世の中には、泣きたいから映画を観に、映画館まで足をはこぶ人が少なからずいるわけで、それはそれで否定するつもりはない。
ただ、いい年をした大人はともかく、若い人が古き良き時代などといってノスタルジーに浸るのは、あまり健康的ではないのではなかろうか。
どちらかというと退廃的ではないのか・・・。
この作品を巡っては、お門違いな批評も見られるが、そう目くじらを立てるほどの物でもあるまい。
そもそも、この作品から啓蒙的なテーマを生真面目に引き出し、論じようなどと思わないほうが良い。テーマを論じようとするから、「お金よりも大切な物があるじゃないか!」という茶川の台詞に青臭いだの、甘いだのと過剰な反応が起きたりもするのだが、山崎貴監督にその手の批評は届かないだろう。
若い人は知るよしも無いが、大阪に吉本新喜劇や松竹新喜劇があるように、昔は東京にも、「デン助劇団」という浅草喜劇が存在していたのである。
『続・三丁目の夕日』の舞台となった昭和34年からは毎週1回、10年の長きに渡って現在のテレビ朝日で、その舞台が生放送されていたのである。
その舞台を大人も子供もテレビの前で噛り付くように観ては、泣いたり、笑ったりしていたのである。
1時間程度の上演時間に笑いと涙を凝縮させ、しかも見事なまでの予定調和とハッピーエンド。
もちろん、テーマが安直だとか、人物描写が不十分などという者など誰もいない。
それはそうだろう。テレビの画面の中で繰り広げられている舞台は、歌舞伎や新派や新劇ではなく、大衆演劇なのだから。
それでもケチをつける輩はいるにはいた。その当時の言葉で言い表わすなら「ハイカラ」な人々である。
しかし、それは野暮である。なぜなら、「天ぷら屋」に入って、「トンカツ」を喰わせろといっているのに等しいからだ。無いものねだりである。
この続編の中でも、成城からやって来たミカが、鈴木家のすき焼きを見て、「これはすき焼きじゃない!牛肉じゃなくて、豚肉じゃない!」と叫ぶ象徴的なひとコマがある。
先ほど、山崎監督にはその手の批評は届かないだろうと書いたのは、この作品が、「デン助劇場」のドラマツルギーをなぞるように造られているからなのである。
その時代には、その時代が要請するものがある。時代の雰囲気といってもいいし、大袈裟にいうなら時代精神というやつだ。
高度成長期初頭の昭和は、平成の時代ほどには複雑ではなく、むしろ単純であったのだ。
山崎監督は、『三丁目の夕日』を撮るにあたって、東京ではすたれてしまった大衆演劇の骨格を模倣することを選んだのである。
泣かせどころになると、必ず流れる、あの耳にこびり付いて離れないメロディーは、大衆演劇のメロディーその物といえる。
茶川は、ふたこと目には「純文学はな・・・」と口にはするが、実際この映画の中には純文学的要素はひとかけらも存在しない。
それは、茶川が書いている文章がおよそ純文学とは程遠い通俗的な文章であることでも分かるだろう。
最新のCG合成と手作りのミニチュアセット。そしてオープンセット。
それらが作り出した空中楼閣に、蜃気楼を塗りたくったのが『三丁目の夕日』なのだ。
もちろん、この映画が特筆すべき名作だとか傑作であると主張するつもりは無い。
しかし、間違いなく愛らしい作品には仕上がっているのである。
日本映画が元気だった頃に量産されたB級喜劇映画の手触りを感じさせてくれるのだ。
老若男女で満員の映画館に湧き起こる笑いとすすり泣き。
その熱気と吐息は、映画が大衆娯楽の王様だった頃の記憶を蘇らせてくれる。
確かに、東宝ではなく、松竹が製作していたなら、より良質のホームドラマに仕上がっていたかもしれないし、(しかし、松竹では冒頭のゴジラシーンは観れないが)、亡き相米慎二監督なら子供たちの顔をもっと魅力的にキャメラに収めてみせただろうし、『愛を乞う人』の平山秀幸監督なら、カラーとモノクロを巧みに操ったかもしれない。
都電だけではなく、トロリーバス(路面バス)も走らせて欲しかったし、劇中にインサートされた石原裕次郎の映画場面も悪くは無いが、映画の中で映画が流される手法がありふれた光景になってしまったいま、大衆演劇を劇中劇で流した方がよりこの作品らしさを演出できたのではないだろうか等など。
こんな風に、欠点をあげようとすればキリが無いかも知れないが、惜しい・・・といわせるだけの魅力は十分溢れている。
実際、『HERO』やら『象の背中』など、どうやっても魅力的な作品には仕上がるまい。
そんな、『三丁目の夕日』と観客はどう付き合えばよいのか?
その答えは、作中の人物が握っている。三浦友和演じるタクマ医師である。
娘が好物だからと、土産に包んでもらった焼鳥を片手に家へと返る途中、彼は酔いつぶれて寝てしまう。
空襲で失った、妻と娘の幽霊を見たタクマは、焼鳥が平らげられているのを見て、狸に化かされたのだと思い込む。
この1作目の挿話が続編でも繰り返される。
林の前で焼鳥を手に、狸を誘き出そうとするシーンである。
失った物(過去)に注がれる郷愁と愛着。その視線は、観客の目線でもあるのだ。
つまり、タクマが狸に化かされたいと懇願するのと同様、1作目に化かされた観客は、また化かされたいと映画館に足をはこぶ。
だが、この続編では、タクマ医師はふたりに逢うことは出来ない。
1作目で、茶川の漫画小説を読んで感動した淳之介と、淳之介の小説を読んで感動した子供たちと同じように、続編では茶川の書いた小説に鈴木オートはじめ、町内の大人たちが感動する。
だが、茶川の小説も芥川賞の最終選考に残りはするものの、落選してしまう。
前作では許されていた楽天性の喪失が、時代の変化を微かに予感させているのである。
〔了〕
『オー・ブラザー!』 映画批評 2009年06月14日 コメント(1)
『プロヴァンスの贈りもの』映画批評 2009年06月07日 コメント(4)
『海の上のピアニスト』 批評 2009年05月31日 コメント(2)
PR
カレンダー
コメント新着
フリーページ