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包石(つつみいし)。福岡県と佐賀県の県境の海岸にあり。伊能忠敬も「測量日記」で触れている。唐津の窯業の歴史を研究している人あり。その人は、中里紀元さん(75歳)。中学校で33年間、教師を務め、63歳で佐賀大学の院に入り、古唐津の流通史を勉強、修士論文を書いた。窯業クラブの顧問。人気のあるクラブだったが、唐津焼が朝鮮から渡来したことに、「残念だ」という声。朝鮮をさげすむ見方に心を痛めた。_________________________________________今日で、この「唐津街道を行く」シリーズは終わりなんざんしょうか?新聞には、最終回とも、終わりとも書いてありませんでしたが。登場人物に会う旅を思い立ち候。本日は、原町の真武さん(33歳)に会いました。そば「たからい」を営まれてます。順次、会っていこうと決意。河島悦子先生にも、FAXにて新聞の御礼、近況報告をさせていただきましたら、即、お電話頂きました。かえすがえす、河島先生には、感謝感激です。大好きです。敬愛しております。
2007年12月22日
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旧若宮町(現宮若市)教委の資料などによると、別館は1864年、米英仏蘭の4カ国による長州攻撃を危惧した同藩家老の加藤司書(1830~65)が、有事の際に藩主をかくまおうと、福岡城から遠く離れた犬鳴山に建設を命じたとされる。だが、64年8月に4カ国と長州藩の講和が成立し、外国から侵攻される恐れは沈静化。このため、勤皇派のリーダーだった加藤に不満を抱く佐幕派が「藩主を幽閉するために築城を画策した」と加藤を攻撃。勤皇派は約140人が逮捕され、加藤ら7人が切腹、14人が斬首になった。別館はその間、建設が一時中断したが、65年に藩主の休憩所である御茶屋として完成した。 同市宮田の郷土史研究家、福田康生さん(59)は、「勤皇派のトップだった加藤の死が福岡藩が明治維新に乗り遅れた一因。別館は政争の具にされたといえ、福岡藩末期の混迷ぶりを今に示す貴重な遺産」と指摘する。 別館は1884年の暴風雨で倒壊したとされ、建物は残っていない。跡地には石垣や城門の石段などが残っているが、人が立ち入れないほど雑草が生い茂っている。
2007年12月19日
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「綿屋出店」の有田和樹さん(27)、前原宿研究所解体機レンタル会社の油機エンジニアリング社長・牧田隆さん(58)、1901年に建てられた家屋をリフォーム、古材の森・前原店。ランチを出すほか、屋敷を公開して週末ライブも開いている。「今は古材の在庫管理をする一方、古老に聞き取り調査をして前原宿の歴史を研究している。」唐津街道前原研究所というブログをたちあげ、歩く会のガイドもする。企業(油機エンジニアリング)が文化活動を支える「小さなメセナ」が進行中だ。______________________________________ということで、この唐津街道シリーズに出ている人たちに会ってみたいですね。いつか、暇を見つけて、日本経済新聞の編集委員・須貝道雄さんが会った人たちに会いに出かけるか?
2007年12月16日
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福岡市の中心部は那珂川を境に二つに分かれる。東は中世からの商都・博多、そして西は江戸時代になって整備された城下町の福岡だ。商人の街と武家の街とでは肌合いが異なり、かつては対立感情もあった。 旧唐津街道沿いに「ビストロ・シェ・ラパン」という小さなフランス料理店がある。繁華街の天神に近く、立地は福岡だ。しかし経営者でシェフの神屋浩さん(54)の先祖は有名な博多商人。10数代さかのぼると、豊臣秀吉と深い結びつきのあった豪商、神屋宗湛(1551~1635)にたどりつく。 「最後は空襲で焼けたが、宗湛の屋敷は博多にありました。今の博多小学校の敷地は宗湛の屋敷跡です。近くに神屋町という地名を市が残してくれてます」と浩さん。墓は博多の妙楽時にある。 1587年、大阪城での大茶会で、秀吉は宗湛を「筑紫の坊主」と愛称で呼び、大名や堺商人の居並ぶ中で特別に優遇したことが『宗湛日記』に記されている。宗湛は秀吉の九州平定や朝鮮出兵に協力する一方、博多を堺と同様の自由な町人都市として認めさせるなど、茶会を通じて秀吉の懐に入り込んだ。 「まあ武器商人でもあったわけですが」と浩さん。秀吉の死後、福岡城を築いた黒田家・福岡藩と宗湛の関係は冷え込む。以後は目立たぬ存在となり歴史の表舞台から消えてゆく。 神屋家が豪商になったのは宗湛より2代前の神屋寿禎の蓄財も関係する。寿禎は島根県・石見銀山の開発者としてしられ、銀の産出で巨万の富を築いたといわれる。加えて宗湛の大陸貿易。それらの富は明治期まで、子孫の生活を支えたという。 浩さんは30代半ばから、周囲の助言もあり、宗湛の時代の食べ物、茶会に出た料理の復元に力を注ぐようになった。『宗湛日記』には茶会の様子が克明に描かれ、供された料理や使った器までもわかる。 「料理人ですから関心がありました。日記を読んで、昔の料理は僕が学んだフランス料理と同じ考え方だと思いましたね。つまり地産池消。その地域にないものは食べないんです」。頻繁に出てくる食材はウズラやツル、白鳥の肉で「鳥をよく食べていた」。 雑誌の企画で作った復元料理「宗湛の食膳」では桜ダイの塩焼きやレンコンのクルミアエ、」アワビの酒蒸しを並べた。店では7~8人のグループで予約があれば、和洋折衷の復元料理を出している。「歴史が好きな人から年に数件は予約が入る」 うれしかったのは5年前、博多小学校から食育の講演を頼まれ、祖先の地にたったことだ。校長から宗湛屋敷跡の説明があった後、小学生に博多の雑煮の話をした。「これからは食育の分野で、子どもたちにもっと教える機会を増やしたい」。料理人としてやる気がわいた。 神屋家の家訓に「茶の湯はするな」があるという。政治と癒着するもとになったからか。宗湛の反省がこめられているのかもしれない。しかし浩さんは祖先の重さに動じることなく、ひょうひょうと料理の道を歩む。博多の人の軽快さと粘り腰のようなものを感じた。
2007年12月12日
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久しぶりで。城山に上った。夏休み以降、たったの2回目。前回は2回も頂上までに休憩を取った。今回は1回休憩を取った。いつも上っていたら、休憩なしで25~30分で一気に頂上に到着するのに。わが母も今年2回目の城山登山、83歳。すごい!私も、83歳で挑戦しなくてはならない。___________________________________________________昼は、我が先祖の妹が嫁いだ先を探索。植木村の本松平次郎、明治44年に59歳の生涯を終えているようだ。町会議員。彼に、明治21年、嫁いだセイを探しました。私が訪ねた本松家の過去帳には、平次郎明治44年に59歳の生涯。しかし、セイについては、明治23年行年63歳となっている。また、本松太三郎の義母となっている。これは、おかしい?変だ?どなたか、植木村の本松平次郎を知りませんか?他の親戚はかなり古く付き合っているのに、たかだか、8親等くらいで付き合いを止めているのも府に落ちません。隣の宿場町、赤間~植木・木屋瀬、
2007年12月09日
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どうして人は歴史に興味を抱くのか。歩きながら考えた。 北九州市で会った元職員の加藤芳人さん(78)は北九州史跡同好会の会長。30数年、史跡巡りを続けている。「きっかけは近くの山で中世の城跡を発掘している人を見たこと。面白そうなので弟子入りした。40代半ば、仕事のストレスがたまっていた時期だったので、いい興味になった」と話す。 図書出版のぶ工房(福岡市)の編集者、遠藤薫さん(53)の場合は、9年前に長崎県大村市で開かれたシンポジウムが契機になった。テーマは小倉と長崎を結んだ江戸期の道、長崎街道。仕事でポスターやチケット類のレイアウトを担当した。 福岡県中間市出身の遠藤さんはシンポ後に中高生時代に通学で歩いた道が、実は長崎街道であることを知る。「あの道を昔、象も通ったのか」。時代は異なっても江戸期の人々と空間を共有できた気持ちになった。旧街道に関する取材と出版に力を入れ始めた。 いずれも旧跡が生活圏の中にあり、身近であることが共通している。もう1つ、「空間の共有」という言葉が印象的だ。現代的な店舗・ビルの間から見える山や海、島影は何百年か前の姿とあまり変わらない。その景色を眺めた昔の人々と共通の感慨を持つ。そこに歴史の奥深さを発見するだろう。 畦町(福津市)、青柳(古賀市)を過ぎて唐津街道はいよいよ福岡市の箱崎宿跡に入る。長さ9百メートルの参道が博多湾の海辺に達する箱崎宮の前に着く。桜門に「敵国降伏」の変額。穏やかな言葉ではない。16世紀の末、筑前領主だった小早川降景がこの桜門を寄進した。ちょうど朝鮮出兵のころだ。 福岡市に来ると、豊臣秀吉の影が急に大きくなる。秀吉は1587年、九州平定の岐路にこの箱崎に滞在、バテレン追放例を出したのは有名だ。長崎で26人のキリスト教徒が処刑されるのはその10年後になる。 同市教育委員会で36年間、文化財にかかわった塩屋勝利さん(63)を訪ねた。高校生まで長崎県の壱岐で暮らし、周りは古墳だらけだったという。「子供のころは横穴にもぐってよく遊んだ」。そんな体験が考古学専攻へと結びついた。九大を卒業後、市職員となり、志賀島で発見された国宝・金印の研究に力を注いできた。 そして20年前のクリスマスの日を迎える。平和台球場の野外スタンド改修工事に伴い、市が発掘調査をしたところ、柱の穴や、かわら、陶磁器が多数出土。飛鳥から平安時代にかけ、大陸からの外交使節を迎えた古代の迎賓館「鴻臚館」とみられる遺構が確認されたのだ。 「あれからすごく忙しくなってね」と塩谷さん。年明けの遺跡公開日には7千5百人の市民が詰めかけ、まさに鴻臚館フィバー。海外との交易窓口・福岡を象徴する遺跡となった。 今は金印をめぐっても地元は熱を帯びつつある。11月初めに志賀島歴史サークル「金印」が「金印、『漢委奴国王』の真実に迫る」と題してシンポジウムを開催、約4百人が集まった。真贋論争も含めて島おこしのテーマにしようとしている。
2007年12月07日
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北九州市・戸畑から洞海湾を挟んだ対岸の若松へは市営渡船がある。6百メートルを3分で結ぶ。古い戸畑の待合所はまさに「昭和」の雰囲気。壁に一枚のポスターがはってある。若松出身の俳優、天本英世さんを記念する映画祭の案内だ。開通近い若戸大橋を舞台にした1962年の映画「海猫が飛んで」を老舗料亭で上映する企画。静かに町おこしが進んでいるようだ。 唐津街道はやて舟運でにぎわった遠賀川にぶつかる。全長64キロの川が運んだのは時代の富だ。江戸から明治にかけ、米や筑豊の石炭が底の浅い木造船「川ひらた」で河口の福岡県芦屋町や、堀削水路の堀川を通じて若松に運ばれた。最盛期には川ひらた7千隻が行き交い、芦屋では船づたいに足をぬらさず川の向こう岸に渡れたといわれた。掘り出した石炭は焚石と呼び、福岡藩は芦屋に焚石会所を設け、売買の統制をした。 若松から芦屋まで、同行の半田記者が歩数計で計ったら約3万8千歩、距離で25キロに。少々疲れ気味で訪ねたのが町営施設「芦屋釜の里」だった。 芦屋釜と聞いてピンとくるなら茶道に詳しい人だ。茶の湯釜の名器で、室町時代にもてはやされた。現在、国の重要文化財に指定されている茶の湯9点のうち8点は芦屋釜が占める。芦屋は250年近く鋳物師の街として栄えた。しかし、この釜は江戸時代初期にこつぜんと消える。製法も伝わっていない。 芦屋釜の里は釜の歴史を展示しながら、工房で若い鋳物師を養成。「芦屋釜の復興」をめざしている。学芸員の新郷英弘さん(31)によれば、35歳の工房長が町の嘱託職員としてすでに10年間、鋳物づくりを続け「あと5年した独立し、町内に工房を持ってもらう計画」。もう1人は大学院で鋳金を勉強した26歳の男性。鋳物師になりたくて職員公募に応じ、工房で毎日働いている。 ベテラン鋳物師の指導のもと、工房が力を注いだのは室町期芦屋釜の復元品の製作だ。重文の釜を実測し、製法を研究。6年間で4点を復元した。「本物の釜はとても薄く、厚さ2ミリを達成できず3ミリがやっとだった。今春、ようやく1点だけ2ミリのものができた」と喜ぶ。 1469年に芦屋の鋳物師が製作した釣り鐘に、対馬市厳原町の金(重文)がある。天女やハスの花の飾りをあしらい、当時、朝鮮半島で作られた装飾の多い鐘と似ている。「朝鮮の鐘は室町の人々のあこがれの的だった。願主の希望により、和鐘の作り方で朝鮮鐘を模したのだろう」と新郷さん。響灘の向こう大陸からの文化の風を鋳物師たちは肌で感じていた。 一方、町営「芦屋歴史の里」で学芸員をしている山田克樹さん(45)は考古学の側から芦屋釜にアプローチする。忘れられないのは94年。役場に近い金屋敷跡から、霰地紋の鋳型片を見つけた。釜の製造を裏付ける貴重な遺物だ。大学で考古学を専攻後、タウン誌づくり、書店の店長などを勤め、30歳にして初めて町の文化財担当の職を得た。その直後の発見だっただけに感慨は大きい。「芦屋は掘れば何かが出てくる興味あふれる地」と意欲を燃やす。
2007年12月06日
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おえべっさんって、知ってはりますか?えびす座、恵比須座、蛭子座、えびすさん、いろんな言い方がおます。わては、今年は原町のえびすさんと、底井野のおえべっさんに行ってまいりやした。原町のえびすさんは、12月1日。2番座(3時半ごろ)で、20人。1等賞を射止めて、米1キロが副賞です。1500円の参加料、お払い、福引、お雑煮。底井野のおえべっさんは、12月3日。10番座(5時ごろ)に出て、5~6人でしたが、最後の座でしたので、加勢の人も途中参加して、皆で何度も、「エー、パンパン、エーパンパン」と、叫んでは、手を叩きました。ここは、個々人が音頭を取る、各参加者がリーダーになれる、全員参加のおえべっさん。底井野は、筑前の殿さんが江戸へいかっしゃる時に、利用した宿場町。唐津街道でもなし、長崎街道でもなし。赤間から黒崎に行く、その間にあります。おえべっさんの参加料は、各人次第。謝礼または寸志で包む。1時間の飲み食い。川魚のフナ料理が珍しい。私の福引は、アサリガイ。いくら包んだかは内緒。宗像市には原町のほかに赤間に「恵比寿座」があります、12月2日でした、本来は12月3日。朝3時4時から始まる習いでしたが、今年は朝6時から。母が行ってきました。御託宣を当たり候。良すぎて、隣組の初会合で、当方が酒1升を皆様に提供する慣わし。ここは、食事はなし。別にぜんざいを注文したり、個人任せ。一緒に食べることはない。1座が15~20分で終了。有名な「えびす座」は、博多では櫛田神社、若松(北九州)では、若松恵比寿神社。
2007年12月05日
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唐津街道を行く(1)北九州市の小倉から佐賀県唐津市まで、江戸時代に大名の参勤交代路として使われた唐津街道。海を隔て朝鮮半島と面する街道沿いには大陸との関係を示す出土品や遺跡が多い。古代から近代に至る北部九州と大陸とのかかわりを、街道の旧宿場を訪ねながら考えたい。出発点は関門海峡、終点は豊臣秀吉が朝鮮出兵の為に築いた名護屋城の跡(唐津市)と決めた。10月中旬、関門海峡は晴れ渡っていた。山口県下関側から北九州市・門司に向かい地下の歩行者トンネルを歩き始めた。最初に目指すのは九州旧街道の入り口である大里宿。JR門司駅に近い。地上に出て、右手に武蔵・小次郎の決闘で有名な巌流島を眺めながら、トラックがびゅんびゅん走る国道沿いを行くと、左に大里跡があった。かつて、この地は柳ケ浦と呼ばれた。大里と名がついたのは源平の戦いに端を発する。源氏優勢の中で、安徳帝と平家一門はこの地、柳ケ浦に逃れ一時的に御所(内浦)を定めた。それ以後、内裏の名が残り、江戸期に大里へ表記を変えた。大里から小倉城下までは門司往還といわれ、唐津街道は小倉が出発点になる。旧街道を示す看板は少ないが、店舗内に門司往還が走るJR小倉駅前の小倉伊勢丹は例外だ。「参勤交代往還路」の表示が歩道に埋めこまれ、昔の道筋を売り場でふさがないよう1階のレイアウトを工夫、直線の通路にしている。途中水が飲める場所もある。一方、開発されて道が消えた地域も沢山ある。それでも何とか街道をたどれるのは、歴史が好きな地元の人たちの熱心な調査によるところが大きい。今回の紀行では歴史街道を歩く会代表・河島悦子さん(70)の著した『唐津街道』と図書出版のぶ工房(福岡市)遠藤薫さん(53)編集の『唐津街道 豊前筑前福岡路』を参考にした。福岡県筑紫野市に住む河島さんは根っからの街道好きだ。50歳で団体職員を退職。旧街道のルート検索に退職金をつぎ込んだ。地理学者・伊能忠敬が残した測量日記をもとに、唐津街道や長崎街道を歩いて確かめた。木賃宿に泊まり、地元の人から聞き取り調査もした。旧街道にこだわるのは太平洋戦争末期の体験から。7歳で実家のある福岡市を離れ、親戚を頼って筑豊地区に疎開した。そこに小倉と長崎を結ぶ旧長崎街道が通っていた。お年よりは街道にまつわる昔話が好きで、それを聞くとサトイモなどをくれる。若おかみがオランダ商館の人に手を握られたとか、お女中衆は美しかったと親たちが話していたとか。「空腹だったから、おやつをもらうため何度も通った」父は病死。実家は空襲で焼け、戦後も一人で親類宅に預けられた。寂しい暮らしの中で古老の話に夢中になった。「大名行列を実際に見た人が1人いた。ひれ伏していたので足しか目に入らなかったって」。面白い。いつか旧街道を自分で確かめたい。少女の思いが膨らんだ。 九州での「お江戸日本橋」に相当する小倉の常盤橋を超え、新日鉄八幡製鉄所を右手に見ながら戸畑に到着。洞海湾が夕日に輝いてた。
2007年12月04日
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