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私達の乗ったタクシーは海沿いの道を、熊本駅とは反対の方向にしばらく走る。「草枕温泉」という案内標識から右折して山道に入った。たちまち、右も左も前も、ミカン、ミカン、ミカン・・・・傾斜地に高い石垣を積み上げて、平らになった所にミカンが植わっている。その石垣が、山のずっと上の方まで連なっている。白い石垣、緑のミカンの樹、そして黄色く色づいたミカン。どこを旅行していても、この風景を見るとなぜかホッとする。毎日馴染んでいる風景に出会ったとき、それが実際は違った場所であっても、人間の緊張は緩むのだろう。「草枕」にもミカン畑は出てくるのだが、当時はこれほどたくさんのミカンは植わっていなかったと思う。ミカン栽培の歴史は、全国的にほぼ明治20年代に始まる。これは、日本で貨幣経済が普及するのと時を同じくしている。ちょうど日清戦争が終わり、日本国内の購買力が次第に大きくなってきた時期でもある。今まで、麦か芋くらいしか出来なかった海沿いの傾斜地の農村は、そこにミカンを植えることによってお金を稼げるようになったわけだ。当時、米一升(約1.5kg)とミカン一貫目(約3.75kg)が同じ値打ちだったというから、ミカン農家にしてみればものすごいビジネス・チャンスに恵まれたことになる。折りしも、明治政府は「富国強兵」政策を取り、国力増強に努めていた時代である。ミカン農家が、必死で山を開墾しミカン畑を増やす事は、自分のためだけではなく、国家のためにもなっていたのだ。高く積み上げられたミカン畑の石垣には、そんな歴史がある。両側にミカン畑を見ながら、九十九(つづら)折れの坂をタクシーは登って行く。運転手さんはもう20年以上この道を通ったことがないそうだ。「昔は全国からミカンの視察にやって来る人も多かったとばってん・・・」と、しみじみと話してくれる。やがてタクシーが大きくカーブを曲がり終えたとき、突然小高い丘の上に巨大な建物が現れた。波をイメージしたような曲線の屋根と茶色の高い塔が見える。「あれが、草枕温泉です。確か4年前に出来たとかなぁ・・・」運転手さんは今や観光ガイドに変身している。しかし、その建物はいかにも行政が考えそうなシロモノだった。私の「草枕」のイメージとは全くかけ離れている。もっと、こじんまりとした鄙びた雰囲気が欲しかったのに・・・・失望は大きかった。「維持費は結構かかるだろうなぁ」「採算はあうのだろうか?」私の頭にはそんな考えしか浮かばなかった。(つづく)
2001年10月31日
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「草枕」の道を往く熊本市河内地区での研修が終わったのは午後3時だった。選果場を出ると、もうタクシーが待っていた。これには少し説明が必要だろう。河内地区は10年程前に合併して、今は熊本市である。熊本駅から20kmほど離れており、金峰山の海側にある。我々は熊本駅に着いたとき、河内地区へ行くためにタクシーを拾った。その運転手さんは、我々の行き先を聞くと、すぐに帰りのタクシーの心配をしてくれたのだ。研修の終了時間がわかれば、車を回しておくという。だいたいの時間しかわからないと言うと、1時間くらいなら待つというのだ。タクシー業界も不景気らしい。選果場へ行く時は海岸沿いの道を通ったために、ほとんど河内地区のミカン園を見ていない。そこで、帰りは山道を走ってもらいミカン園を見ようということになった。「峠の茶屋」は、その山道に偶然あったのだ。私が初めて夏目漱石の文章に出会ったのは小学生の頃だ。児童文学シリーズか何かで「坊ちゃん」と「我輩は猫である」が一冊になっていた。そのときはただ面白かったというだけで特別な感激はなかったように思う。本当に夏目漱石の文章にのめり込んだのは25歳の時だった。1年間のアメリカ合衆国滞在から帰国した時、私が感じたのは、「日本は何と貧しい国だ」ということだった。当時は物質面の比較においては圧倒的に合衆国が日本に勝っていた。農業分野では広大な面積で合理的な経営をしている合衆国、自家用車が一家に2台ある合衆国、高速道路は全線無料のフリーウェイが網の目のように張り巡らされている合衆国、広い庭と空調施設の完備された家が安い値段で買える合衆国、ショッピングセンターの食料品は豊富で、しかも安い合衆国、・・・・ふり返って日本はといえば、小さな面積でこせこせとやる農業、高速道路は東京~大阪間だけ、公団アパートの狭い家、オイルショック後の安い賃金と毎年上がる物価・・・・という状況だった。これはちょうど、今の日本と中国の関係にあてはまる。自分は本当にこんな日本で一生を過ごしていくのだろうか?合衆国に対するコンプレックスを乗り越えられるのだろうか?・・・・将来への不安が心の中に渦巻いていた。そんな時ふとしたきっかけで読んだのが夏目漱石の「こころ」だった。そのときの感動は今も忘れることができない。自分の探していた答えが、それこそものの見事にその文章の中に詰まっていた。西洋文明に比べて決して劣ることにない、いやむしろ誇るべき日本のこまやかな心遣いの文化、東洋思想の深さ、謙譲や謙遜の美・・・・乾いた砂に水が染み込むとは、このような状況をいうのだろう。それから夏目漱石の本を全て読み尽くしたのはいうまでもない。そして読み終わったとき、自分の中に、それこそおぼろげではあったが、日本人である誇りと日本で生きる自信が生まれたのだった。(つづく)
2001年10月30日
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路面電車に乗るお城から1ブロック歩くと電車通りに着く。路面電車だ。最近は路面電車が走っている都市もめっきり少なくなった。今でもあるのは函館、富山、高岡、豊橋、高知、松山、広島、岡山、長崎、鹿児島くらいだろうか・・・昔、名古屋に住んでいた頃はよく路面電車に乗ったものだ。熊本市に来て路面電車が走っているのを見たときから、もう乗りたくてしかたがなかったのだ。他のメンバーはタクシーに乗ろうと考えていたようだが、私のかなり強引な主張を聞き入れてくれて、お城から熊本駅まで路面電車に乗ることになった。「熊本城前」という停留所へ行く。道路の真中の島に立って周囲を眺めるだけで、うきうきとした気分になる。路面電車の停留所でなければ、一番交通量の多いスポットにゆっくりと立ってはいられないだろう。端から見るよりも道路がずっと広く感じられる。熊本市はいろいろな型の電車が走っている。2両が繋がって真ん中が蛇腹になっているタイプ。エビ茶色、黄色、白、黄色と緑のツートン・・・通る電車、通る電車、色や形が違っていて飽きることがない。しばらくすると熊本駅方面行きの電車がやってきた。真ん中の入り口から乗車。 路面電車前と後ろに同じ運転席があり、窓に沿ったベンチシートになっている。昔のままの車内のレイアウトだ。乗客は30人くらいで、ちょうどみんな座れる。前の席では二組の赤ちゃん連れの若いお母さんが世間話をしている。隣にはおばあちゃん達がいる。斜め前には鞄を抱えたセールスマン風の若い男がいる。最近、旅行中に地元の人たちの普段の生活に触れる機会は少なくなったが、電車の中はまさに普段の生活が営まれている。そして、このゆっくりとした速度が、心地よいノスタルジアを増幅させてくれるようだ。老人は無料パスを持っている。熊本市のやさしい配慮を見つけた。それに、今週は「路面電車サミット」開催中とのことで、我々も市内料金一律100円。普段は150円なので、ちょっぴり得をした気分になる。15分ほど走って電車は熊本駅前に到着した。ありがとう熊本市の路面電車。人々の普段の生活を乗せていつまでも走り続けて欲しい。 路面電車(mmayunさんからBBSで長崎にもあると教えていただきましたので、本文を訂正しました。13時10分)(MADAMSさんから、BBSで、函館にもあるとの情報が・・・うん、嬉しいですね。本文をまたまた訂正しました。 16時35分)(エプロン2号さんから、豊橋の路面電車も確認とのBBSがあり、またまたまた本文を訂正します。みんなありがとうございます。路面電車最新情報のHPになりそうです♪30/17:20)(ayudesさんから富山、高岡にもあるよという書き込みをいただきました。来年4月から全国初3セクでの運行になるそうです。11/11)
2001年10月29日
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城の南側、長塀に囲まれた広場へ行く。テントがずらっと並んでいた。なるほど、これが「お城祭り」だったのか。地元の人たちの書画、手芸などの文化展。特設ステージの上ではおばちゃんたちが、集団ジャズダンスのリハーサルをしている。フリーマーケットもある。果物や野菜の産直市もやっていた。ミカンを売っていたので覗いてみると、黒点病のきたないミカンばかりをkg当たり200円で売っていた。無農薬栽培と謳っている。私はミカンの生産者だが、無農薬栽培については、かなり懐疑的である。実際に無農薬栽培を試みたこともある。しかし、きれいなミカンはできない。カリフォルニアやスペインに比べて湿気の多い日本では、雨の一番少ない瀬戸内海地域でも、無農薬で黒点病から果実を守るのは不可能である。また、ヤノネカイガラムシという害虫から、ミカンの木と果実を守るのも不可能なのだ。この害虫は一度ミカンの木に取り付くと、防除をしてもなかなか根絶は難しい。今の市場流通ではそのようなミカンは加工品になる。生産者側に立てば、同じように手間をかけ、味も同じなのに、外観だけで加工品に回る今の流通システムに問題があるとは思う。しかし、もっと問題なのは、無農薬栽培のミカンと、手抜き栽培のミカンが外観上は区別できないことである。したがって、もし無農薬栽培をやりたいのなら、まず自分でしっかりとした販売ルートを開拓しなければならず、なおかつ消費者に信頼されなければ成り立たないと思っている。そうすると、「お城祭り」で不特定多数の消費者に無農薬栽培のミカンを売ったりはしないだろうという結論になる。まあ、どちらにせよ私は買わないのだが・・・ここからは、特設ステージの向こうに天守閣が見えた。わざと真中だけ石垣を低くしてあるのだ。見えるのは「一の天守」の南面だ。したがってその奥にある「二の天守」は見えない。この視覚効果はとてもおしゃれだ。などと感じたのは、私が平和ボケしている証拠だろう。攻める側にとってみれば、天守閣が遥かかなたにあるような錯覚にとらわれる。「ここまで来れるものなら来てご覧。その代わり、相当の犠牲を覚悟しな」と言われているような恐さをも覚える。守る側にしてみれば、天守閣が見守ってくれているという安心感を与える。 「お城祭り」会場からの天守閣加藤清正は、篭城の食料にする目的でわざわざイチョウの木を植えたそうだ。また、城内の畳は全て食料になる肥後芋茎(ずいき)製だった。しかし、この城が実戦を経験するのは築城から270年以上後の西南の役である。そのとき清正の思想は見事に生かされ、薩摩軍の包囲を40日以上持ちこたえている。そのへんの経緯は司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」に詳しい。熊本城のキーワードは「天守閣」と「3回」というところだろうか?そう思いながら広場を横切って、また鉤型に曲がり、私達は城の外へ出た。
2001年10月28日
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城の中に入る。驚いたことに内部は鉄筋コンクリートだった。これでは大工の技が見えないではないか!私の膨らんだ期待は、あえなくここでしぼんでしまった。後で入場券の裏を見ると、西南の役で焼けたとちゃんと書いてあった。読んでいない私が悪い。しかし、鉄筋コンクリートとはどこにも書いてなかった。もっと後でわかったことなのだが、焼失を免れ、築城当時の建築様式を残している宇土櫓にも入場可能だったのだ。団体行動の辛さ、ここで引き返すわけにはいけない。これを読んでいる皆さんはぜひ知っておいて欲しい。熊本城では天守閣の大きさと美しさに惑わされてはいけない。絶対に宇土櫓をお見逃しなく!そういえば壁の色に白と黒の違いはあるが、熊本城と高知城とは様式がよく似ている。むしょうに高知城が見たくなっている私である。話を戻そう。案内板を見ると、3層に見える天守閣の内部は7階建てになっている。1階は、入り口と上に登る階段があるだけ。2階からは熊本城に関する資料を展示してある。2階には築城の歴史、焼失前の天守閣の写真などがあった。3階には城の構造の模型。殿様が使った、参勤交代の船に乗せる豪華な部屋。篭、鎧などが展示してある。4階は西南戦争のときの資料。5階と6階は各地の城のパネルが飾ってあったが、かなり色があせている。いよいよ階段を登って天守閣最上階に行く。 天守閣から北西を見る(手前が宇土櫓)ここからの眺めは、本当に素晴らしい。熊本市内を文字通り360度見渡せる。城は小高い山の上に建っているのに、それよりまだ40メートルくらい高いのだから、市内で一番高い場所なのだ。高い所へ登るとなぜか嬉しい私である。北西に山。麓に加藤清正の菩提寺である本妙寺が見える。風水ではベスト・ポジション。時計回りとは逆に南へ移動すると、山の頂上に仏舎利塔が見える。各地で仏舎利塔を見るたびに、「お釈迦さんは全身が骨でできていたのか?」と突っ込みたくなる。その麓に熊本駅があるはず。東へ移動。天守閣の正面からは市役所、城内に植わっている楠や銀杏が見える。最後は北を見るわけだが、「二の天守」の屋根ごしに市街地が広がっている。「熊本市は広い。そして平らだ~」と思いながら方向を確かめるために3周も回ってしまった。 天守閣頂上からの眺め(発掘調査とその手前の最後の難関の通路)天守閣を降りて、来た方向とは反対の通路を鉤型に3回曲がって階段を下り、国宝展示櫓へ行く。ちょうど各地の城の鬼瓦展が開催されていた。城の前面には家紋をあしらった鬼瓦を置くのが慣例のようだ。丸亀城も高松城もあった。江戸城は菊の御紋だった。「え?オリジナルは三つ葉葵では?」主が替われば鬼瓦も替わる世の習いというわけだ。これは日中共通らしい。しかし天守閣のてっぺんの鬼瓦は、中国の故宮では竜だったのに、日本の戦国時代にはシャチに変身している。どうしてそうなったのか、そのうち暇になったら調べてみるのも面白いだろう。各地の城の鬼瓦とともに、塀の端に飾る瓦も展示してあった。これは竜や鳳凰や河童や亀など具体的な形をしているのでわかりやすい。どれも愛嬌がある。写真だけ撮って、後でゆっくり楽しむことにする。 国宝展示櫓から西を見る国宝展示櫓から3回曲がってもう一段下ると、天守閣の正面の一番低いところにある広場に出る。天守閣は3層になった山の頂上にあるわけだ。15m以上の高い石垣が続いている。その上に塀があるので、天守閣は全然見えない。石垣は一直線ではなく、時々折れ曲がっている。その角には櫓がある。攻める側にとっては身を隠す死角が少ないうえに、挟み討ちで上から攻撃されるわけだ。その広場に入ってくるにも、3回曲がった狭い通路を通らなければならない。こんな所を攻撃する役にだけはなりたくないと思った。(つづく) 一番下の広場
2001年10月27日
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熊本城を造った大工さんの後裔はH氏と言う。本名は避けるが、みかんを作っている人なら多分みんな知っているだろう。最近、みかんの品質向上のための栽培技術を2つも全国に普及させた人である。現在は退職されて、母校である千葉大学の講師として後輩の指導にあたられている。我が町でも「何とか、みかん栽培技術の向上を」と、H氏に4回ほど講演をお願いした事がある。何度目だったかは忘れたが、講演の後お酒を飲みながらの懇談会で、会話の弾みで偶然に、本人からこの事実をお聞きした。H氏の家系は江戸時代、土佐藩の江戸詰家老だった。なぜ、江戸詰になったかというと、山ノ内一豊の依頼によって、H氏の先祖が高知城を築城したのだ。当然、長曽我部の家来だった郷士達にしてみれば面白くない。「あいつを殺せ」と、命を狙われる。そこで、「おまえは江戸へ避難しておれ」ということになったそうだ。高知城築城の前に造った城が熊本城である。その実績を買われ、ヘッドハンティングされたのだそうだ。H氏が子供時代、家には3巻の巻物があって、「免許皆伝の書」「奥義の書」「秘伝の書」と記されていたそうな。内容は、ほとんど数学の公式集みたいなものだったらしい。そういえば日本には三平方の定理や微分積分を使わずに、棟の高さと柱の間隔から垂木の長さを割り出したり、屋根のそりを計算するというような和算学があったと聞いたことがある。おまけに「秘伝の書」は暗号で書かれてあり、その暗号を解く方法は、代々後継者だけに口伝で教えられたという。ただしH氏が子供時代には、もはや口伝の方が伝えられていなくて、何を書いてあるのか誰も知らなかったそうだが・・・・H氏はその巻物を咥えて忍術ごっこをして遊んでいたので、今のようにバカになったと謙遜しておられた。H氏の家にはもう一つ家宝があって、それには代々の弟子の名前が記されている。その中に、宮本武蔵、伊能忠敬の名前もあったそうだ。歴史の年代からも、その人たちの業績からも信憑性は高い。私は、その話を聞いたとき「世の中にはサラブレッドみたいな人もいるのだ」と感動したのを覚えている。余談ではあるが、H氏の奥さんは伊藤博文のお孫さんである。(つづく)
2001年10月26日
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「中国」から「熊本」!!??あまりの落差に驚かれた方もあると思うので、少し前置きを・・・「熊本城は誰が作った?」と聞かれて、誰でも「加藤清正」と答える。「残念でした。作ったのは大工さんだよ」・・・これでは、小学生のトンチなぞなぞになってしまうのだが、私は偶然にも熊本城を作った大工さん(設計者)の子孫を知っている。それまで忘れていたのだが、熊本城に入った瞬間に思い出したのだ。それともう一つ、プロフィールにも書いてあるように、私は夏目漱石が大好きな人間である。熊本は夏目漱石の「草枕」の舞台でもある。今回の旅行で、それも偶然に「峠の茶屋」を見たのだ。その感動で、何の構想もなく突如として書き始めてしまった「熊本への旅」いったいどういう展開になるのか私もわからない。私は、城の設計者には遥かに及ばないが、城の攻防という視点で熊本城を見ている。単純に大きさで圧倒する中国の城と違って、熊本城は芸が細かいというか、いかにも日本的なのだ。そのあたりを書き表せたらいいのだが・・・・入場券売り場から鉤型に曲がること8回、ようやく天守閣前の広場に到達する。曲がり角が多ければ、守る側とすれば待ち伏せの回数が多くなる。それに一度にたくさんの敵を相手にしなくてもいい。それも石垣の上から。圧倒的に守るほうが有利なのだ。広場の正面から見ると、黒い壁の3層の「一の天守」がそびえている。右に少し低い「二の天守」。空にそびえる城は美しいが、この天守閣は何故かやさしさを感じる。二つの天守が夫婦を連想させるからだろうか。今は広場からまっすぐ天守閣の入り口まで行けるのだが、昔は木の橋が懸っていたと思われる。敵に攻められた場合、その橋を落とせば、敵は目前に見える天守閣へは行けない。また逆戻りをして、迷路のような石垣の壁に囲まれた通路を通り、天守閣の入り口の下まで行かなければならない。頑丈な天守閣の門までの高さは10メートルはあり、石段は45度はある。とても急傾斜なのだ。ここで、城の中から狙いうちされれば、かなりの犠牲者が出ることだろう。天守閣が載っている土台の石垣には鉄の針が下向きにずらっと並べられている。石垣を登って侵入するのは不可能だろう。(つづく) 熊本城天守閣(正面広場から)
2001年10月25日
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熊本城へ行く8時45分にホテルのロビーへ集合。ぐっすり寝たので気分は爽快。ホテルにあった観光パンフレットで「お城祭り」をやっているそうなので、熊本城を見に行こうということになった。ホテルを出て西へ1ブロック歩くと、右手にお城が見えた。城の入り口まで300メートルくらいなので、歩いていく。堀の手前に加藤清正の鎧姿のブロンズ像がある。顔もリアルだ。頑固じじいというイメージ。この前で記念撮影。堀をわたって、城内に入る。お城祭りののぼりがいっぱい立ってにぎやかそうだ。地図によると車が走れる幅の広い道路は、天守閣の方へ伸びている。しかし、実際には道路はそこから登りになっていて、天守閣は見えない。どこから入ったらいいのかわからないので、ガードマンの人にに聞いたところ、その道路を登っていけと教えてくれた。城内には楠、イチョウの大木がたくさんある。楠の樹齢ははっきりとはわからないが相当古い。築城以来の木もありそうだ。坂を登りきった所に入場券発売所があった。反対側は大手門を新しく作っていた。現在、熊本城は昔のように復元しようと、寄付を集めているそうだ。ここから見る天守閣は2つの櫓の向こうにそびえていて、威風堂々としている。入場料は500円。本丸に入ると、鉤型に曲がった石垣の間を通りぬけて、天守閣下の裏の広場に出る。ここには、深い井戸があって、その深さは36メートル。城の外への抜け道になっていると案内板に書いてあった。石垣の上に載っている天守閣は石垣より張り出しているために、雨のかかる部分の石垣は黒色に変色しているが、半分より上の石は白い。その白と黒との境目から急に石垣の傾斜がきつくなっている。学生と思しき7~8人のグループが先行していて、男の子2人が石垣登りに挑戦していたが、そのボーダーラインまでしか登れないようだった。そこまで登って我々にピースサインを送るので、こちらも手を振って答えてやった。後でそこへ行くと、立て札には「石垣に登ってはいけません」と書いてあった。もう少し歩いて石垣で囲まれた鉤型の通路を通って行くと、通路が急に狭くなっている。石垣には大砲の弾の跡が、そこかしこにある。ここは、天守閣への最後の難関と案内板には書いてある。通路の上に櫓があり、城攻めをする側は真っ暗の通路を進ん行かなければいけないという防御のかなめだそうだが、今は上には空以外何もない。その石垣の向こうの櫓のあった敷地では、土を掘って発掘調査をしていた。この辺は今後復元工事が行われるそうだ。そうなれば、真っ暗な通路も再現されて、今よりもっとリアルに城の防御構造を実感できると思う。(つづく) 熊本城天守閣(裏から)入場券裏の解説熊本城は名将加藤清正が幾多実践の経験に基づき慶長6年(1601年)から7年の年月を費やして築いた天下の名城であります。その構造は、かつては周囲5.3kmに及ぶ広大な城域内に、一の天守、二の天守を中心に櫓49、櫓門18、城門29を数える実に雄大豪壮なお城でした。一の天守、二の天守は明治10年(1877年)の西南の役で焼失したものを昭和35年に再建したものでありますが、幸い焼失を免れた宇土櫓他12の建造物はなお昔のままで、国の重要文化財に指定され今日までその貴重な姿を残しています。
2001年10月24日
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今から出かけます。5時45分。熊本です光センサー選果機の使い方の研修です。行ってきます。
2001年10月23日
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昨日に続いて、6人が再び集まった時の話である。M君は京劇を観た湖広会館の土産物店で、囲碁に使う碁笥(碁石を入れる容器)を買った。木製で周りには龍の彫刻が施されている。M君によれば「碁石を含めて1000元の言い値だったのだが、碁石は要らないからと交渉して200元にさせた」のだそうだ。「日本より少し安いくらいにしか値切れなかったが、今回の旅行の記念になるのならまあいいか」と思ったのだそうだ。さて、帰国後荷物を開けてみると、何とその碁笥の片方が割れているではないか!「しまった。どうにかしてくっつけられないだろうか」と手にとって割れた個所をよく見てみると、それはプラスチック製だった。Tさんは北京ダックを食べた店でもトイレに行ったそうだ。ここは洋式の水洗トイレだった。入って左の壁に男性用、右側に女性用個室、突き当たりの壁が手洗いという構造だった。除菌ティッシュで便座をきれいにして(このあたり用意周到!さすが女性である)用を済ませると、水が流れない。おかしいと思いトイレタンクの蓋を開けてみると水道管が繋がっていない。仕方がないので手洗いの水を手ですくってトイレに運ぶこと2度、3度。その時、男の人2人が入って来たので急いで出てきたそうだ。橋本総理やいろいろの有名人が訪れている店なのに、そういう時だけ水道管を繋ぐのだろうか?ということだった。今回の北京旅行のキーワードは、最後まで「ニセモノ」と「トイレ」だったようだ。皆さんも中国旅行にはくれぐれもご用心を。(これで 北京旅行記は全部おわりです。)
2001年10月22日
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北京から帰って6人が再び集まった時、紅一点で参加したTさんがチャイナドレスを着て来た。この年齢になって体型にぴったりフィットするチャイナドレスを着るのはかなりの勇気が必要だと思うのだが、社交ダンスで日々鍛えているだけあってそのスタイルは未だ衰えず、結構サマになっている。いや、なにやら妖しい色気を発しているようにも感じられる。どうも、その原因はチャイナドレスのスリットにあるのだろうというのが、男性諸君の結論になった。そこで、話題は北京で見たチャイナドレスへと発展する。中国では、看板娘という職業が未だに残っているらしい。チャイナドレスを着たドアガールをいろいろな場所で見かけた。特にホテルの隣にある某飯店のチャイナドレスのドアガールは男性全員が覚えていた。その女性は背がすらりと高く、モデルにしたいような美形で、真っ赤なチャイナドレスを着ていた。特に目に焼き付いて忘れられないのが、そのスリットの長さである。パンストを穿いていたのだが、ヒップをサポートするために色が少し濃くなっている部分まで切れ込んでいた。そのスリットの長さもまた全員が覚えていたのだ。男性の視線はみな同じだったことをお互いに再確認して大爆笑となった。それに比べればTさんのスリットはあと30cmは短かったことも併せてお知らせしておこう。もう一つ、中国国際航空のスチュワーデスさんたちのスカートにも、ほんの10cmほどではあるがスリットがあった。さすがに中国国際航空、伝統を見事に継承していると鼻の下を伸ばしながら喜ぶ我々であった。女性諸君、女性の色気はチラリズムにあることをくれぐれもお忘れなく!
2001年10月21日
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終わりに、感謝を込めて・・・「記憶は次第に薄れるものだが、記録は残る」北京旅行記を書き始めた動機はそんな気持ちだった。私くらいの年になると、本当に感動できる事は人生の中でそれほど多くないということがわかってくる。生活とは単調な毎日の連続である。旅行が趣味になったのも、その単調さを突き破って感動できる何かを経験したかったからだ。また、旅行先の国と比較することによって日本の外から日本を眺め、日本と日本人である自分の長所・短所を確認し、これからの生き方の判断基準にしたいという願望もあった。今回の北京旅行は、一緒に旅をした6人も、北京で案内してくれたH君も同じ高校出身という「同窓会旅行」である。期間は8月25日~28日と短い旅行だったにもかかわらず、私にとってこの旅行はとても感動的なものになった。旅行後に集まる機会があったとき、他の5人も私と同じような感動を味わったのを知り、H君の好意に報いるためにも、その感動を残しておかなくてはと思うようになった。しかし、実際に作業にかかると、それは相当難しいことだとわかるようになる。少し筆をすすめては、しばらく放置するという状態が続いた。そんな時、楽天のHPが開設できることを知り、やってみると本当に簡単に出来てしまったのだ。「ここに毎日書くことを自分の義務にすれば、もしかしたらできるかも知れない」そう思いながら、記憶をたどりつつ書き始めたのが北京旅行記である。それぞれの旅に、それぞれの感動はあった。しかし、今回の北京旅行は今までとは異質の感動をあたえてくれた。その一番の要因は一緒に旅行したメンバーだと思う。青春時代の同じ時間・同じ場所を共有した仲間とは、他の何ものにも変え難い財産である。我々の年代になると同窓会が盛んに行われるようになるのも、みんながそれを大切なものと思える年代に入ったということなのだ。世の中の人間関係が次第に希薄になり、本音で話せる機会が少なくなった今でも、同級生には曝け出した自分を受け入れてくれる安心感・暖かさがある。さらに、海外旅行となればある程度気持ちの緊張が必要なのだが、今回は現地に精通した同級生までいたのだから、ただ手放しで感動していればよかったのだ。旅行記でも長々と食べ物のことを書いたが、その値段に一切触れていない。いくらだったか知らないのだ。我々はそんなことは全く気にしなくてよかったのだから・・・北京旅行記を続けている間、日記は前日の夜に書く事にしたのだが、仕事の疲れ、会議のための深夜の帰宅など、くじけそうになる時はあった。それを今日まで続けさせてくれたのは、私のHPに来てくれた人たちのおかげである。増えるカウンターの数字や、掲示板に書き込まれたメッセージにどれだけ勇気づけられたことだろう。本当に、心からありがとうございました。これで、私がどうしてもやらなくてはいけない事は終わった。しかし、北京旅行記を書いている間にわかったことなのだが、私は他の人の旅行記を読むことが楽しみの一つになってしまった。これも、ある意味で同じ時間・楽天広場という場所・旅行という趣味を通じての連帯感を求めているのかもしれない。そして、私が読むことを楽しんでいるからには、私も書かなくてはならないという新たな義務が生じてしまった。しかし、一年で一番忙しい収穫期を迎えた今、これまでのように毎日更新は絶対に無理である。これからは自分のペースでゆっくりと義務を果たして行きたいと思う。そして、しっかりと楽しませてもらおう。
2001年10月20日
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北京ダックを食べる北京旅行の最終日の夕食はいよいよお待ちかね、北京ダックだった。この料理、あまりにも有名なので名前は誰でも知っている。前回中国から帰ったときも、「北京へ行った」と言うと、何人もの友人に「北京ダックを食ったか?」と聞かれたものだ。しかし悲しいことに、ある事情でその時は北京ダックを食べ損ねていた。あれから2年半、いよいよ北京ダックが食べれるのだ。期待に胸は膨らむ。H君の家族と一緒に「鴨王」という専門店に行く。廊下には、この店で北京ダックを食べた人の名前と写真がずらっと飾られている。マイケル・ジョーダンという名前が目に留まった。日本人はいないかな?と探してみると「橋本龍太郎」があった。注文は飲み物、前菜、そして北京ダック!!ビールを飲み、前菜をつつきながら、今回の北京旅行の思い出話や失敗談に花が咲く。やがて部屋の扉が開き、北京ダックが登場した。白い布巾で覆われたキャスターの上に首だけない北京ダックの丸焼きが載っている。その肌は小麦色に焼け、油で艶々と輝いている。見ているだけで食欲をそそる北京ダックはまさに中国料理の真髄か。とそのとき、料理を運んできた若いコックさんが、包丁を使って皮を削ぎはじめた。見事な手さばきだ。みるみるうちに北京ダックは丸裸にされていく。と書くのは正確ではない。なぜなら、登場した時すでに北京ダックは丸裸なのだから。それでも、白い肉の部分が増えていくのを見ていると、私の感覚ではやはり北京ダックが丸裸にされていると感じる。コックさんがキャスターと共に去った時、我々のテーブルには2皿の北京ダックの皮が残った。「えっ?これがうわさの北京ダックなの?」目の前にある皮よりも、コックさんが持っていってしまった、あのおいしそうな肉のほうが気にかかる。H君から肉はあとで細かく切って持ってきてくれると聞かされてホッとする私であった。今回はH君の奥さんに食べ方を教わる。大型の餃子の皮(直径15cm位)に北京ダックを乗せ、キュウリ、ネギ、カイワレ大根などを好みに合わせて乗せ、タレをつける。そして、餃子の皮をくるりと巻いて包み込み、口に入れるのだ。早速やってみる。あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁこの美味さは言葉では表現不可能。どうしても知りたい人は実際に食べるしかないだろう。しかし、そうあっさり放棄してしまったのではあまりにも皆さんの期待を裏切るようで申し訳ない。どこまで北京ダックの美味さを表現できるか、やれるだけやってみよう。美味さの要素は、見た目、食感、味覚、香り、喉ごし、位だろう。北京ダックの場合、丸焼きのところでは視覚に訴える要素が大きいのだが、実際に食べた時は食感と味覚が特に優れている。食感では、独特の歯ざわりがある。餃子の皮は柔らかい。北京ダックの皮はパリッというくらい乾いている。その裏に潜む脂肪はジュワ~ッとジューシー。このコンビネーションが何とも言えない食感を醸し出しているのだ。味覚の方は、餃子の皮のデンプン質、北京ダックの皮のタンパク質、野菜の水分、タレのコクのある甘さのミックスで、これも絶妙の味覚を作り出している。そして、口に入れ食べた後の「たったこれだけ?」という量的なもの足りなさも、おいしさを増幅させる効果を大いに発揮しているだろう。私の文章能力ではこれ以上は表現出来ないのだが、わかってもらえただろうか?北京ダックの皮が食べ尽くされたころ、いったん持ち去られた北京ダックの肉が返ってきた。饅頭の中に詰め込んで食べる。これはわかりやすい。いわゆる、中国版チキンバーガーである。北京ダックの骨を使ったスープも登場する。いわゆる、鶏がらスープである。どちらも美味しかったのだが、やはり北京ダックの皮には及ばない気がした。2年半越しの私の念願はこうして叶えられたのであった。
2001年10月19日
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飲茶バイキングを食べる国際貿易中心(センター)は北京の外国である。このブロックにあるビルは外資系の会社のオフィスで占められている。当然、行き交う人も白人が多い。真夏でもスケートリンクがある。「国貿」という地下鉄の駅もある。国貿大厦(たーしゃぁ)というデパートがある。地下街にはブランド・ブティックが並んでいる。ホテルも「シャングリラ・チャイナ・ワールド」と超一流。当然この区画での物価は日本並とはいかないまでも、中国の物価に比べればとてつもなく高い。(と、ここまで読まれた人にはだいたい次に私の書くことの予想がついているにちがいない。)その国際貿易中心にある「国貿飯店」でH君の家族と一緒に飲茶バイキングを食べた。バイキングになるのは日曜のランチタイムだけだそうで、我々は大変運が良かったことになる。お客さんの半分は白人だった。飲茶とは茶を飲み点心を食べて楽しむ中国の習慣で、点心とは禅の世界では簡単な料理のこと。しかし、一般に中国料理では、麺・粥・餅・饅頭・杏仁豆腐・月餅などのことを言う。料理の注文は、一人前何皿かの点心+取り放題のバイキング料理というシステムのようで、H君の奥さんがやってくれた。飲み物はビール、ワイン、ソフトドリンクなど何でも飲み放題。グラスが空になるとウェイトレスさんが新しいのと取り替えてくれる。早速バイキング料理を取りに行く。これも品数が多く目移りして困ったのだが、私は杏仁豆腐、豚の煮込み、野菜サラダ、カニ玉スープ、フルーツ盛り合わせを取ってきた。それらを平らげているうちに、点心がやってくる。次々にやってくる。竹の蒸篭に入ったもの。皿に盛られたもの。いくらでも出てくる。全部はとても思い出せないくらい出てくる。八宝菜春巻 、ユバ春巻 、エビ餃子、焼き餃子、エビ焼売、カニ焼売、牛肉焼売、あん饅頭、肉饅頭、海鮮チマキ、ごま団子、芋団子、焼きそば・・・最後のとどめはマンゴー・プリン。いくら食欲旺盛な我々でも全部食べるのはとても不可能だった。残った料理を横目でにらみ、もったいないなあと思いつつ、しかし胃袋はもうこれ以上ダメという限界にまで膨らんでいた。嗚呼、偉大なるかな中国料理!!!こんな贅沢、絶対に日本ではできない。結局、この昼食の所要時間は2時間。しかし、M君はその間にビールのお代わりをすること7回だった。食事の最後にウェイトレスさんが一人に一枚ずつ優待カードを配ってくれた。見ると、次回のご来店には10%引きと書いてあり、有効期限は2002年8月末。私はどう考えても使いそうもない。誰か必要な方、ご一報ください。差し上げます。
2001年10月18日
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しゃぶしゃぶを食べる兜状をした鉄板の上に羊の肉を乗せて焼くのはジンギスカン料理という。昔、蒙古の軍隊が遠征中に考案した野戦料理だと、ものの本には書いてある。ところが!!!中国にもジンギスカン料理があったのだ!と興奮する事はない。むこうが本家なのだからあって当然である。私が興奮するのは、中国のジンギスカン料理は「しゃぶしゃぶ」だという事実である。日本へ伝わる間に兜の向きが反対になっているのだ。このことについて究明した学者は未だ・・・おらへんやろねアホラシ。中国でも「しゃぶしゃぶ」は人気があるようだ。H君の案内してくれた店は「しゃぶしゃぶ」の専門店である。専門店だから、当然その店の「売り」があるわけで、ここの「売り」は「二種類のお好みタレ」と、「衛生的な個人鍋」だった。H君の説明では、大きな鍋を二つに仕切って、甘いタレと辛いタレを入れた湯の中に羊の肉を入れて、みんなでつついて食べるのが一般的らしい。この店の「衛生的な個人鍋」の場合は、鍋の中に入れてあるのは熱湯だけである。ステンレス製のアルコールランプで温める。鍋も「衛生的なステンレス製」。せっかく中国へ来たのだから、せめて「蒙古軍の使った兜型の鍋」みたいなウンチクが欲しかったのだが、それは仕方がない。注文はH君に任せて、ウエイトレスさんが注いでくれたお茶を飲む。茶碗に蓋がついているのでもしやと思っていたら、予想通り八宝茶だった。このお茶が出るレストランは、かなり高級である。一番高級な店では給仕もウエイトレスさんがやってくれる。お客はただ食べるだけでいいのだ。まさに皇帝の気分になれる。お茶を飲んで話をしているうちに、やがて料理が運ばれてくる。直径50cmはあろうかという大皿にびっしり薄く切った肉が並べられている。牛肉4皿と羊肉3皿。レタスの盛り合わせ2皿、豆苗2皿、ジャガイモ2皿、おまけに透明な干瓢のようなもの2皿。これは麺の一種で、最後に食べるのだそうだ。しかし、どう考えても量が多すぎる。これなら、H君に食べ方を聞かなくても食べれる。タレは胡麻ダレと、レモンハーブ入り醤油ダレ(日本の醤油に間違いない)。牛肉を食べる。美味しい。羊肉を食べる。美味しい。レタスも湯を通しただけで体積が半分になる。生よりずっと柔らかい。豆苗はモヤシをもう少し成長させてカイワレ大根のように緑色にした野菜で、日本ではあまり見かけない。これもいける。ジャガイモもシンプルな味で、肉のくどさを消し去る。それぞれに単品ではそれほど特徴のない野菜が、牛肉、羊肉と一緒に出てくるとひときわ精彩を放ちはじめるのだ。透明な干瓢は、日本で鍋料理の最後にうどんを入れて食べるようなものだ。中国料理の秘伝は、この食材の取り合わせなのかもしれない。タレの味は日本人好みのアッサリ系で、中国独特の香辛料が入っていない。それぞれにおいしいのだが、私は醤油ダレのほうが好みだった。この店は看板に「杭州料理」と銘打っている。杭州は浙江省の省都で、上海から汽車で2時間ほど南にある。日本に近いので日本人が受け入れやすい味なのだろうか?それとも、もともと日本の味付けをしておいて、それを杭州料理という看板で売っているのだろうか。北京はさすがに中国の首都だけあって、広州の海鮮料理、四川省のゲキ辛料理、陜西省の酸っぱい料理と何でも揃っている。本来の北京料理はそれほど辛くもなく、上品な味だそうだ。そうこうするうち、いつの間にか肉がなくなってしまった。牛肉2皿と羊肉1皿を追加する。皿に飾り付けられて出てくる肉を見ると絶対食べれないと思うのだが、追加の肉も最後にはなくなってしまった。私には中国料理のもう一つの秘伝がわかった。少ない材料をいかに多くあるように見せるかという盛り付けの技なのだ。しかし、それは単に肉を10皿も食べてしまった言い訳にすぎないのかも知れない。
2001年10月17日
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炸醤麺(じゃぁじゃぁめん)を食べる中国料理は基本的に火を通して料理する。だから北京に来て冷たいラーメンを食べるとは夢にも思っていなかった。その日の夜はお待ちかねの「北京ダック」なので、昼食は軽く済まそうということになり、H君行きつけの店へ案内された。この食堂も、最初の夜肉ラーメンを食べた食堂のように一般の食堂だった。注文は飲み物、前菜、そしてメイン・ディッシュ。さすがにもう覚えた。前菜の中でビールに非常によく合うと人気メニューだったのは、「ナスのから揚げ」に、ニンニクとトウガラシを大量にトッピングしたもの。これなら日本でもすぐに出来そうだ。メイン・ディッシュ(?)の炸醤麺がやってきた。麺の色は白。うどんより若干細い程度に、ちゃんと手で延ばしてある。スープは無い。トッピングはインゲン豆、モヤシ、ネギ。見たところ讃岐の「醤油うどん」そっくりだ。中国料理というと油ギトギト、五目色というイメージなのだが、これは緑と白との配色がいかにも涼しそうだ。炸醤(炒めたお味噌)は別の容器に入っている。H君に食べ方を教わる。「味噌を全部入れて、箸でかき回して、麺と味噌をよくからめた後に食べる」やっぱり醤油うどんではないか。H君がこの店を常連にする気持ちがわかるような気がする。北京の空の下、炸醤麺を食べながら遠き故郷を想うの図。早速食べてみる。麺の食感はコシがあって、美味しい。ただ、カツオとイリコの絶妙のバランスの上に成り立つ讃岐うどんのダシに馴染んだ我々にとって、この甘い味噌はどうももの足りない。ここは中国の首都北京である。そこで香川県人が「うどん」を食べている。それも7人も揃って・・・当然話題は讃岐うどんへと向かう。やれ、小懸屋のうどんが美味い、金泉のうどんは有名なだけでまずい、どこそこの味が落ちた、ついには超ローカルなうどん屋の名前まで出てくる。H君は、もしこの味が日本人に合うのならば、退職後に香川県で炸醤麺の店を開業する計画を密かに立てているのだと打ち明けたが、他のみんなの意見は全員一致で否定的だった。こうなると、もうどうにも止まらない♪状態である。ただH君の娘さんたちだけは、話についていけずぽかんとしていた。中国北京と香川県の共通点を、意外なところに見出した昼食であった。ところで、この話を読んだ人の中にはとても記憶力のいい方がいて、この話は「ニイハオ」の前だろうか後だろうかと気をもまれるかもしれない。もちろん後である。(書かないほうが良かっただろうか・・・)
2001年10月16日
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肉ラーメンを食べる今回の旅行では2種類のラーメンを食べた。ラーメンと餃子は中国を代表する食べ物で、日本でも中華料理の代名詞のようなものだが、本場のそれは日本のとは少し違う。ラーメンの場合、私の知っている範囲では揚子江より南の地方の麺は黄色く、北の地方の麺は白い。餃子は、基本的に水餃子で食べる。蒸したり、炒めたりする料理方法もあるが、一般的ではない。餃子の中に入れるものも、それこそ何でもいい。エビやカニのような魚介類から、豚肉、牛肉、鶏肉、羊肉。野菜もニラ、キャベツ、ハクサイ、タマネギ、ニンニク・・・中国人の主食は米だと思われておられる方も多いだろう。しかし、それも揚子江の南のこと。北は小麦粉の文化圏なのである。だから、毎日ラーメンや餃子、饅頭を食べている。中国は広いので、もちろん例外もあるのだが、揚子江を境に南と北を分けて考えると理解するのに便利がいい。ともあれ、我々が北京で最初に食べた食事は「肉ラーメン」だった。屋台村でサソリ以外に食べ物には手を出さなかったのを見て、H君がレストランへ案内してくれた。店に入ると、従業員が5~6人かたまって食事中だった。11時を過ぎていたので、そろそろ閉店しようとしていたのだろう。他にお客はいなかったが、注文を受けてくれた。H君に「何がいい?」と聞かれて、みんなどう答えようかと迷っているようだったが、夜も遅いことだし本格的な中国料理ではなく、ラーメンなら無難だろうということになった。しかし、ラーメンといっても種類が多い。日本でも、醤油ラーメン、味噌ラーメン、とんこつラーメン、五目ラーメン、etc。まして本場中国のことだ、100種類くらいはありそうに思える。「肉ラーメンでいい?」の問いに、一も二もなくうなずく我々であった。飲み物はビールを注文し、まずは再会を祝して乾杯をする。タイミングよくピータン豆腐が登場する。冷たい豆腐にごま油をかけて、トッピングにピータンを使ってある「中国風冷奴」で、かなり美味い。ナスの唐辛子炒めが出てくる。ピリリとした辛さとナスの甘さがほどよく調和して・・・鶏肉とピーナツ炒めがやってくる。この取り合わせは日本ではちょっと思いつかない。・・・・チンゲンサイとソーセージ炒めが・・・・「おいおい、ビールの当てにしては多すぎないか?」どうも中国での食事の注文方法は、飲み物、前菜、メイン・ディッシュ(この場合ラーメンがメイン・ディッシュ?)がセットになっているようだ。ふとガラスのついたての向こうを見ると、白衣のコックさんがラーメンを延ばしている。オッ!これは、本格手打ちラーメンなのだ。どんな味だろうとワクワクしながら待っていると、やがて大きな中華ドンブリに入った肉ラーメンが運ばれてきた。H君はラーメンを3人前しか注文しなかったが、じゅうぶん多い。麺の上にはネギと牛肉が載っている。スープの中に唐辛子が見える。辛そうだ。早速食べてみる。「辛いことは辛いのだが、思ったほど辛くない(どっちやねん!)」「美味しい」「牛肉の味がスープに溶け込んで、なかなかイケル」「見た目はコッテリそうなのに、アッサリしている」概ねみんなの評判は良かった。ただ、このラーメンは包丁で切ってある。白色の麺なので、まるで名古屋のキシメンなのだ。それも、太いのは幅3センチはある(最後の客だから手抜きしたのかあのコック)。箸ですくい上げると、立ち上がらなくては端まで持ち上がらない。中国は広い、そして日本とは違うと実感した最初の食事であった。
2001年10月15日
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サソリを食べる私の中国の友人の説によると、「日本料理は、材料が新鮮で味付けが薄いので『料』。西洋料理は、材料が悪いので工夫して食べれるようにするために『理』。どちらも『料理』ではない。本当に『料理』といえるのは中国料理だけ」なのだそうだ。ともあれ中国旅行の楽しみから「中国料理」を外すわけにはいかない。そもそも今回の旅行のきっかけは、北京にいるH君からの「北京ダックを食わせてあげるから来ないか」というメールだったのだ。おいしい話は最後にとっておきたいのが人情というものだ。北京に着いた夜、H君の案内で王府井の屋台村へ出かけた。道路の2車線を歩行者天国にして、露天の屋台が100軒くらい並んでいる。全部同じ企画の屋台で、それこそありとあらゆる食べ物を売っている。餃子、ラーメン、シュウマイ、焼きそば、シシカバブー、焼き鳥、饅頭、スープやお粥のようなものから、スイカ、ブドウ、ナシ、ウリ、椰子の実のような果物。蜂の幼虫、セミ、バッタ、蚕、カエル、サソリ、ヘビのようなゲテモノまである。屋台の前はどこも人ごみでごった返している。みんな手に手に食べ物を持って歩きながら食べている。私は最初から「あれもうまそう、これも美味そう」と目移りして決めかねていたのだが、他の5人は中国へ来たばかりということもあって、物怖じして何も食べようとしない。これはまず私が手本を示さねばと思い、餃子を包む皮の中に羊か何かの肉が詰めてある春巻きのようなものを買った。本当の名前は知らないので、みんなには中国タコスだと説明する。温かくてピリッと香辛料が効いておいしかった。それを見て勇気が出たのか、I君がサソリを注文した。店の人は「1個か?」と確認して、ぐらぐらと煮立った油の中へコロモも何もつけずに放り込む。30秒ほどでサソリのから揚げができ上がった。竹の串に黄色いサソリが3匹並んでいる。かなり不気味だ。「エビジャコと同じだろう」とI君は最初の1匹にかぶりつく。みんなI君を注視してしばし沈黙の時が流れる。「うん、なかなかうまい」というI君の一言で、残りの2匹を他の人も食べてみようということになった。お互い遠慮がちに譲り合った末に、結局2匹のサソリは私とM君の胃の中へ。「エビ」というより「小さなカニ」を丸ごとかじった時のような食感だった。味はお世辞にもうまいとは言い難い。ただ、こういう経験は日本ではなかなか出来ないのは確かである。I君いわく「毒は血管に入ると毒だが、胃に入ると強壮剤になる」のだそうだが、中国へ来た最初の夜にそんなに精力をつけて一体どうするのだろう?
2001年10月14日
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京劇を観る京劇の上演される「湖広会館」はその昔、湖北省、湖南省、広東省出身の人たちが集まる交流の場だったそうだ。文化大革命の時代は縫製工場として使われていたが、その後修復され京劇の劇場となっている。予約制で、入場料は150元。入場券を渡すと、昔バスの車掌さんがやっていたように、穴をあけて返してくれた。会館の中には中庭があり、その奥に劇場があった。中庭と劇場の入り口には土産物を売る店がたくさん並んでいる。売り子さんも日本語で「Tシャツ、千円。安いよ」などと商売熱心だ。劇場に入るとテーブルと椅子が並んでいる。意外と狭い。我々は正面の一番後ろのテーブルだったのだが、テーブルは3列しかなく、舞台との距離は10mくらいだった。二階は桟敷席のようだ。お茶とお菓子のサービスは無料。上演中は舞台の上にある英語のスーパーで、台詞や、劇の内容を説明してくれるようになっている。しかし、スーパーを見ていたのでは、どうしても劇を観るほうがおろそかになる。日本語で聞くに限ると、解説用のヘッドセットを30元で借りることにした。運よくその日の演題は京劇の中でも有名な「覇王別姫(はおうべっき)」だった。「覇王」は項羽のことで、「姫」は中国四大美人の一人である虞美人。決して項羽と愛人との三角関係という意味ではないので念のため。劉邦に追い詰められ、戦場で「四面楚歌」を聞いた虞美人は、項羽の足手まといになることを恐れ自殺するという悲しい物語なのだ。舞台が始まる。登場人物は二人だけ。「姫」は中国の典型的美形。目はパッチリと、きりりと吊り上がっている。どことなくジュディ・オングに似ている。そういえば化粧の壁の厚さも相当なものだ。「覇王」は隈取をした白い面を被って目だけしか出ていない。何故かナウマン象を連想させる。京劇の役者は目の演技を鍛えるため、洗面器に金魚を入れて動きを追いかける訓練をするそうだが、なるほどと納得した。「姫」はいつも裏声でしゃべる。昔は歌舞伎と同じで役者はみんな男だった。今では女性が演じているが、その時代からの決まりだそうだ。ヘッドセットからは、場面の説明以外に、そんな京劇の歴史も流れる。なかなかのスグレモノなのだ。この劇での一番の見せ場は、「覇王」を慰めるために「姫」が剣を二つ持って踊る場面だ。剣をまわしたり、足の下をくぐらせたり、投げ上げて受け止めたりと、高度な技を披露してくれる。中国版バトン・ガールと言ってしまえばそれまでなのだが・・・最後は、自殺した「姫」を「覇王」が抱きかかえ悲哀にくれるというところで幕になった。休憩をはさんで後半は「鬧龍宮(とうりゅうぐう)」だった。こちらは孫悟空が竜宮城へ行って如意棒を手に入れ、魚たちと大立ち回りをして暴れるというストーリーの、動きの多い劇だ。台詞は少なく、登場人物も孫悟空は黄色いサルの顔だし、竜宮城の家来たちは頭に魚やエビの絵を載せているのでいので、わかりやすい。ただし、竜宮城の主は乙姫様ではなく、なまずのひげのような触角を持った竜王だった。棒を使った演技が中心で、中国雑技団の集団演技を観ているようだ。歌舞伎と同じで、演技が決まったところでは孫悟空が「見得」を切る。ヘッドセットからは、こういう場合「ハオ!」と掛け声をかけてくださいと催促がある。観客はほとんど日本からの団体さんだったために、ヘッドセットの催促の後ようやく「ハオ!」「ハオ!」と声があがっていた。ヘッドセットのほうも心得たもので、「ありがとうございます。外国のお客様からの暖かい声援で、舞台の俳優も心のなかで嬉しく思うことでしょう」だと。
2001年10月13日
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天安門に登る天安門に登る計画を立ててくれたのはH君だ。私は恥ずかしながら、天安門の上に登れるとは知らなかった。天安門と聞いて、私が最初に思い浮かべるのは、1989年、中国政府が学生の民主化運動を弾圧した「天安門事件」だ。また1949年10月1日の建国宣言は毛沢東によってこの天安門の上で行われた。故宮が近代までの権力の象徴ならば、天安門はまさに現代の権力の象徴といえるだろう。天安門は故宮の正門にあたる。従って、壁の色も屋根の色も故宮と同じだ。ただ一つ違ってるのは「○○門」と掲げられた額の代わりに、丸い中国国章が飾ってある。正面から見ると城壁の中央に「毛沢東」主席の顔写真が飾られ、左右に「中華人民共和国万歳」と「世界人民大団結万歳」の赤地に白抜きのスローガンがかかっている。スローガンだから別にかまわないようなものだが、「世界人民大団結万歳」とは、かなり嘘っぽい。おそらく漢字の語呂合わせなのだろう。入場券を買って改札口に並ぶと、中国語で何か言われて、後ろを指差された。H君の通訳で、「バッグを預けて来なさい」だと判明。100mほど離れた荷物一時預かり所へ行く。預かり料は荷物の大きさによって違う。A5サイズのバッグは1元で、A4サイズのバッグは2元だった。B5サイズのバッグはどっちなのだろう?カメラだけ持って再び改札口へ行くと今度は通してくれた。しかし、天安門の方向へ歩いていくとさらに検問所があって、通路が男女に別れている。建物の中には何と空港に設置されているのと同じ金属探知機があった。ここで警報が鳴ると、さらにボディチェックを受けるために、男女の入り口が別れていたのだ。みんな「ここまで厳しいチェックを受けたのだから、天安門の上はさぞ素晴らしいことだろう」とぼやきながら階段を上って行った。私は天安門に登ることを、正直言ってそれほど期待していたわけではない。そこからの眺めも、天安門広場の位置や左右の建物の配置を頭に入れておけば、大体想像できる。「要は天安門の下で見た風景を縦に20メートル持ち上げただけではないか」と思っていた。しかし、そうではなかった。どう書くのが一番適切なのか表現に困るのだが、私はそのとき「中国を支配した気分」を味わっていた。そんな大それた思いが浮かんでくるとは予想していなかっただけに、自分でも驚いてしまった。今考えると、おそらくH君だけがそれを予想できたのだろう。深謝。 満足そうな顔してます。
2001年10月12日
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故宮の観光(後半)大理石の基礎へ登ってみると想像していたよりずっと広かった。太和殿がゆうにもう一個建てれる位の広さだ。太和殿の前まで行く。さすがに人でごった返している。みんな窓に顔をすり付けて中をのぞいている。解説のテープでは皇帝の玉座があるそうだ。しかし、窓はカラーフィルムを張ってあるように暗い。紫外線を少しでも中に入れないためかもしれない。私も窓に近づいて覗いてみたが、何も見えない。みんなから遅れているのでここで頑張っても仕方がないと次へ急ぐ。故宮は過去に何度も火災に遭っている。一番の原因は落雷だそうだ。したがって、鬼瓦には水神である龍。また、一番雷が落ちやすいといわれる四方の軒の屋根には、いろいろな雷避けの陶器の動物を5~6匹配置してある。その一番前には軒で首を吊って死んだ皇帝のミニチュアまで置いてあるという念の入れようだ。これは全部テープネタ。中和殿、保和殿を通って、後宮へと入る。日本でいえば大奥にあたる。皇帝の寝室だった乾清宮、皇帝の玉璽を安置した交泰殿、皇帝が初夜を過ごした坤寧宮とほとんどテープを止めることなく進んでいく。このあたりのテープの説明はなかなか色っぽいところもある。もしこのテープがなかったら、同じような赤い柱と黄色い屋根の建物が次から次へと現れただけの1kmのお散歩といったところだろう。30元の元は十分とれる。基礎の部分にはめ込まれた大きな一枚岩の大理石に彫られた龍を見て、建物の見学は終わる。ここから奥は御花園という庭園になっている。それまでのコースには緑が一ヶ所も見えなかったので、何となくホッとする。しかし、ここにも理解しがたいものがあった。「無錫旅情」でお馴染みの太湖石を重ねた堆秀山という築山で、おまけにその頂上には赤い楼閣まで建っている。そこらじゅうに「登るな」という看板がかけてあり、ロープを張り巡らして近づけないようにしてあり、警備員が見張っている。人だかりも太和殿に負けないくらい多い。故宮にあるからには、これが中国の一番素晴らしい山のレプリカなのだろう。私にとっては、人工的すぎるようで決して美しい山ではない。何と言っても「山は富士」なのさ。しかし、登りたい衝動は抑えられなかった。これは日中共通の感覚のようだ。神武門の手前の土産物屋へテープを返す。私のパスポートも無事戻ってきた。歩き疲れたので園内の御茶屋さんで冷たい紅茶を飲んで休憩する。中国格子の窓から見える庭にはザクロと柿の木が植わっている。この柿の実は面白い形をしていた。上から見ると四つにくびれていて、横から見ると二段にくびれている。M君に「何故こういう形なのか」と聞かれたので、「中国人は8という数が好きなのだ」と答える私であった。もちろんデタラメである。
2001年10月11日
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故宮の観光(前半)ラスト・エンペラーで一躍有名になった故宮。ムーランにも出てきた故宮。北京のど真ん中に幅700m、奥行き1kmの広大な面積を占める故宮。中国の歴史とスケールの大きさを実感できる象徴的な場所といえばやっぱり故宮だろう。今回の北京旅行で私が一番行きたかったのは故宮だった。故宮は元の時代に原型が作られ、明の永楽帝が15年の歳月と20万人以上の労働力を動員して1420年完成させた。その後ラスト・エンペラー溥儀まで500年間中国の権力の中心だった。紫禁城とも呼ばれている。辞書で調べると、「紫」は紫微垣(しびえん)で、天帝の座の意。皇居。とある。故宮は高い塀と堀に囲まれているので、外界との接点は正面の午門と裏口の神武門だけだ。午門で入場券を買って中に入るのだが、この門を見ているだけでワクワクする。赤く塗られた壁の高さは10mはあるだろう。その上にまた10m以上の楼閣が建てられていて外界と故宮を隔てている。入場券を見せて、アーチ型のトンネルを抜けて行く。まさに今私にとって紫の禁断の扉は開かれようとしている。トンネルを抜けるとそこは・・・広場だった。ここで、一人30元を奮発して日本語ガイドテープを借りる。このテープは故宮内にある番号のついた立て札を目当てに順番に歩いていき、立て札の近くでスイッチを入れるとその近辺の説明をしてくれる。おまけに故宮の宮殿の地図が入ったパンフレットも付いている。その代わり私のパスポートが人質に取られる。イヤホーンを耳に入れて、準備完了。太和門へ向かって歩き出す。太和門までに2つの立て札があって、説明を聞きながら門をくぐると・・・太和殿が現れる。それも広場のはるか向こうに・・・視野いっぱいの広場は黒いレンガ(だと思う)が敷き詰められている。その真中に視野の半分くらいの白い大理石の三段の基礎がある。その上にまたその半分くらいの太和殿がどーんと載っている。太和殿の柱は赤、二層の屋根は瑠璃色(黄土色)、空は水色。そして完璧なシンメトリー・・・一昨日、万里の長城を視覚的と表現したが、こちらも別の意味でものすごく視覚的だ。それも確実にこちらのほうが美しい。視野の中のどこを探しても近代的な高層ビルは見えない。今後もこの場所からは絶対に高層ビルが見えることはないだろうと思った。まさに時間と空間を超越したような世界だった。ここでしばらく見とれていたために、私が一番ドンジリになってしまった。テープの説明の時間は同じ長さなので、それ以後みんなに追いつくために歩きながらテープを聞くという羽目になった。
2001年10月10日
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明の十三陵の観光万里の長城、明の十三陵の観光は北京旅行の定番中の定番。長城から北京への帰りに寄り道するのがここなのだ。ツアー観光の日程では午前中万里の長城、昼から明の十三陵というのがほとんどなので、午前中は比較的すいている。ここには明代の皇帝13人の墓が集まっている。北に山があり、その麓に開けた土地は「風水」で最高の場所なので、歴代皇帝の墓地として選ばれたという。「山の南」か又は「川の北」を風水では「陽」というそうだ。中国には「陽」がつく地名が多いが、やはり陰より陽が縁起がいいのだろう。見せてくれるのは定陵という14代万暦帝の墓。墓といっても大きな地下室なのだ。地上にはここに万暦帝の墓があるよと、堂々と世間に宣伝するような建物や石碑がいっぱいある。しかし、地下室が発見されたのは1956年と比較的新しい。400年以上盗掘されずにいたのだから驚きなのだ。地下室は地下27mにあったのだそうで、私は「そこまでやるか?」という気がする。13人のうち11人の皇帝の墓はまだ封印されたままなのだが、これも理解できない部分である。墓までの参道には大理石に彫られた龍や鳳凰のレリーフがたくさんある。龍は皇帝を、鳳凰は皇后を表す。この墓にまつわる話で、本当は皇后が死んだとき、もう一人の后が死んだとき、皇帝が死んだときと3回葬式をして、それぞれの部屋に棺を納めるのが本来のやり方なのに、発見されたときは3つとも皇帝の部屋にあった。予算の関係か、情勢不安だったのか詳しいことは知らないのだが、なんとなく興味をそそられる話である。地下室を見学して駐車場へ帰る途中、麦藁帽子をかぶったおばさんたちが10人くらいで参道の石畳を掃除している。各々手に直角に曲げた針金を持って、しゃがみこんで石畳の間の草を掘り出している。よく見るとその針金は長さが少しずつ違う。私たちの間で「はたしてあの針金は支給されたものだろうか、それとも自作したものだろうか?」という議論が盛り上がった。「おそらく、自分の使い勝手の良い長さに、自分で作るのだろう。」という結論になったのだが、そうするとおばさんたちの控え室には、夜になると名札をつけた針金がいっぱい置かれていることになる。それとも家に持って帰るのだろうか。定陵の中は広いので、おばさんたちは毎日毎日その針金を使って草を掘っているわけだ。日本なら除草剤を散布して一挙に草を枯らすのだが、環境にやさしい人海戦術を使うあたり、さすが人件費の安い中国!と感心させられる。(昨日の答え:向かって左側・・・我々のすぐ後ろの城壁の高さの差にご注目ください。)
2001年10月09日
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万里の長城(八達嶺)の観光H君の用意してくれた貸切のバンが8時にホテルの前に到着した。八達嶺と明の十三陵の観光に行くのだ。バンに乗っているのは、運転手、我々6人、H君とその娘さん2人(小学校3年生・2年生)。H君は我々のために缶ビールやコーラ、ミネラルウォーターをアイスボックスにいっぱい詰め込んでくれていた。運転手はネスカフェ・インスタントコーヒー500gの瓶にお茶をいっぱい入れたのを持っている。八達嶺までは高速道路があり約1時間半の距離だ。北京を離れるにつれて、木々の緑が目にしみるように感じる。空も一段と青さを増してくる。北京市内はかなり空気が汚れていることを実感した。しかし、この緑も1960年代になって植林をして取り戻した緑なのだ。植林は今も続けられているそうだが、よく見ると等高線状に木が並んでいる。それもせいぜい高さは1メートル。放っておいても木が生長する日本の気候を改めてありがたいと感じた。一方通行2車線の高速道路をおりるとすぐに八達嶺に着く。ロープウェイに乗って八達嶺の一番高い所へ行くことになった。値段は50元。チケット売り場の壁の120cmのところに赤い線が引いてあり、子供の身長がこの線より低いと無料。越えると大人と同じ料金になる。H君の娘さんは一人だけ無料だった。中国の入場料のシステムはだいたいこうなっているそうだ。一見合理的のようだが、H君の娘さんとM君とではゆうに2倍以上の体重差がある。まあ、何事にも矛盾はあるものだ。どうせお金を払うのはH君なのだから・・・・ロープウェイは6人乗りで、前向きに3人、後ろ向きに3人座る。スライド式のドアが閉まって、いよいよ出発だ。私は後ろ向きの一番ドア側に座った。登るにつれて次第に遠くの風景が見えてくる。素晴らしく晴れた日で、かなり遠くまで見渡せた。下を見ると地上まで50mはありそうだ。スライド式のドアはちゃんと閉まらず少し隙間が開いている。高所恐怖症のS君は、さぞかし座席で固まっていることだろうと想像したら可笑しかった。終点近くになってロープウェイは長城の横を通る。このアングルからの長城はさすがに圧倒的だった。攻めてきた敵も、「これは無理だ」と諦めることだろう。この感覚は中国では二度目だった。最初は西安の北面の城門を見た時で、見上げていると首が痛くなるくらいだった。視覚的に敵の戦意を喪失させようという意図がありありと見える。古代中国ではそのためにものすごいエネルギーを使っていると思った。こんな所まで好き好んで石を運んでく人は誰もいないだろう。ロープウェイを降りると八達嶺の9合目くらいのところに出る。こんなに高いところまで自分の足で登ってくる自信はないので、文明の利器に感謝した。一番高い砦まではそれでも歩いて400メートルはあった。傾斜が急なところは石段になっていて、少しゆるいところは石畳の坂になっている。しかし、緩いといっても30度はある。息を切らせながらようやく一番高い砦へ到着した。しかし、驚いたことにこの砦には入り口がない!!!ただ見せかけの砦だった。やっぱり視覚的なのだ!!!中国の観光客はみんな砦の壁の前で記念写真を撮っている。我々日本人には理解しがたい光景だった。昔のベルリンじゃあるまいし、壁と空と自分が写った写真を人に見せてどうするのだろう?という訳で、我々が撮った写真が、この日記のトップを飾っている写真である。ちゃんと万里の長城を鳥瞰するようなアングルで、いかにも「皆さん見てください。この通り本当に行ったんですよ。」と言わんばかりの写真ではないか!(向かって右からK君、M君、Tさん、I君、私。S君はシャッターを押している)ここで問題。どちらが北京側かわかるだろうか?写真だけでわかった人はかなり鋭い観察眼の持ち主。(答えは明日。お楽しみに)
2001年10月08日
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瑠璃廠(るりちゃん)でお茶を飲む瑠璃廠は清の時代の街並みを保存している地区で、書画や骨董品を売っている店がずらっと並んでいる。道路は石畳で舗装してあり幅は5~6メートルと結構広い。店は道路から一段高いところに入り口がある。二階建ての店が多く、中国格子の窓枠にそれぞれ工夫を凝らしている。中国情緒たっぷりの、なかなかいい感じの通りだった。しかし、2~3の店に立ち寄って見ても、骨董に趣味を持っていない私にとっては、「値段が高いなあ」と感じるだけであまり欲しいものは見当たらなかった。その日は暑かったので、みんな喉が渇いていた。骨董品の見学はそこそこにして、お茶を飲むことになった。私はお茶を飲む習慣は、圧倒的に中国が日本より優れていると思っている。普通中国の人はコップにお湯と一緒にお茶の葉を入れる。空になったらお湯だけ入れ足して、一日中同じお茶を飲んでいる。最初見たときは、苦くならないのかと心配したのだが、大丈夫。お茶の葉が日本のとは違う。中国のお茶は葉を刻んでいない。湯に入れる前はちじれて小さいのだが、湯に入れると一枚の葉っぱの形に戻るのだ。味は日本茶よりずっとコクがある。この飲み方を覚えてから土産にお茶を買って帰ることが中国旅行の楽しみのひとつになった。中国にはものすごくたくさんの種類のお茶があるが、大きく分けて緑茶とジャスミン茶、烏龍茶、プアール茶がある。ジャスミン茶は緑茶とジャスミンの花の混ざったお茶で、揚子江から北で一般的に飲まれている。揚子江から南は緑茶を飲む。日本で有名な烏龍茶は普通は福建省の人しか飲まないのだそうだ。H君が連れて行ってくれた店は、瑠璃廠の東角の二階にあった。日本人もしょっちゅう行く店らしく、店員の若い女性は二人とも日本語がしゃべれる。「龍井(ろんじん)茶」と「ジャスミン茶」を注文した。龍井茶は浙江省杭州のお茶で、緑茶の中では名門中の名門。味は日本茶とよく似ている。ジャスミン茶はせっかく北京へきたのだから、北京の香りを飲もうと私が提案した。最初に出てきたのは龍井茶。取っ手や注ぎ口に竹をデザインした濃い茶色の急須と、同じセットの茶碗4個だった。ジャスミン茶のほうは少し厚めの黄土色の急須に入って出てきた。お湯はお代わり自由なので、好きなだけ飲める。早速ジャスミン茶を飲んだ。これもピンからキリまであって、花と緑茶のブレンド次第で気に入った味に当たるときと、そうでないときがある。今回は喉が渇いていたせいかもしれないが、かなり上品な香りでおいしかった。龍井茶のほうは、もう毎度お馴染みの味だった。この店ではお茶以外にちょっとしたエピソードがある。店員さんがTさんを見て、「絶対日本人と違うよ」と言い張るのだ。「それでは何人?」と聞くと「韓国人」だと言う。Tさんは今回の旅行中、「韓国人」だったり「香港人」だったり、挙句の果てには「フィリピン人」だと言われたこともあった。私にはどうやって見分けるのかよくわからないのだが・・・・ちなみに、「中国人」だと言われたのはI君で、いつも「日本人」だったのはM君だった。
2001年10月07日
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北京のトイレ事情(昨日MADAMSさんから掲示板に書き込みがあり、中国のトイレ事情に興味をもたれているそうなので、今日はその話題をとりあげます。食事前の方はあとでアクセスしてくれた方が無難ではないかと思ったりします。)中国のトイレといえば、あまりにも有名なのが「ニイハオ・トイレ」だろう。女性用、また男性の大きいほうの便所に扉がなく、かつ金隠しが入り口方向に向いているトイレのことだ。こちらが用を足している最中に、後から人が入ってきた場合、その人と必然的に目をあわすことになり、「ニイハオ」と言うしかその場をしのぐ手段がないという。誰が名付けたのかは知らないが、思わず微笑んでしまうネーミングである。私は文化の違いをとやかく言うのは相手の国に失礼だと思っているので、「郷に入りては、郷に従え」とあるがままに受け入れることにしている。しかし、正直言って最初このトイレを実際に見たときはかなりのカルチャーショックを受けたものだ。今回、私以外の5人は初めての中国だったので、相当「感動」したようだ。もちろん中国のトイレ全てがこの「ニイハオ・トイレ」であるはずはない。ホテルや空港は個室の洋式水洗トイレだし、観光地にある有料トイレも洋式ではないにせよ個室の水洗トイレだ。有料トイレの料金は何故かどこへ行っても2角(1元の5分の1)。そう何度も有料トイレは使わないし、他で角の単位のお金を払うこともまずないので、自然とこのお釣りは使わずに残ってしまうことになる。だから、旅行の最後にこのお釣りを数えれば自分が何回有料トイレを使ったかがわかる仕組みになっている。それはともかく、今回の旅行中「ニイハオ・トイレ」に出会ったのは一ヶ所だけだった。それは万里の長城から北京市内へ帰ってきて昼食を食べた、メインストリートの長安街から2ブロック離れた炒醤麺の店だった。トイレは男性用と女性用に別れていた。入り口にドアはあった。しかし、大きいほうのトイレには扉はなかった。幸い、私はここでその区画に入る必要はなかったのだが、今回の旅行に紅一点で参加しているTさんもこの店ではトイレに行ったわけだ。食事が終わって、足の裏マッサージへと歩いている途中に、Tさんにその感想を聞いてみた。女性用の区画にも扉がなかった。入り口には洗濯機が置いてあって、雑巾のようなものがいっぱいあったそうだ。おまけに、そのトイレには金隠しがなく、穴の上に板を平行に2枚わたしてある構造だった。もちろん水洗ではない。さすがにTさんもそこへは入る気がしなくて、我慢しているとのことだった。旅行も最終日だったので、それ以外の我々男性が知ることのできないトイレの実態も話してくれた。北京へ来てから、トイレを我慢するのは3回目だそうだ。あと2回は水洗が故障していて、前に使った人の排泄物が残っていたのだと言う。私もそのシチュエーションは北京に着いた夜に夕食を食べたレストランのトイレで目撃した。ここは大小兼用のトイレだった。ただ、男性の小用の場合は排泄物との距離が遠いのでそれほど問題はないと考えて用を足してしまった。トイレについてはもうひとつエピソードがある。我々の泊まったホテルは5つ星の王府飯店だったのだが、夜中に私の部屋にS君から電話がかかってきた。トイレの水が溢れているのだそうだ。急いで行って見ると、便器の周りの床にバスタオルで堤防を築いていた。私も試してみたが、やはり便器から水が溢れ出して全然排水しない。仕方がないので、錆び付いた英語で「トイレが故障している。直して欲しい。」とルームサービスに電話した。しばらくすると、真夜中だというのにちゃんと道具を持って部屋に来てくれて直してくれた。この対応には「さすが5つ星」と感心させられたが、よく考えると本来あってはいけない故障なのだ。
2001年10月06日
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北京のタクシー事情今回の旅行では市内の移動にタクシーをよく利用した。H君は、中国語の全くできない我々のためにあらかじめ妙案を考えてくれていた。まず、我々6人を2つのグループに分ける。H君がタクシーを止めて運転手に行き先を告げ、運転手が「わかった」と言うと最初のグループがどっと乗り込む。H君のグループはその後で別のタクシーをつかまえるという方法だった。最初に乗り込むグループの責任者には、「英語ができるから」というだけの理由で私が選ばれてしまった。お金の支払いなどもするために、私はいつも助手席に座ることになる。北京はタクシーが多い。車の色が赤なのでよく目立つ。偶然歩道橋から撮った写真では半分がタクシーだった。車種はほとんどシトロエン。初乗り運賃は10元で、正確に測ったわけではないがこの値段で4kmくらいは走る。地下鉄が一人3元だから、3~4人で乗ればタクシーのほうが安くて早いのだ。運転席は鉄のフェンスでガードしてある。タクシー強盗から身を守るためなのだそうだ。北京のタクシーの運転は「怖い」の一言に尽きる。車線変更はおかまいなし。何度も後ろの車からクラクションを鳴らされる。車間距離はほとんどとらない。少しでも隙間を空けようものなら、他の車が割り込んでくる。歩行者のほうも「怖い」の一言に尽きる。ほとんどの交差点で信号を無視して横断してくる。車が近づいても一向に避けようとしない。車のほうで避けるのが当然だと思っているのだろうか…大体車との距離が20cmですれ違っている。助手席(日本での運転席)に乗っている私は思わず何度もタクシーの床を右足で踏みつけてしまう。もしぶつかったらダメージが大きいのは歩行者に決まっているのに、この「間」は何だろう?「そうか!これがカンフーの国なのか!」と一人で納得する私だった。ところで、全く中国語がわからないままに、行き先のわからないタクシーに乗っているのは不安なものだ。一番不安だったのは、京劇を見に行くために乗ったタクシーだった。運転手とH君とのやり取りでは「湖広会館」はOKだったはずなのに、いざ走り出してみるといかにも心配そうに英語で行き先を尋ねてくる。「H君の車について行け」と言ったら納得してついていたのだが、そのうち何台もの車に割り込まれ、信号で遅れて、結局見失ってしまった。私たちもその会館がどこにあるのか知らないので、これは困ったと思っていたらM君が京劇のチケットを出して運転手に渡した。それでも運転手の反応はイマイチさえない。「おいおい、どうする?」とあせっているうちに左折の長い渋滞にはいってしまった。こうなったら、運を天に任せて行くところまで行こうと腹を決めたとき、突然運転手が「イー・アル・サン・スー。ルーベン×××?」と私に話しかけてきた。何事かと驚いたが、「日本語で数字は何と言うのか?」と言う意味だろうと勝手に解釈して「いち・に・さん…」「イチ・ニ・サン・シ…」今度は、「ライト、レフト、(前を指差して)、(後ろを指差して)×××」「みぎ・ひだり・まえ・うしろ」「ミギ・ヒダリ・ウシロ・マエ」「ぷしん!みぎ・ひだり・まえ・うしろ」「ミギ・ヒダリ・マエ・ウシロ」「はお!」。今度はタバコを吸えと渡してくれる。それでは私もお返しに一本…などとすっかりうちとけて日中交流をやっているうちに左折の順番がやってきた。「湖広会館」は左折してすぐのところにあり、我々は無事到着することができた。先に着いていたH君たちは、我々が遅いのでかなり心配しながら待っていたそうだ。北京のタクシーの運転手は、たいてい無口だったので(もっとも、我々も中国語をしゃべれないのだから当然ではある)、この時のタクシーの運転手が一番印象に残っている。さて何度もタクシーに乗っているうちに、運転手の防御フェンスにはもうひとつ別の理由があることを発見した。それはきっとレーシングカーのロールバーの役目に違いない。
2001年10月05日
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トンボの化石の話を読んだ北京のH君から「Love letter」の映画を見るべきだとのメールがあった。その映画のラストシーンでトンボが化石になることを示唆するような場面があるというのだ。2年前の映画なのでそろそろレンタルでも出ているらしい。そのうち暇になったらと考えているうちに、今度は化石の持ち主であるI君からメールが入った。「よく虫眼鏡で調べたところ、化石の表面には小さな巻貝の化石がたくさんあり、トンボはその上に描かれていた」のだそうだ。やはり偽物天国だけのことはある。しかし、どうしてトンボなのだろう?チョウチョやカブトムシでもいいではないかと思った私は自分なりに答えを探してみた。そうだ!トンボは英語で「flying dragon」。中国人は昔から龍が大好き。したがって、化石はトンボでなくてはならない。一人で大いに納得した私は早速この見解を北京のH君に送った。しかし、今日まで彼からの返事はまだない。
2001年10月04日
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友誼商店で詐欺にあう。 北京最終日の夕方、建国門の近くの友誼商店へみやげ物を買いに行く。ここは国営で、偽物が横行する中国でも、安心して本物が買える店として観光客にも人気がある。「買い物の方法は、まず品物を選び、店員に品物の値段を書いたレシートを発行してもらう。客はレジでお金を払い、レシートに領収印を押してもらい、そのレシートと交換に品物を受け取るシステム。しかし、国営なので店員のサービスはすこぶる悪い。」とH君から講習を受けていざ友誼商店の中へ。一階はお茶、漢方薬、お酒が並び、二階はシルク、チャイナドレス、毛皮などの服飾。三階は宝石、工芸品があって、まさに中国土産の百貨店といったところ。とりあえず、みんな一階でお茶や漢方薬を買い始めた。私も烏竜茶やジャスミン茶を買おうと思い、中年の女性の店員と品定めをしているうちに、いつの間にかもう一人若い男性の店員も加わっていろいろ日本語で話しかけてくる。結局ジャスミン茶2個、132元と烏竜茶2個、200元に決めて、レシートを書いてもらった。すると若い男の店員がそのレシートを女性の店員から受け取り、私に「合計で332元です。」と言ってお金を払えと催促する。「ここで払ってもいいのか」と聞くと「そうだ」と言う。私はH君から店のシステムを聞いていたので、少し不審に思いつつ、その人の服装を確認したところ、店員と同じ水色のシャツを着ているし、胸にカードも付けている。(後で思えばそのカードになんと書いてあるかを確認するべきだったのだが・・・)レジはすぐそこだし、店員のサービスで領収印を押してくれるのだろうと善意に解釈して340元を渡したところ、「おつりは8元ですね。少しお待ち下さい。」と言ってレシートと現金を持ってレジに向かった。私は目でその男を追っていたのだが、確かにレジに並んでいた。その時レジはK君や、M君がお金を払っていたので少し混雑していた。その男が一番後ろに並んだのを確認した後、私は他の品物を探そうとその男から目を離した。これで詐欺は見事に完了。次ぎにレジを見たときにはその男は消えていた。しかし私はまだ詐欺にあったとは気づかず、混雑しているので他のレジへ行ったのだろうと思っていた。10分待っても帰ってこないので、もしかしたらと思って女性の店員に「あの男性はここの店員か?」と聞いたところどうも要領を得ない。そのうちにH君が「どうしたのだ?」とやってきてくれた。手短に事情を話し、ようやく中国語でのやりとりが始まった。女性の店員は困ったような顔をしてあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていたが、結局店の管理体制の不備を認め、私におみやげのお茶の袋を渡してくれた。結局私の詐欺の被害はおつりの8元だけで済んだわけだ。後で食事の時、H君がその経緯の説明をしてくれた。女性の店員に記者証明書を見せて「私は記者だ。この事件は記事になる。」と脅したそうだ。店員は上司と相談して事件が公にならないように処理をしたのだろうということだった。中国では「記者証明書」は水戸黄門の「葵の印篭」の効力を発揮するようだ。これにて一件落着。
2001年10月03日
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足の裏マッサージ 「良子健身」と書かれた大きな緑の看板を北京市内で時々見かける。漢字の感じから「フィットネス・クラブ」の類だろうと想像していたのだが、何とこれがあの有名な「足の裏マッサージ」の看板だった。万里の長城を歩いたあと、北京の旅の疲れを癒そうとH君が我々をこの「マッサージ」に案内してくれた。「痛いのだろうか?」「どんな事をされるのだろう?」みんな期待と不安でH君の後に続く。店の支配人と思しき男性が「いらっしゃいませ」と流暢な日本語で出迎えてくれた。ここの客はほとんど日本人なのだそうだ。7人揃って部屋に案内された。そこには座りごこちの良いソファーがあり、その前にソファーと同じ高さで同じ色の座椅子がある。各自ソファーに座って足を伸ばしてマッサージ師の入室を待っていると、やがて木の桶を抱えて彼女達が入ってきた。男性の客には若い女性の、女性の客には若い男性のマッサージ師が付く。桶には薬湯が入っていて、まずそれに足を浸して筋肉をほぐすらしい。K君が足を浸けたとたん「熱っ!」と足を持ち上げた。H君が笑いながら「なにを大げさな・・・」と言いながら自分も足を浸けたとたん「熱っ!」確かにやけどをしそうなくらい熱い。しかし、じっと我慢をしているとそのうち気持ちよくなってくる。ぬるくなった頃を見計らって、湯を足してくれる。20分もした頃、彼女達が再度揃って入室してきた。ソファーの前に座って足の裏をマッサージしてくれる。まず左足から。ツボを押しながらマッサージをし、関節を伸ばし、叩いてくれる。マッサージの順番は決まっているようで、叩くところになると7人が同じリズムで音を立てて叩き始める。太鼓台のリズムに似ている。ほとんどのマッサージは気持ちがいい程度なのだが、時にすこぶる痛いところを押される。このとき、マッサージをしている女性が「痛いだろう?」というような含み笑いを浮かべて私の方を上目遣いで見る。「いやいや、それほどでも。」というように軽く微笑み返す。するともう少し力を入れて「これでどう?」と見つめ返される。少し引きつりながら「まだまだ、大丈夫」と微笑む。すると今度はめちゃくちゃ力を入れて「これでもか!」と押してくる。見ると力を入れすぎて顔がゆがんでいる。さすがに思わず「痛っ!」と声を出すと嬉しそうに笑いながら隣の女性と何か話している。そのうち隣のM君も「痛っ!」。女性は「モタン、モタン」と教えてくれる。そうか「痛い」は「モタン、モタン」なのか。軽くマッサージしているとき「気持ちいい」と言うと「ソーファー」と教えてくれた。約40分間、和やかな雰囲気でマッサージは終了。何だか足が軽くなったような気がする。マッサージは女性にしては重労働だとおもうが、みんな一生懸命やってくれる。どの娘もなにやら田舎臭さの残る素朴な顔をしていた。この後、別室のマッサージ機に案内される。座ると尾底骨のあたりに硬いものがあたる。「何だこれは」と思うまもなくスイッチが入るとその硬いものが振動し始めた。そのうち上に移動するだろうと我慢していても、いつまでたっても動かない。たまらず隣にいたK君に、「こりゃいかん」と言うと、K君も同じ目にあっているらしく、「変な気になるなあ」と言う。反対側のM君を見ると何事も無いようにすましている。これには驚いて「何も感じないの?」と聞くと黙ってニヤーと笑ったので、彼も同じ目にあっているのだと分かった。そのうち少し遅れて始めた後ろ側の4人もワーワー騒ぎ出した。I君はTさんに、「興奮するなよ」と言ったそうだ。その後、肩から腰をマッサージしてくれて全てのコースが終了した。1時間半でお値段は150元。しかし、あのマッサージ機は何故あのような構造になっているのか未だにわからない。
2001年10月02日
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がらくた市のトンボの化石H君が、日曜日の午前中だけ開かれるガラクタ市に案内してくれた。塀に囲まれた区画は幅100メートル、奥行き50メートルはあるだろうか。赤と黄色のテントを張ったアーケードを連ねたような市場には、一人畳一枚分のスペースでびっしりと店が並んでいる。全部数える気にはとうていならないが、軽く1000軒以上の店が開いている。それぞれの列は、洋服、飾り物、置物、掛け軸、陶器などに大まかに別れてはいるが、それこそ「こんなものが売れるのだろうか」と疑いたくなるような、茶碗の割れたのや、仏像の首だけ、壊れた古いカメラなどが所狭しと並べられている。買い物に来た客の数も、売り手に負けないくらい多い。客は大半が中国人、英語圏の白人と日本人が2割くらいだろうか。通路の幅は2メートルくらいなのだが、まっすぐ歩くのは困難なくらいの混み様。それぞれ気に入った品物を探してうろうろと歩いたり、品定めに立ち止まったりしている。気をつけないと、すぐにみんなとはぐれてしまいそうな状況だった。歩き回っているうちにI君が化石を売っているおばさんと交渉し始めた。魚の化石が150元だという。トンボの化石が50元。しばらく交渉して両方で180元に値段がまとまり、I君は200元を店のおばさんに渡した。I君としては当然20元のお釣りをくれるものと思ったわけだが、そのおばさんは代わりにもう一個の小さな魚の化石を渡してくれた。身振り手振りで、これでOKだという。I君も、なるほどこれが中国の商売か。握った現金は絶対離さないのだなあと納得したそうだ。I君の買った化石を見て、みんなの話題はそのトンボの化石に集中した。よく見ると後ろの羽の位置が前の羽と離れたところから生えている。昆虫に特有の頭部、胸部、腹部の区別がなく、頭部と腹部とだけでできている。他の化石に比べて石の厚みが厚すぎる。また、はたしてトンボが羽を広げたまま化石になりうるのだろうか?ひょっとして洞窟の中を集団で飛行中に土砂崩れで埋まってしまったのではないか?50元で売れるのなら、一日がかりで石に絵を描いても十分元が取れる。そういえばあの店のおばさんは、I君に化石を売った後ニコニコしていた。魚の化石は2個とも本物らしいし、50元(750円)でこれだけ話題を提供してくれたのだから、偽物でもいいではないか。など意見が続出した。結局、ほぼ8割の確率で偽物だろうという結論になった。さて、その日の午後、紫禁城の観光を終えて天安門広場を歩いていたI君は、空を見上げて思わず「あっ!」と声を上げてしまった。そこには、間違いなく朝買ったトンボの化石と同じ形をした凧がゆらゆらと浮かんでいた。そしてI君はあの化石が100%偽物だと確信した。
2001年10月01日
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