2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
全13件 (13件中 1-13件目)
1
Today it was raining, too.In the morning it was cloudy.However, it began to rain suddenly at 1:30.I was weeding when it began to rain.I was wet completely.I had to change all the clothes at home.By the way, my mother asked me to takeher to Kaiten Zusi which serves many differentsusi which we can choose at the counter.So, from 5:45 to 7:00, I may be very busy.Don't enter my house or you will be caught by my dogs and my muscle sons.
2007年06月24日
コメント(0)
IT's raining now.This is a notorious season in Japan.For almost one month, it rains.It's a dumpty, cloudy, and rainy season.We have to live with it.
2007年06月22日
コメント(0)
今日は、昨日の確認に木屋瀬、そして直方に行ってきました。直方城跡を確認、直方市体育館の横に山があって、そこに「直方城址」という大きな石碑がありました。黒田さんが昭和何年でしたか、書かれてました。1620年ごろから、1720年ごろまで、約100年、直方藩は存在しました。船越君って、そこの家老の子孫なのかなあ?福岡藩には、いないこと確認済み。今では、何でもトレースできるから、びっくりするね。_____________________えっと、実は今日は、唐津街道の原町、畦町を見てきた。うーむ、原町、しっかり市民運動が実を結んでいる。畦町、ただ寂れるばかり。幹線から外れると、見つけること難しくなるね。
2007年06月17日
コメント(0)
北九州市小倉南区の農村地帯、そこに二天一流正統第十一代宗家岩見利男玄勝さんの道場「独行庵」がある。ここで岩見さんは弟子たちに稽古をつける。道場に入る際には、正面に飾られた宮本武蔵の肖像画に一礼し、稽古の始まりと終わりには、その肖像画の前に正座して深々と一礼する。 取材に訪れた日、道場には4人のお弟子さんたちが取材の為に集まってくれた。中村隆一さん(36)、磯部健一さん(46)、月森真悟さん(30)、そしてフランス人のコモン・ティエリーさん(49)だ。全員作務衣を着ての稽古、和やかだった道場の雰囲気は、いざ稽古が始まると一変した。 ピーンと張り詰めたような緊張感がみなぎり、岩見さんと対峙(たいじ)した弟子との間には殺気さえ感じる。この日は小太刀の稽古だ。「まず指先(さっせん)をしましょう」と岩見さんが言う。「指先」とは、打太刀(うだち)の岩見さんが振り下ろす木刀を左にかわし、小太刀の切っ先を岩見さんののど元に突きつける型だ。4人の弟子を次々に相手し、姿勢や足運びまで細かに指導を行なう。ひとつの型が終われば、車座になってさらに指導を行なう。先ほどの緊張感が少しほぐれる。次は「合先(あいせん)」の型。数少ない型を何度も何度も稽古する。「稽古とは、自分を知ること、自分に足りないところを知り、克服することだ。鍛錬すること!千日の稽古が"鍛"、万日の稽古が"錬"だ」と岩見さんは弟子たちに教える。 お弟子さんの中には人生の岐路で二天一流に出会った人もいる。師である岩見さんの人柄を「稽古に厳しくそれ以外では温かい人。技に対して妥協をしない人」と話す。 毎年数回、海外へ赴き、現地でセミナーを開いて、二天一流の稽古を行なう。海外にいる弟子は数百人にもなるそうだ。岩見さんに受け継がれた武蔵の技と心は世界中で数多くの人たちに継承されていく。 終わり
2007年06月16日
コメント(0)
北九州市小倉南区の農村地帯、そこに二天一流正統第十一代宗家岩見利男玄勝さんの道場「独行庵」がある。ここで岩見さんは弟子たちに稽古をつける。道場に入る際には、正面に飾られた宮本武蔵の肖像画に一礼し、稽古の始まりと終わりには、その肖像画の前に正座して深々と一礼する。 取材に訪れた日、道場には4人のお弟子さんたちが取材の為に集まってくれた。中村隆一さん(36)、磯部健一さん(46)、月森真悟さん(30)、そしてフランス人のコモン・ティエリーさん(49)だ。全員作務衣を着ての稽古、和やかだった道場の雰囲気は、いざ稽古が始まると一変した。 ピーンと張り詰めたような緊張感がみなぎり、岩見さんと対峙(たいじ)した弟子との間には殺気さえ感じる。この日は小太刀の稽古だ。「まず指先(さっせん)をしましょう」と岩見さんが言う。「指先」とは、打太刀(うだち)の岩見さんが振り下ろす木刀を左にかわし、小太刀の切っ先を岩見さんののど元に突きつける型だ。4人の弟子を次々に相手し、姿勢や足運びまで細かに指導を行なう。ひとつの型が終われば、車座になってさらに指導を行なう。先ほどの緊張感が少しほぐれる。次は「合先(あいせん)」の型。数少ない型を何度も何度も稽古する。「稽古とは、自分を知ること、自分に足りないところを知り、克服することだ。鍛錬すること!千日の稽古が"鍛"、万日の稽古が"錬"だ」と岩見さんは弟子たちに教える。 お弟子さんの中には人生の岐路で二天一流に出会った人もいる。師である岩見さんの人柄を「稽古に厳しくそれ以外では温かい人。技に対して妥協をしない人」と話す。 毎年数回、海外へ赴き、現地でセミナーを開いて、二天一流の稽古を行なう。海外にいる弟子は数百人にもなるそうだ。岩見さんに受け継がれた武蔵の技と心は世界中で数多くの人たちに継承されていく。 終わり
2007年06月14日
コメント(0)
自らを利する自利と周囲を導く利他への道であるとされます。自利とは悟りを開くことです。悟りを開いた上で周りを導くということです」と岩見さんは付け加える。 昔の物事を知りそれを今に生かすこと、それが稽古なのだそうだ。以前にも書いたが、兵法二天一流には基本とされる型は少ない。それは、相手の剣に応じて技を使うためで、あらかじめ相手の剣を想定するものではないからなのだそうだ。 「少ない技で稽古をすることを通じて苦難に立ち向かうヒントを得ることだ」と岩見さんは言う。 兵法二天一流は、一撃必殺の剣ではないそうだ。「相手の急所を切って、戦意をなくせばいいという剣なんですよ」。体の一部を切られるということは、それだけで相手のダメージとなる。戦いを早く終結に導く為の方法なのだろう。 岩見さんは第十代宗家今井正之信勝さんから学んだ技を広く知ってもらおうとさまざまな場所で演武を披露する。 先代からの相伝式が行なわれた小倉城公園の「誠心直道之碑」の前や毎年春に小倉北区の手向山公園で開催される「武蔵小次郎祭」の会場で、日本武道館で開かれる日本古武道大会で、さらに海外でも技を見せてきた。「二天一流を多くの人に広く知ってもらいたい」との思いが岩見さんの中にあるからだ。 手向山公園には、武蔵の没後、養子の伊織が武蔵の為に立てた顕彰碑があり、その山のふもとには、伊織から始まる宮本家代々のお墓が残されている。武蔵を受け継ぐ者として岩見さんはここを度々訪れている。
2007年06月13日
コメント(0)
本日、赤間宿探訪ツアーを引率、総勢27名、北九州市の若松区から、区の主宰で沢山の年寄りが赤間に来られた。仲立ちしたのは、「唐津街道」の著者・河島悦子さま。彼女も参加。 6月12日(火)赤間宿探訪の旅 JR教育大前 出発 10時東構え口 (痕跡不明、須賀神社のメインロード付近と推測)須賀神社 由緒不詳、石丸七社より遷宮、赤間宿の氏神は須賀神社と石丸七社、「おまさ碑」説明、 10:05~10:10 頼山陽のおかげで、宗像三偉人から全国区になった、節婦おまさ。大黒屋出身 法然寺 浄土宗、1552年開山、1969年大改築。えびす屋の墓地 宗像郡誌(昭和19年、上巻)の法然寺の項目に、「出光氏墓あり」。「赤間宿案内板」、「五卿西遷の碑」説明 ~10:20 ギャラリー丞屋 (明治後期、ブリキ屋→お茶・おもちゃ屋→ギャラリー)蛭子屋 (江戸中期、醤油・酢醸造/両替商/質屋→小売の醤油屋→履物店→教員→アパート業) 10:25~10:40 紺屋 (明治21年、生業が屋号。出光興産/新出光の創業者兄弟の生誕地、聖地)ゆめおり (明治初期、宿屋→仕立て屋→縫製工場→ギャラリー)枡屋 (明治5年、菓子卸商/菓子製造/菓子小売) ~11:00 勝屋 (江戸後期、元のオーナーは、酒造りの滝口新屋。現在のオーナーは、明治初期から、酒造りの山本勝屋。) ~11:20辻井戸 (街道に面して7つの共用井戸ありました。昭和30年代まで機能)橋口屋 (明治初期、宿屋→板金業→しもた屋)カンヴァス (大正期、野菜果物店→ギャラリー) ~11:45西構え口 ~11:50 食事は、法然寺前の「あくだいかん」にて 12時~~~12時半 午後は、おまさ墓(赤間小学校近く、佐屋峠、法然寺から自由ヶ丘に向かって1400メートル徒歩で17分)、出光佐三墓(熊越公園を前にセブンイレブンをバックにして、右斜め前方に進んで小高い山に登ること7分)などにおいでませ。 各自の自由裁量にて。
2007年06月12日
コメント(0)
昨日の日曜日、城山登山49回目を完遂。6月中に50回を完了すれば、後の半年で50回、そうすると、年100回可能かも?
2007年06月11日
コメント(0)
最初にお会いした日、本屋で『五輪書』を買い、隅々まで読みました」と岩見さんは話す。 その手には、その時購入した「五輪書」が握られている。ぼろぼろになったその本を見ながら「目次は自分で作ったんですよ、懐かしいなぁ」と目を細める岩見さん。師匠である今井さんから、何を質問されても答えられるように、細かな目次が本の最初のページに貼り付けられている。その教えを忠実に守り"くってくってくりぬいた"岩見さんの「五輪書」だ。 「剣術とは殺し合いの為の兵法です。稽古を通して人間形成する。それが兵法二天一流。『五輪書』には現代に、生きている人間の生活に通じることが書かれています」と岩見さんは話す。難しい稽古の先にあるのは"流祖武蔵先生にであうこと"そのためには、"十代宗家を守ること"が武蔵に出会う近道だと岩見さんは考えた。 「私は十代に叱られて叱られて叱られ切ったと思っています。叱られても自暴自棄になったり、先生に対して怒ったりはしませんでした。兵法二天一流を自分の物にするためには、先生の言葉を素直に聞けた。今井先生は怒ることにかけては天下一品でした。素直に怒られたことで、先生との間に信頼関係が築けたのだと思っています」。十代宗家今井さんの厳しい指導と岩見さんのたゆまぬ努力と稽古は続き、やがて今井さんの相手、仕太刀(しだち)を任されるようになった。 そして、岩見さんへ第十一代が相伝されることになる。相伝式は、小倉城公園に建立された宮本武蔵顕彰碑「誠心直道之碑」の前で行なわれた。この碑の建立には、多くの人たちの協力があった。 兵法二天一流の正統第十一代宗家岩見利男玄勝(はるかつ)さんは「武蔵先生が書いた『五輪書』は兵法であるけれど、人間形成の道である」と語る。「仏法書と同じだと思います。今の教育や経済に足りないものが武蔵先生の『五輪書』を読むことで何か方向性が見つかるのではないかと思います。"兵法とは利方への道である"という事が書かれています。
2007年06月08日
コメント(0)
二天一流は、両手で太刀を持つ型もある。「難しくなかったですか?」と素人質問をしたところ岩見さんは「空手も両方使うでしょう?別に難しいとは思いませんでした。二つ手があるから両方使ったらいいじゃない。それに、私はもともと左利きだったのかな?小さい頃、相撲を取るのが大好きでね、好きな組み手は左四つ。左の下手を取ってやぐら投げみたいに投げて必ず勝っていたんですよ。だから、私にとって右手左手という区別はないんですよ」と話してくれた。 今井さんとの出会い、入門を許された岩見さんは、週に二度稽古をつけてもらった。一度は宇佐の今井さんの元へ出向き、もう一度は小倉で事業を営んでいた今井さんが小倉にやってくる日だ。ほとんどが2人きりでのけい古だった。 武蔵が生きた江戸の時代から受け継がれた兵法二天一流はいかにして第十代から11代の岩見さんへ伝えられたのだろうか? 第十代宗家今井正之信勝さんと出会った岩見さんは、先代からまずこう教えを受けた。「武蔵先生の著書である『五輪書』をくってくってくりぬけ!道場の床を踏んで踏んで踏み抜け!とおっしゃいました。最初にお会いした日、本屋で『五輪書』を買い、隅々まで読みました」と岩見さんは話す。
2007年06月06日
コメント(0)
宮本武蔵の兵法を今に受け継ぐ岩見利男玄勝さんは、今から約30年ほど前に、師である代十代今井正之信勝さん(故人)と出会う。その出会いも武蔵に導かれるようだったと岩見さんは話す。「武蔵先生のおいで養子になった伊織さんの直系が門司にいらっしゃったんですよ。当時十三代目のご当主の方でした。そこを訪ねた折に”先祖の二天一流がまだ伝わっている”と教えて頂きまして、大分県宇佐にいらっしゃった今井先生の元を訪ねたんですよ」。その出会いこそ、岩見さんが兵法二天一流を相伝するきっかけだったのだ。 岩見さんはそれまで数々のスポーツや武道を学んでいた。幼い頃から野球と空手に熱中したが、特に空手には力を注いだ。だが、ひざの故障で空手家になることを断念。その後居合いを始めるようになったそうだ。 二天一流は、両手で太刀を持つ型もある。「難しくなかったですか?」と素人質問をしたところ岩見さんは「空手も両方使うでしょう?別に難しいとは思いませんでした。二つ手があるから両方使ったらいいじゃない。それに、私はもともと左利きだったのかな?小さい頃、相撲を取るのが大好きでね、好きな組み手は左四つ。左の下手を取ってやぐら投げみたいに投げて必ず勝っていたんですよ。だから、私にとって右手左手という区別はないんですよ」と話してくれた。
2007年06月05日
コメント(0)
宮本武蔵→岩見利生玄勝剣豪の精神と技の継承者 宮本武蔵と聞いてまず思い浮かぶのは”二刀流”の使い手だったということだろう。両手に剣を持ち、相手に挑む。そういう姿を思い描く人は多いかもしれない。だが、武蔵が後代に伝えたのは「二天一流」という兵法。その兵法を今に伝える人物を今回紹介しよう。 宮本武蔵の著書「五輪書」には、剣術指南だけでなく、その心のありさま、常の心構えを通じ、いかに人間として生きていくかが記されている。 北九州市小倉南区横代に、宮本武蔵の精神と技を受け継ぐ人がいる。「宮本武蔵 兵法二天一流 正統代11代宗家」岩見利男玄勝(はるかつ)さんだ。 晩年の武蔵は九州と深い縁があった。小倉の小笠原家に客分として迎え入れられ、島原の乱後、熊本の細川家へ招かれた。武蔵のおいで養子となった伊織は小笠原家の筆頭家老になった人物だ。 その小倉で、03年12月、岩見さんは師匠であった第10代宗家今井正之信勝さん(故人)から正統本家を相伝された。 相伝式は、小倉城に隣接する小倉城庭園内で執り行なわれた。武蔵と佐々木小次郎の巌流島での試合を仲介したのが、小倉の細川藩家老長岡佐渡。その屋敷跡が現在の小倉城庭園。二天一流の継承式にふさわしい場所だった。 岩見さんの玄勝という名は流祖武蔵の”宮本武蔵藤原玄信(はるのぶ)の”玄”と弟の10代今井宗家の”勝”から取ったもの。流祖と師匠から受け継いだものを岩見さんは、弟子たちに伝えていく。 二天一流というと、大太刀と小太刀を常に構えると思われそうだが、それは違うそうだ。岩見さんは「大太刀、小太刀、十手、棒術などがあります」と教えてくれた。意外にも、二刀での型(勢法)は5つしかないそうだ。 次回は、岩見さんと兵法二天一流、そして先代今井さんとの出会いを紹介しよう。(スポーツニッポン5月29日号)
2007年06月04日
コメント(0)
Today,it's a nice weather.I'm taking biwa to my school.The other teachers may be delighted with biwa.Yesterday, my mother and my aunt enjoyed picking biwafrom the trees.We have a land for biwa near women students' dormitoryof Fukuoka University of Education.Some people pass the land to climb Mt. Joyama.It is on the short cut for Mt. Joyama.You may have passed our land.
2007年06月04日
コメント(0)
全13件 (13件中 1-13件目)
1