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2006年09月05日
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カテゴリ: クラシック音楽
『復活』

                ~20世紀伝説~



第1章「邂逅」


1.


 第一次世界大戦が終結し、すでに二十年近くが経過していた。人類社会はその惨禍に恐怖し、軍事力を正義とする帝国主義は、ようやくその力を弱めたかに見えた。

 しかし、ワイマール体制下の ドイツ では、あまりにも重い賠償金の負担などからくる慢性的な不況から、本格的復興はおろか、政治の混迷は限界に達しようとしていた。
 その一方で、文化・芸術の分野、とりわけ音楽分野において、まさに 世界の中心地

 フルトヴェングラー、クレンペラー、ワルター、クナーッパブッシュ、クライパーといった当代きっての指揮者達が、毎夜のごとく各地のオペラ座に客演し、聴衆を熱狂させていたし、作曲の分野においても、プフィッツナー、シェーンベルク、オルフ、ヒンデミット、そしてリヒャルト・シュトラウスらが華々しい活動を展開していた。

 中でも ヴィルヘルム・フルトヴェングラー は、当時世界最高とうたわれたベルリン・フィルハーモニーをはじめ、ゲヴァントハウス管弦楽団の正指揮者、ベルリン国立歌劇場総監督、ウイーンフィルハーモニー主席指揮者、と要職を歴任し、押しも押されぬドイツ音楽の巨匠として世界中の尊敬を一身に集めていた。

しかし今、こうした絢爛豪華な世界の裏で、この国はおろか、全世界に影響を及ぼすことになる巨大な影がわき起こりつつあった。
 時に 1931年(昭和6年)8月4日、ドイツ、バイロイト 。

この地にある祝祭劇場では、毎年恒例のバイロイト・フェスティバルが7月24日から開催されていた。
 夕暮れに紅く染まるバイロイト祝祭劇場に向かって、足早に歩く二人の日本人がいた。二人ともドイツ人に見劣りしないほど背が高く、一人は真っ白な軍服を身にまとい、もう片方は三ツボタンのスーツを颯爽と着こなしていた。

 軍人の方は、大日本帝国海軍独逸駐在武官として着任したばかりの 西園寺一誠 大尉。
がっしりとしていて、精悍な顔つきが特徴的な、若干二十四才の青年である。
貴志康一 である。この年二十二才。彫りが深く、日本人離れした顔つきである。

「貴志よ、もっと急げ、開演に遅れてしまうぞ」
「いやいや申し訳ない、なにせ駅は大混雑の上にトスカニーニ(イタリア人の指揮者、当時フルトヴェングラーと人気を二分していた)一行までいて、混雑がすごくて」

「それにしても、着任して一週間しかたっていないのに、今日の演奏会はそんなに重要なものなのかい」

 「何度も言ったと思うが西園寺よ、今日の演奏会は本当に特別なんだ。なにせ、あのフルトヴェングラーが今年からバイロイトの主席指揮者になったのだからね。おまけに今日は、彼がエロイカを振るとあってはね」


その瞬間、貴志はいきなり振り返り、かん高い声で叫ぶように言った。
 「西園寺。フルトヴェングラーは特別なんだ。いずれ君にも分かる」

 なにがそんなに特別なんだ、と訊ねるよりも早く、貴志はきびすを返して歩き出した。祝祭劇場の周りは、今日の演奏会を心待ちにしている人々でかなりの混雑状態にあった。

 「思っていたよりも随分瀟洒な造りだな」西園寺は呟いた。ベルリン国立歌劇場のような豪壮な建築を想像していた彼は、建物の中に入ってその質素な造りにまた驚かされた。

1875年に完成したこの劇場はほとんどが木材でできており、通常の劇場には必ず設けられていたロビーもなく、観客は外からいきなり客席に入る。余計な装飾は一切無く、すべてがワーグナーの音楽を最上の条件で演奏するために設計されていた。

 観客にとっての聞き易さはほとんど考慮されておらず、その点、同時代に造られた他の劇場との違いが際立っていた。

急に入り口付近が騒がしくなった。
20人ほどの集団ーほとんどは褐色の制服のようなものに身を包み、その集団の中心には、背広を着た二人のやや小柄な男性と、支配人とおぼしき派手な服装の女性と談笑していた。

背広の男のうちの一人は、西園寺にもすぐに分かった。
アドルフ・ヒトラー 。前年9月の総選挙でいきなり107議席を獲得し、一躍議会第二党にのし上がっていた国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆる ナチス党 の党首だ。彼は熱烈なワグネリアンとして知られていた。

「あれがヒトラーか。思ったよりも小男だな。横にいるのは誰だろう?」
「あのやせているのは、同じくナチス党の宣伝部長・ ヨーゼフ・ゲッペルス 博士、そしてあの女性は ヴィニフレッド・ワーグナー 、ワーグナーの息子の嫁だ。彼女がこのバイロイト音楽祭を実質的に仕切っている女王だ」
とすかさず貴志が答えた。

「おまえは本当に詳しいな」
西園寺は驚いたが、貴志はまったく気にするふうでもなく、
「さすがに三年もドイツにいればそれくらいはな」と続けた。

 「すると、あの周りを取り囲んでいる連中はなんだ?」
「あれは 突撃隊 といって、ナチス党の要人を守るためと、敵対勢力を攻撃するために組織された私兵グループさ」

「あのヴィニフレッドが熱狂的なナチ崇拝者として有名でね。ヒトラーとも個人的に親しいらしい。最も旦那のジークフリートはヒトラーを成り上がりモンとしてバカにしていたらしいが、それも死んでしまって、重しがなくなったってわけだ。ヒトラーもワーグナーの音楽を崇拝しているらしいから、今日は観劇にきているんだろう」

「しかし今日はベートーヴェンだろう?」 「ああ、でもドイツ音楽の至宝たるフルトヴェングラーが振るからな。だが本当のお目当ては18日のトリスタンとイゾルデ、だろうな」
 なるほど、と頷きながら、西園寺はこの数週間繰り返し読んできたナチスについての報告書を思い出していた。

 ナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)は1919年に結成、1921年にヒトラーが党首になって以来、現状に不満を持つ元兵士や労働者、義勇団兵士等を核として、激烈な反共産主義、反ユダヤ主義主張を展開、徐々に党勢を拡大してきた。そしてついに、1930年9月の議会選挙で107議席に躍進し、国会内での第二党勢力になっていた。党員数約18万人。

党首アドルフ・ヒトラーはオーストリアのワルトフィールテル地方の出身で、第一次大戦にも陸軍兵士として参加した。その主義主張を綴った著書「 我が闘争 」は、あまりにも攻撃的な内容がかえって話題を呼び、この当時すでに数万部が読まれていた。

 やがて、女主人に先導されたヒトラーの一行が客席入り口に近づいてきた。西園寺は軍人らしく姿勢を正していると、ヒトラーの側でも軍服姿の西園寺に気づいたようだった。
 ヒトラーは、30メートル程離れているにもかかわらず、西園寺と目を合わせると、急につかつかと彼に向かって歩き出した。途端に、褐色の制服の男達が立ち並び、人垣の通路ができあがった。

ヒトラーは西園寺等の前で立ち止まり、軽く右手を上げ、
「こんにちは、みなさん。今日は、どちらの国からお越しでしょうか」
と二人に訊ねた。

 西園寺はかかとを揃え、
 「日本からです、閣下。私は大日本帝国海軍独逸駐在武官、西園寺大尉であります。こちらは私の親友で作曲家の貴志康一であります」
「ほう、日本から・・・日本でもワーグナーは有名かね」
 「はっ、閣下。閣下と同じくらい、有名であります」
 西園寺の世辞にはにこりともせず、なおもヒトラーは続けた。

 「ワーグナーとベートーヴェンは、我が偉大なるドイツ音楽の歴史の中でも、最高のものです。しかも今日はさらに、当代最高の指揮者が指揮を行う。優秀なる日本民族の一員である貴兄達ならば、必ずや我がドイツ精神の神髄を理解していただけると期待している。今日は共に楽しんでいこうではありませんか」

「有り難うございます、閣下」
「軍人と音楽家で、このような場所に来られるとは、なにやら面白そうなお二人ですな」
と隣からゲッペルスが、二人の様子を観察するような目つきで口を挟んだ。

「私どもは幼なじみでございまして。共に音楽を愛しておりますので」
西園寺が答えるかいなやその瞬間、

「 人殺し集団め、くたばれ! 」

突然三人の男達が、人混みの中から褐色の集団に向かって短銃を乱射し始めた。たちまち一人の突撃隊員が胸を打たれ、倒れた。

 ボディーガード役の他の突撃隊員は、不意を突かれて混乱し、集まっていた観客達のパニックが拍車をかけた。さらに二人が倒れた。

「みんな伏せろ!」

 西園寺は叫び、正面に立っていたヒトラーを突き飛ばし、目にも止まらぬ早さで抜刀、凄い勢いで暴漢に襲いかかった。

 「ウオリャー!」

 西園寺の叫び声がこだました瞬間、一人は突きの要領で喉のあたりを打たれ吹っ飛び、もう一人は銃を握った腕を強打され、悶絶した。みね打ちだった。

 残った一人は仲間が一瞬のうちに倒されたことに恐怖し、逃げだした。この間、僅か数秒であった。

 あまりの早業に座は一瞬静まり返ったが、

 「追え、馬鹿者ども!犯人を逮捕せよ」

ゲッペルスの甲高い声を合図に、突撃隊員や警察がようやく犯人を追っていく中、

 「大尉、ご苦労。感謝する」

 ヒトラーは何事もなかったかのように西園寺に歩み寄り、手を差し出した。

「日本のサムライのわざを生まれて初めて
見せてもらった。実にすばらしい。しかし、なぜ切らなかったのかね?」

 「大したことではございません、閣下。私は軍人のくせに血を見るのが嫌いな性分でございまして」

刀を鞘に納め、いずまいを正して西園寺は答えた。すでに息は静まっている。

 「予の突撃隊は敵を一人も取り押さえられなかった。君は命の恩人だ。ベルリンに戻ってから、是非余を訪ねてくれたまえ」

握手した手をしっかりと握った後、くるりときびすを返し、そのヒトラーとその集団は何事もなかったかのように劇場内に消えていった。


「さすが免許皆伝、あざやかだな」

 貴志があきれたように呟いたが、西園寺は青ざめた顔で、絞り出すような声でうめいた。

 「見たか、あの男の目を。今確かに自分の命が狙われ、目の前で流血騒ぎがあったのに、あの男の瞳や、握手した手には、全く動揺が感じられなかった。俺は今まで、あんな顔の人間に会ったことがない」

しばし二人が呆然として褐色の集団を見送っている間に、開幕を知らせる鐘が鳴り響いた。


                                    ~続く~






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最終更新日  2006年09月06日 04時37分46秒
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