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蘇州研修2日目は同行の齋藤孝浩さんが終日担当、私はひと足先に次の目的地広州へ向かいました。蘇州のホテルから上海虹橋空港までは佐吉コンサルティングの金さん運転で移動。虹橋空港で金さんは部下に車を手渡し、私たちはチェックインカウンターに。ところが金さんに電話が入り、彼は慌てて降車した場所に戻っていきました。何と蘇州から虹橋空港まで金さんは車のキーを差し込むことなく、スマホだけで運転してきたのです。部下のスマホでは車が動かない、金さんはリュックサックの奥にしまってある車のキーを渡しに行ったのです。この間たった5分くらいの出来事、しかし駐車違反の切符を切られました。キーなしでEV車を蘇州から長距離運転していたとは驚きです。広州空港では私を招聘してくれたアパレルメーカーの社員が大きな花束を持ってお出迎え、空港で花束なんて初めての経験、照れくさかったです。空港から市内に向かう道路は美しい花壇が続き、市内に入ると今度は道が狭く車線は描いていない凸凹の道、昔から交易で栄えた歴史ある町ですから昔の道路幅のままというのも少なくありません。創業祭では永続勤務表彰も行われたちょうどその日はアパレルメーカーの創業祭、社員たちは部署ごとにかくし芸を披露し、会社から臨時ボーナスや永続勤務の発表もあってかなり盛り上がりました。勤続20年の社員食堂コックさんにも感謝のハグと記念品が社長からプレゼントされましたが、ややもすると陰の存在になりがちな人にまでちゃんと大勢の社員の前で感謝する、いい会社ですね。翌朝は広州市内の店舗視察。同行する社長や幹部たち10名ほどに什器台数やその形状、マネキンに着せる服の飾り方から定数定量管理まで気がついたことを売り場で指導。ファッションビルやショッピングモールの大型ショップのほかに、歴史的建造物の小型ショップがユニークでした。地元の美術大学の学生にスペースを解放し彼らの作品展示をしたり、半世紀以上前はこの場所は有名な写真館だったそうで、若いお客様がレトロな雰囲気の中で記念撮影していました。古くからの繁華街の目抜き通りにある「北京路225ビル」その上層階にあるギャラリースペースかつては有名な写真館だったビルでブランド創業者とそして次の日の午前中は幹部と海外戦略に関する意見交換、午後は社員150名にセミナーでした。午前中の幹部たちとの意見交換では、創業から29年間取り組んできたことが説明され、海外戦略について社長から構想が発表あり、これについて私はどう思うか意見を述べました。海外展開でキチンと収益をあげるのはいかに大変か身にしみているので調子のいい話はせず慎重に進めた方が良いとアドバイス。一昔前と違い、ネットで通販も発信もできる時代ですから、海外主要都市の一等地に店を構える必要はなくなり、場合によっては家賃の安い裏通りでもビルの上層階でもビジネスはできるとも申し上げました。すでにオーストラリアやシンガポールに出店しているので海外出店を加速させたいのでしょうが、海外は簡単ではないので慎重に計画を立てる方がいいでしょう。午後は本社スタッフに向けてマーチャンダイジングの基本を説明。どういうお客様に向けて、どんな商品を企画し、これをどのように売るのか、そしていくつ販売するつもりなのか仮説を立てて仕事しましょう、とこれまで日本で教えてきたことを3時間ほど講演。最後は質疑応答でしたが、空間演出担当の若手社員と私とのやりとりに創業社長がイラつき、その社員に私が指摘した高すぎるハンガーラックを再検討するよう指示していました。什器の高さが高いのは什器製造メーカーに押し切られたらしく、社長はそんな仕事の仕方ではダメ、しっかり話し合って再考するよう命じました。セミナーの質疑応答で講師から指摘のあった問題点を社長自らすぐ現場に改善の指示を出す、このスピード感がいいですね。この会社は自社工場でアパレル製品を生産し、自分たちの直営店で社員が販売している製造小売業。もっと上質な商品を開発して海外に販路を広げたい意向ですが、社長と社員の間の距離が短く、幹部の意思決定はスピーディというところが業績を伸ばしてきた要因でしょうね。社長ら幹部は昨年10月東京での社員研修、12月の杭州市での業界セミナー、そして今回の広州本社での研修と意見交換と短期間で三度も私の話を聞いてくれました。やる気のある経営者の会社、当方もセミナーのやりがいがあります。
2024.03.11
1993年の年の瀬、ジャンポール・ゴルティエを発掘した元オンワード樫山パリ所長の中本佳男さんは短期帰国中に都内の病院で急逝、ホームグラウンドのパリには戻れませんでした。葬儀はオンワード樫山の仲間たちが仕切りました。選考委員の一人として私もお手伝いしてきた原口理恵基金「ミモザ賞」、本当はご存命中に中本さんを表彰したかったのですがそれはかなわず、表彰式は奥様が故人に代わって出席なさいました。原口理恵さん原口理恵基金とは、高島屋、レナウン、旭化成、伊勢丹、松屋などで活躍されたファッションディレクター原口理恵さん(1910〜1987年)の葬儀に集まった業界重鎮たちが、香典代わりに資金を出し合って発足した会でした。原口さんが大好きだった花に因んで「ミモザ賞」、原口さんのようなファッション流通業界の功労者を表彰して世間に知らしめることを目的に始まりました。原口理恵さんが高島屋時代に面接採用した当時の若手デザイナーがなんと芦田淳さんと聞いていますから、我々よりかなり年長の方です。旭化成ではベンベルグの普及に務め、そのときコマーシャル制作に関わっていた宣伝部員が退職後コムデギャルソンを立ち上げる川久保玲さん。旭化成はフジテレビ系列の長寿トーク番組「スター千夜一夜」の冠スポンサー、そのコマーシャルを制作していたのが伝説の天才C M作家杉山登志さん、そのスタイリストが小室知子さん、のちに三宅デザイン事務所の創業パートナーです。ほかにも伊勢丹研究所ディレクターや初期のマリクレール・ジャポンの編集でも活躍した小指敦子さん、旭化成FITセミナーをずっと主宰した尾原蓉子さん(のちにIFIビジネススクール学長)、ニューヨークのFITを卒業して帰国した杉本明子さん(のちに伊勢丹ニューヨークオフィス、松屋の東京生活研究所ディレクター)、高島屋ファッションコーディネイター福岡英子さんは旭化成時代の仕事仲間あるいは部下。さらに、その当時企画を手伝っていたのが後年資生堂ザギンザの設立に関わった殖栗昭子さん(のちに東武百貨店常務)でした。原口さんゆかりの方々はファッション黎明期のかなり濃い(?)メンバーです。ネット検索で「監修:原口理恵」の表記があった旭化成の広告原口さんが小指敦子さん、殖栗昭子さんを連れて旭化成から伊勢丹に移籍した頃、伊勢丹研究所は全盛期で人材の宝庫、取引先アパレルメーカーや伊勢丹の男性社員はパワフルな女性陣に相当しごかれたと聞いています。原口さんは晩年フランスでのんびり暮らしたいと伊勢丹研究所を辞めて一旦はパリに移住されました。ところが、伊勢丹での同志とも言える山中専務が単身松屋に移籍と聞いて帰国を決断、山中社長の下で松屋にも伊勢丹研究所のような商品研究やトレンド情報分析機関を作る準備をされていました。松屋の東京生活研究所が正式に発足する寸前、残念ながら原口さんは急逝します。相談相手を失った山中社長は代わりになりそうな人物を探し、ひょんなことから私は「相談相手になってくれないか」と山中さんから社長顧問就任を要請されました。東京ファッションデザイナー協議会を運営しているニュートラルな立場の人間です、特定企業の顧問は無理とお断りしたら、「時々食事に付き合ってくれないか」と言われ、ここから山中さんとの付き合いが始まりました。山中さんとのことは後日詳しく書きます。山中社長からの最初の相談は原口さんの名前をどのような形で残すのが良いか、でした。松屋の山中社長、蝶理の今野社長(その前は旭化成副社長)、伊勢丹の小柴専務(のちに社長)らが出し合った基金を活用して原口理恵さんの名前をどう残すか。私はほぼ同じ時期に毎日ファッション大賞の鯨岡阿美子賞設立構想を毎日新聞と練っていましたが、原口さんのような地道に人を育てた功労者をみんなで探し出し、表彰式で受賞者インタビューもしくは討論会を開いて流通業界に受賞者の仕事やその価値を知ってもらってはどうでしょう、と提案しました。もちろん鯨岡賞との線引きを前提に、です。原口さんのお名前はいろんな方から伺っていましたが、私は直接お会いしたことがありません。皆さんの話から想像するに、ご自身はリーダーでも一歩下がって部下たちを立てる優しいお人柄、決して「私が、私が」と自ら前に出たがる方ではなかったそうです。そのイメージで功労者を探しましょう、と。最終的にどなたがキャッチコピーを考えたのか忘れました(私ではありません)が、ミモザ賞の対象者は「真のファッションの担い手たち」となりました。ミモザ賞10年記念本1989年第1回は京都服飾文化研究財団「華麗な革命展」で衣裳修復を担ったレストアラー(修復師)の皆さん、その後はニューヨークのパーソンズ・デザイン学校で多くのファッションデザイナーを育てた並木ツヤコ先生、日韓デザイナー交流に尽力した韓国のファッションプロデューサー李載淵さん、西表島で伝統的な織物を創作する石垣昭子さん、八王子のテキスタイルメーカーみやしん社長の宮本英治さん、求龍堂から出版された大著「ヴィオネ」に関わった成瀬始子さん、東海晴美さんらがミモザ賞で表彰されています。その中の一人が故・中本佳男さん、この人の存在なくしてゴルティエの成功はなかったという評価でした。ミモザ賞は1989年から10年続き、最後は10年間の全受賞者を1冊にまとめ(写真上)、基金の残りは山中さんが理事長兼学長だったファッション産業人材育成機構に寄付して終わりました。1999年、山中さんは東武百貨店社長を根津公一さんにバトンタッチされたあと亡くなりました。山中さんあってのミモザ賞運営、終焉は仕方なかったと思います。自分が編集責任を担当しながら、ミモザ賞10年の本は書棚の山に埋もれてしまって見つかりません。近々書棚を整理して読み返してみたいです。参照:https://harumi-inc.com/vionnet/tokai-harumi-interview/
2022.09.05
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