中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は
日本の思想家、実業家、諜報員。日本初のヨーガ行者で、
天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。
16歳の時に頭山満の紹介で帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)となり満州へ赴き、
大連から遼東半島に潜入し錦州城、九連城の偵察を行う
。日露戦争が迫った1902年(明治35年)には再度満州に潜入し、
松花江の鉄橋を爆破したり、
仕込杖で青竜刀を持った馬賊と斬り合いを演じるなどの活躍を見せ「人斬り天風」と呼ばれたという。
1904年(明治37年)3月21日にはコサック兵に囚われ、
銃殺刑に処せられるところであったが、すんでのところで部下に救出された。
その後天風は様々な危険を乗り越え、
無事目的地の大連に到着した。
日露戦争に備えて参謀本部が放った軍事探偵は合わせて113名いたが、
そのうち生きて大連に到着したのはわずか9名であった。
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戦後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていたが、
1906年(明治39年)に奔馬性(結核の症例の中で、急速に症状が進むもの。
現代では「急速進展例」と呼ばれる)の肺結核を発病。
北里柴三郎の治療を受けたものの病状は思わしくなかった
。その後1909年(明治42年)に作家オリソン・スウェット・マーデン(en:Orison Swett Marden)の『如何にして希望を達し得るか』を読んで感銘を受け、
病気のために弱くなった心を強くする方法を求めてアメリカへ渡る決意をする。
しかし結核患者には渡航許可が下りなかったため、
親交のあった孫文の親類に成りすまして密航する
。
アメリカに渡った天風はマーデンを訪ねたがあまり相手にされず、願いは果たせなかった。
その後親戚筋にあたり、当時アメリカ公使館に勤めていた芳澤謙吉の勧めで哲学者のカーリントン博士に面会したのち、
華僑の学生に代わって授業に出席したのをきっかけにコロンビア大学に入学し、自らの病の原因を尋ねて自律神経系の研究を行ったとされる。
ヨーロッパではイギリスでH・アデントン・ブリュース博士(en:Addington Bruce)に面会したのち、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候したり、
ドイツでハンス・ドリーシュと面会するなど数々の著名人を訪ねるが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。
こうして天風は1911年5月25日に日本への帰路に就くが、
その途中経由地であったアレキサンドリアにてインドのヨーガの聖人であるカリアッパ師と邂逅。
そのまま弟子入りしヒマラヤ第3の高峰カンチェンジュンガ山麓にあるゴーク村で2年半修行を行う。
この修行を通じて結核はすっかり治癒し、さらに悟りを得るに至った
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