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2016/08/31 水曜日 ふたたび毎日ブログを書くようになっていささか元気が出てきたように思う その一方で多少なりとも負担に感じるにことも多くなる わたしがブログを書き始めた1995年当時に比べ 現在のネット環境は最大限悪い意味において「社会」そのものだから 狡猾に善意を装った、あるいは、むき出しの悪意が渦巻く時空間である もちろん本物の善意も存在すると信じたいがそれを確信するには それなりのスキルが必要となるのだろう そんなことはもうどうでもよいと考えればぐっと気持ちが楽になる そのことを発見してからは肩の力が抜けたような気がする しかし楽になったと言うことでは無い 現実の日常をも含めてしんどいことにかわりはないけれど いろいろなことが肯定的に捉えられるようになる そのバックボーンとなっているひとつの原則がある それは わたしは決して誰にも「マウンティング」させない わたしは決して誰に対しても「マウンティング」しない いつ何時も誰に対しても決してそれを許さない ということだ これは覚悟でもある 今日の写真:"Lights" 160717-DSC03000-C1dSONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.31
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2016/08/30 火曜日 台風10号は大量の雨を降らせて去って行った 風は春の嵐ほども吹かなかった わたしの住む蓼科高原では これという被害情報はない 終日空が明るかったのは ここが標高1700mの山岳地だから 上空には雲が一層しか無いからにちがいない それでも雨は降り続いていた 天気雨のように そして夕刻にようやく止んだ すっかり秋の気配が支配している それはこの静けさからも実感できる 耳の奥がキーンというこの静寂(せいじゃく) これが”SOUND OF SILENCE”というものなのだろう 今日の写真:"Lights" 60717-DSC02997-C1 1dSONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.30
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ウィトゲンシュタインは言う: 答えが言い表しえないのであれば、 問いを言い表すこともできない。 謎は存在しない。 問いが立てられうるのであれば、 答えもまた与えられうる。 女性によく言われるのだけれど・・・ 「ねえ、どうしてこうなるのよ!」(激怒?) 答えは「こうなったから」というしかない。 あるいは 「どうして急に残業なのよ!」と。 答えは「残業が必要となったから」というしかない。 この場合、女性の問いは答えられえない問いである。 単に感情の表出であり、答えを求めない問いである。 それに対して論理的に答える男は《お馬鹿》だろう。 そうだ、男は《お馬鹿》なのだ。 前回の記事に反発や共感を覚えることと思う。 特に女性の方は、反発を覚えたらそれは《図星》かも。 ひとはどうでも良いことに反発したりはしないものだから。 もうひとこと申し添えるならば、 記事中の「女」「男」という言葉を 「女性性」「男性性」と置き換えて読めば よりわかりやすいかもしれない。 生物学的な男女差を論じたものではなく、 また同時に だれでもその両方の要素を 精神的に内包しているのだから。 答えられない問いは無い。 しかし、 問うことのできない答えはある。 それを問うことはできない。 今日の写真:"Lights" 60826-DSC03639-12-igjp-dSONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.29
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2016/08/28 日曜日 ウィトゲンシュタインは言う: およそ語られうることは明晰に語られうる。 そして、 論じ得ないことについては、 人は沈黙せねばならない。 そうなのだ、 これは哲学について語られている論理的結論なのだけれど、 僕はこの助言を男女関係に対して適用して考えるようにしている。 《女性を相手に論じ得ないことについては、男は沈黙せねばならない。》 最近つくづくおもうのだ。 女性は「天動説」の世界に生きているのだ。 そして男は「地動説」の世界に生きている。 女性にとって世界は自分を中心に存在している。 すべてのものは自分にとっての価値に応じてその地位与えられる。 一方で、男性にとって世界は相対的な存在であり、 本来的にすべてのものは《等価》なのだ。 絶対的存在である女。 女性にとってある命題が真であるか偽であるかは問題ではない。 論理も倫理も自分の感情(快・不快)に勝る判断基準にはなり得ない。 生物学的にも精神医学的にもそれは正しいことだ。 相対的存在である男。 男性にとって最も大きな問題は個々の命題の真偽だ。 論理も倫理もそのような命題の判定のために運用される。 すべての命題が論理学的に等価である以上 それはあまり意味があるとは思えない。 しかし互いにそのようにしか生きることができない。 そこに《恋愛》が成立することはたやすいが 《永遠の愛》が成立するというのは 社会規範が必要とする幻想に過ぎない。 これは個人的な偏見かも知れない。 しかし論理実証的にはこれは真実なのだ。 互いに胸に手を当てて考えてみればすぐに思い当たることだから。 いずれにしても個人的な問題について女性を相手に論じてはならない。 そのような的外れなことをすれば女性を怒らせるだけだ。 温もりあるひととしてのコミュニケーションこそが唯一の手がかりなのだから。 今日の写真:"Lights on the Stairs" 160825-DSC03624-12dSONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.28
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2016/08/27 土曜日 なにかを伝えるための写真がある なにかを記録するための写真がある なにかを表現するための写真がある そういうこととは関係なく これといった意図も意識も無く撮られた写真がある ただそこにある写真 一見無価値に見える写真 しかし そこにある何かに気づくのも気づかないのも それを観るものの意識レベルに依存する わたしたちが目にしたもの 意識したもの 知覚したもの 認識したもの 記憶したもの 撮影したもの すべてが意味を潜在している ただ、そこにある写真 しかし なお、そこにある写真 そんな写真を撮りたいと思います 今日の写真:"Lights on the Stairs" 160825-DSC03627-C1 3dSONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.27
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2016/08/26 金曜日 自分が写真を撮る理由を考えることは 自分を見つめ直すことでもあると感じています まあそんなに堅苦しく考えなくても 写真を撮っているならば 真剣に写真を撮り続けていれば プロフェッショナルであろうがアマチュアであろうが いずれその問題というか疑問にぶち当たりますから わたしの場合に限って言えるのは 写真を撮り続けることによって わたしはわたし自身と真正面から向き合うことになる わたしが撮っているのはじつはわたし自身なのだ 自分自身のメタファーあるいは「そのもの」としての なにかなのだ そんなふうに実感しています わたしの写真が時として他の人にとって難解なものになり それをそのまま放り出したようなものになるのは それがわたしとしてはベストの表現だからです 説明する必要もなければ説得する必要もない 同時に わかってもらえなくてもしかたがない それがわたしなのだから 今日の写真:"Lights on the wall" 160825-DSC03630-4pSONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.26
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2016/08/25 木曜日 3日連続になりますが御射鹿池の写真です 2008年秋に撮ったものですが これまでの3枚とも同じRAW画像から現像したものです 東山魁夷画伯の名作「緑ひびく」のトーンを意識して カラー調整すると今日の写真のようになります ですからこれは実写の色彩では無く 記憶色の世界になります わたしにとって写真は「記憶」です まず「記録」であるのかも知れないが それは個人的な「記憶」となる そんなふうに実感しています ですから 写真を「記録」であると認識すると同時に 「記憶」として表現することに 個人的にはなんの違和感も感じていません とくに私のような個人的に写真を撮るものにとっては それは何の障害も無く実現できる生き方でもあります プロフェッショナルとしての仕事となれば そうもいっていられないことになるのでしょうけれど 幸か不幸か今私はそのような立ち位置におります 今日の写真:"御射鹿池/Mishkaike (3)" FDSC03004bSony DSLR-A700, Vario-Sonnar T* DT 16-80mm F3.5-4.5 ZA from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.25
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2016/08/24 水曜日 昨日も載せたこの御射鹿池の写真は2008年秋に撮ったものです 個人的により実写に近いカラー調整に留めると今日の写真のようになります これでもまだ記憶色であることに変わりはありませんから 写実主義のひとには受け入れられないでしょう それはそれでいいのです そんなこととはかかわりなく 私の写真は記憶色で表現することにしているのです 風景は私の脳機能、とりわけ学習・記憶とのインタラクティヴな運動から生成するなにかであると そのように考えているからです わたしたちの認知・認識行動はそのようにダイナミックでインタラクティヴなものなのです たとえそこにあるなにかを観自在菩薩様のように「観照」していたとしても そこにはめくるめく速度の相互作用 シノプシスを光の速度で駆け巡る 高度な神経活動が あるいは 精神活動があるにちがいない わたしたちは常に自己参照しながら知覚し認識し思考し行動する 写真を撮るという芸術的行為、表現行為もまた例外ではありません 今日の写真:"御射鹿池/Mishkaike (2)" FDSC03004_DP01Sony DSLR-A700, Vario-Sonnar T* DT 16-80mm F3.5-4.5 ZA from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.24
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2016/08/23 火曜日 この御射鹿池の写真はじつは2008年秋に撮ったものです 画伯の絵のイメージから春や夏の写真より 秋の風景を青で描いた方がイメージが近いことに気づいた そこで色彩補正(カラコレ)してみたのが上記の写真というわけだ 個人的にはこのような写真も表現として「あり」だと強い信念を持っている ところで本題に入る、昨日のことだ 「######」という雑誌の編集の者だけれど 秋の号で東山魁夷を特集するにあたり 「緑ひびく」的な御射鹿池のイメージ写真が欲しい Flickrで拝見した貴殿の御射鹿池の写真を是非お借りしたい そんなご連絡をいただいた ここ数日、御射鹿池の写真を撮りにいらしたお客様が続いたので じつに「流れ」と言うものがあるのだなあと感慨深い おおくのひとは実際にこのような風景には出会わないかも知れない しかし出会うことができるかも知れない ちょっとした光の加減、大気の状態等々… まったく無いことではない そこにわたしの見た風景を私は表現したかった それは「写生」ではなく「観察記録」でもなく「個人的体験」である そうした意味においてこれは「わたしの見た」御射鹿池の風景なのだと言える 観たままを表現してしのごの言われる筋合いは無い そんなふうに開き直った、極・個人的色彩主義(?)のわたしです 今日の写真:"御射鹿池/Mishkaike" 20081028-FDSC03004-C1 31dSony DSLR-A700, Vario-Sonnar T* DT 16-80mm F3.5-4.5 ZA from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.23
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2016/08/22 月曜日 台風9号の影響は最小限でした 一時雨がぱらつき風が吹きましたが それはむしろ秋の本格的到来を告げる 清冽な大気の運動のように感じられました ピープーと梢を鳴らしながら 一陣の風が吹き抜けるのを聞いて 深く深く呼吸をしてみれば そこにいま 過ぎ去ろうとする季節への 懐かしい想いすら感じるのです 今日の写真:"日々草/periwinkle" 160811-DSC03388dSONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.23
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2016/08/21 日曜日 この写真は9日前のものだからハーフムーン こういう大自然の中で22年も暮らしていると 月齢は時計そして月齢は暦なのだ 太陽の沈む位置だってそうだ それを知ったらびっくりして椅子から転げ落ちるくらい移動するのだ そんな宇宙的な運動を日常として暮らすことの素晴らしさは 何物にも代えられない だからここにいるのだ 霞を食って生きる本物の仙人になることができない限り お金と人間関係からは逃れることはできないけれど それはさておき 秋は空からやって来る それを実感した夜でした 今日の写真:"秋の夜空" 160811-DSC03392-C1 d SONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.21
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2016/08/20 土曜日 今日はおおむね雨 空は明るい いっとき日が差すこともあるが それでも天気雨 ジメジメした感じはまったくない やはりはるか遠くの台風の影響 たぶん 今日の写真:"Rainy Today" 2016-08-20 10.53.02-IGJP / iPhone 6 + 645 Pro from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.20
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2016/08/19 金曜日 雲の中の風景なんて言うとなんだかキャッチーに過ぎるかも知れない キャッチーなのは個人的には大嫌いだからそれはいやだな とにかく今朝ラウンジから見た風景はこんな風だったのです もちろんこのカラーは私の個人的な見え方を反映している いずれにしてもこの風景は私にはこのように見えています あるがままに撮るのも写真なら 見えるままに撮るのもまた写真 そんなふうに思っています 今日の写真:"今朝僕らは雲の中にいた" 160817-DSC03466-20d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.19
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2016/08/18 木曜日 以下のようなことを2000年12月31日(日)、21世紀前夜にこのブログに書いていたことを思い出したので再掲載します。 ★★★ 今日は21世紀前日の2000年12月31日(日)、 寒々とした朝です。 気温は現在2℃、今朝の最低気温はマイナス5℃でした。 それ以上に寒く感じるのは陽射しが無いせいでしょうか? 改めて思い返してみると、20世紀って幸せな100年間だったのでしょうか。 僕はこの世紀の後半に生まれたのですが、歴史を見るかぎり20世紀って「無差別大量殺戮戦争」の世紀だったのかもしれません。 兵士だけが闘って死ぬのではなく、一般市民が女子供までが巻き込まれて同じように殺されてゆく。 これでは神がその実在(超越的存在でも良いけど)を問われてもしょうがない。 信仰をお持ちの方にはこれは「暴言」かもしれません。 しかし、あなただって、そんな思いをのり越えていまの信仰に至ったのではないでしょうか。 僕は僕なりの「祈り」を抱いています。 特定の宗教とは無縁ですが、それを「信仰」と呼ぶことにはいささかも抵抗はありません。 信教の自由とは信仰しない自由をも含むのですから、寛容であることも必要だと思います。 文字通り「釈迦に説法」で申し訳ないです。 僕はニヒリストではありません。 しかし21世紀には何も期待していないのです。 せめて21世紀は科学や技術の進歩を謳う世紀ではなく、人類の進化と覚醒を謳歌する世紀になって欲しいと思っています。 がこの世界(現世)に生きることの幸福を謳歌し、来世の幸福や栄光、死後の天国や地獄の呪縛から開放される世紀であって欲しいと願っているのです。 大切なのは「いまを生きる」ことなのですから。 ★★★ しかし、なぜかいま僕の心にあるのは深い哀しみだけです。 今日の写真:"哀しみの空" 160805-DSC03261-3insg from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.18
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2016/08/17 水曜日 なにに見えるか、ではなく、なにが見えるか、でもなく、そこになにを見るかこそが問題だ。 年齢を重ねるにつれ、好きになるものより、嫌いになるもののほうが多くなった。 あるいは、好きでは無くなったもののほうが多くなった。 あるものは、自らが勝手に美化していたものの実相が見えただけであり、またあるものは、その存在の軽さが明るみに出ただけだった。 しかし、その後好きになったもの、改めて好きになったものは違う。 年齢相応の見識と洞察を持って対峙した結果として、いわば「我が友」として迎え入れたものだからだ。 もはや夢は夢では無く、確かな目標となった。それが到達できないかも知れないことも同時に知った上でのことだ。 ちなみに、わたしが久しく嫌いだったのに、好きになった唯一のものがある。 それはわたし自身。 今日の写真:"好きな空" 160810-DSC03362-5 d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.17
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2016/08/16 火曜日 空を覆っていた雲を引きちぎるようにして風は吹き抜け いまは満天の星空が頭上を覆っている。標高1800mの亜高山帯の森は「しん」と静まりかえっている。 風の音もない。 上空を吹く風と,森を吹き抜ける風とは異なるのだ。 今日は野生のニホンジカの群も 他に行っているらしく 庭を通る気配もない。 本来夜行性の森の動物たちもなぜか 今夜は息を潜めて じっと星空を見上げているのだろうか。 午前3時、この季節では最も闇が深い時間帯。 ふたたび風の話だ。 最近娘は母親にとても似てきた。 ちょっとした仕草や眼差しが ぼくに遠い過去の物語を思い起こさせる。 「あなたの子を産みたい」と彼女は言った。 「ぼくの子を産んで欲しい、もし子供ができたら知らせて欲しい」 そう言ってぼくらは別れた。 それはもうすでに終わった恋だった。 それでもぼくらは愛し合っていた,とても深く。 彼女は娘を生み、育て、そして鏡の向こう側へと去っていった。 娘と歩いていると まるであの頃に戻ったようだ。 その気配は彼女そのものだから。 さらさらとした長い髪の毛 すらりとしたたおやかな体型 鈴を転がすような美しい声 これは神の慈悲なのだろうか それともぼくに与えられた罰なのだろうか。 娘は彼女ではないし,彼女は娘ではない。 風が吹いている たおやかな感触の風だ とてもいいにおいがする。 今日の写真:"徴(しるし)" 160810-DSC03364-3 d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.16
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2016/08/15 月曜日 今日も風が吹いている。 樹木はほとんど動かない程度だが ぼくにはそれがわかる。 今朝方、彼女の夢を見た。 夢枕に立ったというのではなく ごくあたりまえにそこにいて あの輝くような笑顔でぼくを見つめていた。 ぼくらはあのころのように会話を交わし ちょっとしたことでたがいに笑い転げた。 ぼくも彼女もちっとも歳をとっていない。 そうだ これは精神世界での出来事なのだ ぼくにはそれがわかっていたが 夢に身を任せずにはいられなかった。 ぼくが覚醒すれば彼女は消える。 彼女が覚醒すればぼくが消滅する。 たがいに相手の存在を捉えたときにだけ ぼくらはいまのように再会することができるのだ。 久しぶりに娘と同じ年頃の彼女と会った。 ほんとうに娘とうりふたつだ。 なにもかもがそっくりだ。 もちろんまったく異なった人格なのだけれど 身にまとったオーラというかそのたおやかさが ぼくを混乱させるほどに同質なのだ。 今日の写真:"Lights on the wall" 160809-DSC03353-C1p from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.15
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2016/08/13 土曜日 風はどこからやってくるの? と娘に聞かれた。 標高1800mに届こうという 亜高山帯にあるペンション村を散策していると、 遠くで風の音がする。 ふたたび静寂が訪れる。 われわれの足音と、衣擦れの音、呼吸・・・ それ以外はなんの音もしない。 突然一陣の風が吹き抜ける。 森の木々をたわませ、黄葉を吹き飛ばし、それは去っていく。 ゴーともザーとも聞こえる音を残して。 しかしその肌触りはやわらかく、 ここちよい残像として 心に何かを刻んでいく。 それは遠い日の想い出かも知れない。 娘にとっては 幼い頃始めて感じた風の感触かも知れない。 風はどこからやってくるのかを答えるのは優しいことではない。 というのは、 じつは、風は最初からここにあるからだ。 風はやって来るのではなく、 ぼくらひとりひとりの内なる世界にある。 それがあるとき 風というかたちを成してぼくらを吹き抜ける。 風はいつでも いま ここに ある。 《本当の自分》が いま ここに ある 限り。 今日の写真:"風/Summer Wind" 20130924-IMG_2896-2 d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.14
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2016/08/13 土曜日 お盆は祭りなんですね。 このある種の熱狂、 このようにマイルドな ゼネラル・ストライキ(general strike) その祭りのさなか、 私の職業は寝る時間も無い繁忙期。 まあこれも祭りと言えなくもないですが。 ありがたいことです。 お客様に感謝! 今日の写真:"夏緑/Summer Green" 160806-DSC03284-Edit-2p from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.13
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2016/08/12 金曜日 "LEFT ALONE"というタイトルのジャズアルバムを若いころよく聴いていた。 マル・ウォルドロンというピアニストの名盤だ。 彼はあのビリー・ホリデイの歌の伴奏を長期にわたってやっていたのだ。 ビリー・ホリデイが亡くなってしまってその哀しみというか不在感を歌っているように私には感じられた。 SENTIMENTALな旋律だが、決してそれだけではない強い生命力がそこにはある。 芸術に対する強い思いがそこにはある。 ビリー・ホリデイへのレクイエム… それがわたしのこのアルバムに感じるものといっていい。 今日の写真:"LEFT ALONE" 160707-DSC02824-C1 1 d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.12
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2016/08/11 木曜日 ブログのアクセス数ってどうやって決まるのだろう? 20年以上ブログを書き続けているわりには 基本的なことがぜんぜん分かっていない こまったひとだ・・・と 何時もいわれている というか アクセス数とか人気とか受けとかを まったく考えないで書いてきたから そのあたりのことをまったく学ばなかったのね ビジネス的視点から言えば初歩的段階ですでに落第 まあいいや 趣味で無けりゃ書けないよ こういうブログは 書き始めたときのタイトルの通り 「ひとりごと」なんだから 今日の写真:"ON THE WALL" 160809-DSC03360d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.11
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2016/08/10 水曜日 山麓の街にあるA・COOPで買ってきた花を撮ってみた とても美しいそしてとても良い香りがする じつはこれはドライフラワーである 冬期には氷点下20℃湿度7%にもなる 当地の気候ならではの とても品質の良いドライフラワーだ ちなみに英語では”DRIED FLOWER”である この写真が生花を撮ったものだと感じていただけたなら それはひとえに 高品質なドライフラワー作者の業ゆえである 感謝 今日の写真:"DRY FLOWER" 160808-DSC03301-6-IGJ from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.10
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2016/08/09 火曜日 コスモスが咲いた 今年の立秋は8月7日だった そのときを待っていたかのように コスモスが咲いていた 標高1700メートルの世界 今日の写真:"コスモス" 160808-DSC03318-7d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.09
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2016/08/08 月曜日 立秋の翌朝には必ず秋風が吹き それは終日続く 標高1700mの山岳地の森に 波の音が聞こえる じつは それは風が森の樹木をなぶる音なのだ 大気が冷え 陽射しが優しくなる 光線のスペクトルが変化して あらゆるものが鮮やかに見え始める 空気の密度が変わり 様々な音が豊かな音色になる ふと気づけば 森の樹木の葉が濃緑から 黄緑色に変わり始めている 今年も 立秋とともに きっぱりと秋になった 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 今日の写真:"風立ちぬ" 2016-08-08 07.17.36-2d/iPhone 6 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.08
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2016/08/07 日曜日 映画の「フィルム・ノワール」などと言うまでも無く 暗めのトーンの写真が好まれるのはなぜだろう ずうっと考えているけれどどうにもわからない いくつか思い当たるところはあるのだけれど… ということで たまには思いっきり明るいトーンで撮ってみる なにせ夏真っ盛りですから 今日の写真:"SUMMER BREEZE" 160805-DSC03254-6insg from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.07
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2016/08/06 土曜日 階段の窓から射し込む強烈な午後の陽射し それが描くファンタジックなアートに気づいて カメラを持ちだして撮ってみた 今日はなんだか暑く感じたけれど 気温は朝8℃、昼20℃程度だった いつもより湿度が高めだったのかも知れない お客様はそれでも「寒い」とおっしゃっていた 今日の写真:"Lights Down Stairs" 160730-DSC03145-C1d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.06
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2016/08/05 金曜日 試行錯誤すること3年 ようやく自分なりのひとつのトーンを 見いだしたような気がします 発見したということでもなく 出会ったと言うことでもなく 辿り着いた、行き着いたという感じ まだファーストステップなのはわかっているけれど ちょっとうれしいです 今日の写真:"タルコフスキー的な…。" 160801-DSC03170-7d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.05
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2016/08/04 木曜日 今日も朝から晴れましたが 午後になると曇り始め 一時の激しい雷雨 まあこれは「夕立」と言ってもいいでしょう 今夜は晴れの予報です すっかり真夏の気候になった 最低気温8℃、最高気温18℃ これが蓼科高原・標高1700メートル 私の暮らすペンション・サンセットの気候です 今日の写真:"コバギボウシ(小葉擬宝珠/学名:Hosta sieboldii)" 160804-DSC03232-C1 d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.04
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2016/08/03 水曜日 昨夜はかなり本格的な雷雨でしたが 朝にはスッキリと止んで 美しい雲海を見下ろしながら バッハのゴールドベルグ変奏曲を聴く 蓼科高原・標高1700mです 今日の写真:"雨後の朝" 2016-08-03 07.52.34 insg from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.03
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2016/08/02 火曜日 朝からとても良い天気で これは天気予報は大はずれだったなあと 思っていたのですが 午後から急に曇って その後は大雨警報が出るほどの雷雨になった まあ、蓼科では雷雨は夏の風物詩なので 別段異常では無いのですが しょっちゅう大雨洪水警報なんて地域の方は大変 心よりお見舞い申し上げます しかし 蓼科高原に限って言えばこれは本来の夏の気候です 激しい夕立は山の健康の証といっても良いほど それによって 積乱雲→雨→晴れ→水蒸気→積乱雲→雨→晴れ というサイクルが成立して とても夏らしい健やかな気候になるのです 本来の夏の気候なら激しい夕立の翌朝は必ず晴れるのですから まだそのような聴こうには遠いかも知れないけれど これはむしろよい兆候かも知れない 今日の写真:"窓辺にて" 160730-DSC03142-5d from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.02
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2016/08/01 月曜日 8月ですね 昨夜からの雨も止んで 朝から快晴 こんなに明るい こんなに爽やか こんなに健やか こんなに涼やか カラッと涼しい蓼科高原 今日の写真:"今日の眺め 20160801" 2016-08-01 12.18.00-2d/iPhone 6 from 蓼科高原ペンション・サンセット
2016.08.01
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