。樹の外側は糖度が高く、内側は低い。日光のよく当たる南側の糖度は高く、北側は低い。その差は少なくとも2度ある。さらに、同じ園地でも水はけの良い場所の樹は糖度が高く、水はけの悪い場所の樹は低い。さらにさらに、日光の良く当たる南向きの園地とあまり当たらない北向きの園地では当然違うし、標高が低いところと高いところでも違う。つまり、生産者から考えれば、色々な味のみかんが個性的に出来るのが当たり前なのだ。しかし消費者からすれば、たとえば10個買ってきたミカンが、美味しいのからマズイのまで、いろいろ混ざっていたのでは安心して買うことが出来ないだろう。そこで生産者は、園地の方角が同じミカンを一緒に出荷したり、ミカンの色を揃えたり、サンプルのミカンの糖度や酸度を計って区分けをすることによって1箱の中のミカンの味が同じになるように努力をする。しかしこれでは所詮、ミカンの外側から見た判断しか出来ないために、その努力も完璧ではなかったのだ。そんな時、生産者の期待を一身に担って登場したのが「ハイテク選果機」である。正式には「光センサー方式非破壊およびカラーグレーダー選果機」という。この選果機は一個一個のミカンの「糖度」「酸度」「大きさ」「色」「形」「傷」「浮き皮」を全て調べて選別するという、超スグレモノの選果機なのだ。この選果機を使うことによって、1箱の中のミカンの味を完全に揃えることが可能になった。消費者の皆さんに安心してミカンを買っていただけるのである。ではどうやって味を調べるのかという説明をしよう。ミカンはベルトコンベアに乗って運ばれていく。最初の部屋では、ミカンに強い光を当てる。反対側でミカンの中を通過した光を受け取る。そのとき、ある波長の光は糖度によって受け取る光の量が変化する。その変化量でミカンの「糖度」を測定する。ミカンが甘いと光の透過量が少なくなるのだ。ミカンの「酸度」や「浮き皮」も同じ要領で測定できる。これを「光センサー方式非破壊選果機」という。次にそのミカンはカメラで囲まれた部屋の中を通る。ここで上下、前後、左右から写真を撮られ、「大きさ」「色」「形」「傷」を調べられる。これを「カラーグレーダー選果機」という。この2つの部屋を通ったミカンは、それぞれのデータを総合的に判断するコンピュータによって一個一個入るべき箱を決められてしまう。ベルトコンベアに乗って運ばれて行きながら、ちょうどそのミカンが入るべき箱の位置に来た時、コンベアから落とされて箱の中へ、という仕組みになっている。選果機の処理能力は1つのベルトコンベアで、1秒間に6個。8時間稼動で約10トンである。面白いことに、これはコンピュータの処理能力に左右されるのではなく、ミカンを一個一個確実に測定するために開ける間隔に左右される。今のところ15cmが最低間隔であり、そのようにミカンを並べるためにはベルトコンベアの速度は秒速1m以下でなくてはならない。この1本のラインを造るコストは約1億円である。河内地区の場合ラインは24本あり、一日300トンのミカンを選果する。ただし、毎日夜10時までの残業だそうだ。選果場全体の総工費は30億円で、半分が国の補助金。残り15億円を農家が負担する。(つづく)
2001年11月04日
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ここまで書き進んで、ふと思い出したことがある。確か昔、県の依頼で「草枕」を使って原稿を書いたことがあったはず・・・・ごそごそと手当たり次第に探し回ること30分。あった!ありました。我が原稿・・・・「農業香川 ’85年10月号」・・・・何と16年も前ではないか!!当然何を書いたのか全く覚えていない。なになに・・・「若い世代が語る新しい農業」?おお!顔写真もすこぶる若い。稚拙な文章を皆様に紹介するのは恥ずかしいのだが、せっかくの30分の努力、無駄にするのは惜しい。農政へのジレンマ tetywest今の日本農業を「草枕」風に書いてみると「豊かに実る稲穂を見ながら、こう考えた。地に働けば家が建たず、情報に棹させば流される。機械を通すにゃ窮屈だ。とかくに百姓は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところへ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、牛が生まれて、ハウスができる」という具合にでもなるのでしょうか。 兼業農家は増え続け、基盤整備はなかなか進まず、米価の据え置きで稲作に夢が持てない状況の中で、畜産・花卉・施設野菜の占める比率が次第に大きくなってきています。将来も基本的にはこの傾向が続き、主な穀物(小麦・とうもろこし・大豆)は外国産の安いものを買い、新鮮さが要求されるものや、種類は多く量は少なくていいものを国内で作り、米は片手間に作ってちょうどよい。というパターンが定着するでしょう。ひと言でいえば「国民の裏庭」的農業へ移行した方が、農家経済は豊かになるし、国民の食生活も豊かになるだろうと思うのです。 しかし一方では、それは本来の農業の姿ではないという考えが頭の隅から離れません。世界の先進国を見渡せば、工業と農業は車の両輪のようにバランスが保たれています。日本は、歴史的にも世界に類の無い新しい大胆な試みを、一億国民の運命を賭けて実践している国なのです。しかしこのような、いざという時国民を養っていけない基盤の弱い農業は、その国の繁栄にかげりが見えた時、もろくも崩れ去ってしまうのではないでしょうか。 私が今後の農政に望むことは、農家負担を出来るだけ小さくしながら、基盤整備を進め、国民を養っていける農業を確立してもらいたい事です。そしてそのために、国民のみんなに農業が国家存続の基本であることを理解していただき、農業の社会的地位を向上させてもらいたいと思うのです。 10年後の農家は、「地に働けば倉が建つ」でありたいものです。ちなみに16年後の現在も我が家に倉は建っていない。(つづく)
2001年11月03日
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「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」・・・・「草枕」の冒頭である。私達はこの「草枕」の山路を夏目漱石とは逆に走っている。河内地区を過ぎると急に海が見えなくなり、ミカン園も見えなくなった。周りは杉木立になる。これで、雨でも降れば最高のシチュエーションなのだが、あいにく?天気は快晴。「峠の茶屋は、昔は峠のこっち側にあったとばってん、今は向こうへ移動しとります。」運転手さんの観光ガイド復活である。ミカンも見えなくなって、私達が静かになったのを見計らった絶妙のタイミングだと感心する。「ところで運転手さん、山を回るとタクシー代がどれくらい余分にかかるの?」「・・・・まあ、ちっとは距離も遠かばってん・・・・」「1000円ぐらい?」「・・・・・」「2000円?」「・・・・お客さんは、東急インへ行かれなさっとでしょ?熊本駅からやったら余分に900円、いやぁ950円かかりますばい・・・・」料金のことになると、何故か口ごもる運転手さんである。研修経費で落とせるタクシー代なので、いくら余分にかかってもかまわないのに・・・・と可笑しかった。峠を越えて下りになったとき、道路の右側の少し高いところにわらぶき屋根が見えた。植木を垣根状に植えてあるので、道路からは茶屋の様子は見えなかった。運転手さんはガイドは続けながらも車のスピードを緩めない。「な、なぜ?さっき頼みもしない展望所に停まった運転手さんが、ここに停まらない筈はないのに」と心の中で少しあせる私であった。すると、少し下った所に広い駐車場があった。「峠の茶屋公園」という大きな看板と「本日休業」の小さな看板が・・・・入り口にはチェーンが張ってある。「峠の茶屋」はあっという間に見えなくなった・・・・残念!そうだったのか・・・・ガイド兼運転手さんの話によると、「峠の茶屋」は平成になって新しく復元したのだそうだ。(つづく)(九州方言スペシャリストのmmayunさんにご指導いただきましたので、運転手さんの言葉はバッチリ。どうか、九州の雰囲気をじっくりとお楽しみください。mmayunさん、どうもありがとうございました)
2001年11月02日
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タクシーはくねくねと曲がりながら、なおも登って行く。対向車はめったに来ない。道路のガードレールは、ミカンの樹より少し明るい緑色に塗られている。このちょっとした配慮はとても私の気に入った。この方が風景との違和感がずっと少ないし、第一おしゃれだと思う。みんなで「自然の緑の中にあるガードレールを緑色にする運動」なんていうのが出来ないものだろうか・・・・やがて、道路の傾斜が次第に緩やかになり、一番高いところにさしかかった。この先に、今の天皇陛下が皇太子の時、夫婦で風景をご覧になった場所があると、運転手さんが教えてくれる。こちらが頼みもしないのに、「停まるでしょ?」と車を路肩に寄せてくれた。早速、道路を横切ってその展望所へ行く。確かに「皇太子御夫妻展望の場所」とか何とか書いた石碑があった。展望所の標高は250mくらいだろうか、眼下にはミカン畑が広がり、海へと続く。海は午後の日差しを反射してキラキラと眩しい。実は、この海からの反射が美味しいミカンの秘密なのだ。ところどころに廃園になったミカン園が見える。お年寄りが頑張ってミカンを作っていたのに、後継者がいなくて仕方なく廃園にしたのだろうと思うと少し胸が痛む。右の方を見ると海と陸とが一直線の堤防で仕切られている。明治時代に干拓で作った農地だそうだ。この地域では山と海へ開拓が広がっていったのか・・・今、有明海は諫早湾の干拓でいろいろな問題が起こっている。草枕ではないが、明治時代よりずっと住みにくい世の中になったと思う。 展望所からの眺め再びタクシーに乗り込む。道は次第に緩やかに下っていく。ここから、また河内地区へ帰ってきたのだ。前方には標高665mの金峰山が見える。周りはやっぱりミカン、ミカン、ミカン。しかし、さっきまでの風景と少し違っている。白い石垣、緑のミカンの樹、黄色く色づいたミカン、それに加えて、地面にも白いシートが敷いてある。最近になって、有名なミカン産地はどこも、この白いシートを敷くようになった。秋の雨を遮断して糖度を上げ、ミカンを美味しくするためだ。このシートは、雨の水は通さないが、土壌中の水分は蒸発させるという性質を持っている。押入れの除湿用に使われている「水とりゾウさん」にも張ってあるので、ご存知の方も多いと思う。もう一つ、さっきとは違うものがある。どこを探しても廃園がないのだ。さすがは、ミカンの銘柄産地として全国に名を馳せる河内地区だと感心した。(つづく)
2001年11月01日
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