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「日本人は野手が育たないね」 先日、ある人にそんな風に言われた。日本人野手に対するポスティングシステムの入札額が軒並み低かったからだ。 だが、私はこう反論した。「育たないんじゃなくて、人材が回ってこないだけですよ」と。 神奈川県の強豪高校の監督がアメリカにコーチ留学したときの話だ。監督は、その際、わざわざ横浜高校時代の松坂大輔の映像を持っていった。日本にもこんなに素晴らしい投手がいるということを見せたかったのだ。 だが、彼らの反応は意外なものだった。「なんでショートにしないんだ?」 彼らアメリカ人の思想が、ここに端的に表れている。彼らにとって野球とは打つことを競うスポーツであり、華は「3番ショート」なのだ。松坂の投球フォームを見て、彼が類い希な運動能力の持ち主であり、「3番ショート」をこなせる選手であることを見抜いたのだろう。 余談になるが、メジャーでビジターチームが自動的に先攻になる習慣も「まずは、お客さんに打ってもらう」というもてなしの発想からきていると聞いたことがある。もし、野球が日本発祥のスポーツであったなら、逆になっていたのではないだろうか。「まずはお客さんに守ってもらおう」と。アメリカだと「野球はショート」から。日本だと「野球はピッチャー」。 前述の監督は、留学体験をこう振り返る。「アメリカの学生って、あんまりピッチャーをやりたがらないんだよね。まず、打ちたい。だから、背がひょろっと高くて、ちょっと不器用そうで、他に守るポジションがないような選手が投手になりがち。松坂も、なんで守れてしかも打てる選手をわざわざピッチャーにしなきゃいけないんだという発想なんでしょうね」 日本の高校野球の監督に、新チームを立ち上げるとき、まずどのポジションから決めますかと何度か聞いたことがある。すると、十中八九、投手だと答える。希に捕手だと言う監督もいるが、それはあくまで投手を最大限生かすための判断であり、「野球はピッチャー」という思想の延長に過ぎない。ダルビッシュも田中将も高校時代はすごい打者だった!? もちろん、監督の意向だけではない。 ダルビッシュ有も、田中将大も、高校時代、すごいバッティングをしていた。そもそも打球の質が違うのだ。 彼らが本気で打撃に取り組み、野手としてプロ野球の世界に入っていたら、どれほどの打者になっていたことだろう。 ただ、残念ながら、彼らは高校時代からさほど打者への執着心がなかった。しかし、それも「投手が野球の華」という日本の野球文化の中で育ったからだろう。 その点、松坂は高校時代から、投手と同等かそれ以上に打撃が好きだった。彼が入団時、セ・リーグにこだわっていたのは、打席にも入れるからだ。そのためドラフト会議で交渉球団が西武に決まったとき、松坂は本気で進学か就職を考えたという。 そんな松坂だっただけに、アメリカ人が言う通り、なおさら「3番ショート」の松坂を見てみたかった気はする。「まずはショートから」という高校野球の監督が現れたら……。 ときおり日本のプロ野球で投手が打撃練習をしている光景を目にすることがあるが、何より驚かされるのは、その打球の角度であり、飛距離だ。 今でもよく覚えているのは、当時、横浜のダブルストッパーとして売り出していた佐々木主浩と盛田幸妃が、遊びでホームラン数を競っていたときのことだ。 2人は、まるでいつもよりフェンスが20メートルぐらい前にきているのではないかと錯覚したくなるほど、軽々とバックスクリーンに放り込むのだ。彼らがあれだけのボールを投げられる理由が一瞬にしてわかった。 そう、日本にも人材はいるのだ。そういう人材が野手になれば、日本でもメジャーで通用する打者は育つはずだ。だが、それが日本の野球文化なのだろう、優秀な人材ほど投手に流れる。 高校野球の監督で「私はまずはショートから決める」という監督でも現れるようにならない限り、現状は変わらないのではないか。
2012.01.18
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西武からどこに行っているのかと思っていたら、欽ちゃんの所に居たんですね。弟の乙松こと雅之さんは元気にして居るんですか?懐かしい写真があったので、思わず・・・・!25日に組み合わせ抽選会が行われた第34回社会人野球日本選手権大会。タレントの萩本欽一さんが創設し、創部3年目で初出場を果たした茨城ゴールデンゴールズは、コーチで、プロ野球・西武の投手として112勝した松沼博久さん(55)がくじを引いた。東京ガス時代の1978年の第5回大会(阪神甲子園球場)で、5試合を一人で投げきり準優勝した。「夢のような舞台。ゴールデンゴールズらしい試合をしたい」と意気込みを語った。 松沼さんは東洋大から東京ガスに進み、4年間在籍した。79年、弟の雅之さんとともに西武に入団。「兄やん」の愛称で親しまれ、口ひげのアンダースローとして80年代の西武を代表する投手の一人となった。 その松沼さんが、アマチュア時代の「最高の思い出。最高の舞台」と振り返るのが第5回大会。「当時の江口昇監督に頼み込んで」、5試合すべて完投し3完封。決勝は九回に1点を許して北海道拓殖銀行に敗れたが、「30年近く前だが、今でも興奮を覚える」という。 昨年からゴールデンゴールズのコーチとなり、野球解説の仕事のかたわら、茨城県の練習グラウンドにも足を運ぶ。「この時期まで野球ができて、選手も張り切っている。勝ち負け以上に、うちらしい試合ができるように努めたい」と、11月18日の三菱重工名古屋との初戦を見据えた。
2007.10.26
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Katsuya kakunaka1987年5月25日、石川県生まれ。日本航空第二高(現・日本航空石川)、高知ファイティングドッグスを経て、'07年ドラフト7位で千葉ロッテに入団。今季一軍に定着し、打率3割をキープ(8月10日時点)。7月にはオールスターゲームに初出場した。右投左打、180cm、80kg。辺境に生まれ育ったばかりにプロまで遠回りを強いられた男が、今季、バットマンとして目の覚めるような活躍を見せている。朴訥の中に無骨を漂わす角中の、野球人生の原風景をたどった。 感情表現が乏しい――。ロッテの角中勝也を知る人物は、みなそう口をそろえる。何を考えているか読めないですよ、と。 独立リーグから這い上がるという異色の経歴を持つ角中は、6年目の今季、競争の激しいロッテの外野陣の一角に食い込んだ。 5月12日。マリンスタジアムで行なわれたソフトバンク戦で、サヨナラ犠飛を放ったときのシーンが思い出される。角中は、一塁ベース付近でチームメイトにもみくちゃにされ、どう喜べばいいのかわからず困ったような表情を浮かべていた。試合後のヒーローインタビューなどでも、いわゆる「弾ける笑顔」といった顔は見かけたことはない。 それだけにどんな取材になってしまうのか心配していたのだが、杞憂だった。決して雄弁ではないものの、決して無口というわけでもない。いや、スポーツ選手としては、むしろよくしゃべる方だ。 ただし、話す内容は、やはり関係者が指摘した通りだった。野球人生で泣いたのは一度、ガッツポーズしたのも二度だけ。 角中はこれまで野球で一度しか泣いたことがないし、二度しかガッツポーズをしたことがないのだという。「高校1年の夏は、確か、泣きました。でも3年のときは、まったく泣かなかった。やっと終わった、っていう感じで。最近いちばん泣きそうになるのは『ワンピース』を読んでるときですかね」 ガッツポーズは、いずれも自然発生的なものではなく、あくまで「確信犯」だ。「初めてやったのは高2のとき。打ったらみんなガッツポーズしてるんで、自分もやってみようかな、って。あとはマリン(スタジアム)で1回やりました。打ててないときだったので、清田(育宏)さんに『今度打ったら、こっそりやります』って言ってたんです。ただ、思わず出たってことはないですね」 感情の引き出しが極端に少ないというのは、どうやら真実のようだ。高校時代の角中は「透明人間みたいに目立たなかった」。 角中は日本航空第二高校(現・日本航空石川)時代、石川県内でも準決勝にさえ進んだことがなく、甲子園は遥か遠い存在だった。その頃のコーチで、現在は監督を務める市川雅通が思い起こす。「スーパー無名ですよ。何にも載ったことない。『野球小僧』もないな。チーム内ですら、透明人間みたいに目立たなかった。バッティングはよかったですけど、正直、プロは厳しいだろうなと思っていました」 ところが高校を卒業した角中は、四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグス入団1年目に、大学社会人ドラフト7位で千葉ロッテから指名を受ける。5年目の昨年までは頻繁に一軍と二軍を行き来していたが、今季は一時、首位打者に立つなど好調を維持。首位争いをするチームの「5番・レフト」に定着した。 高校まで「スーパー無名」だった男が、だ。日本球界において、独立リーグ経由でここまで登り詰めた選手は例がない。 角中の経歴を眺めていると、二つの大きな「なぜ」にぶつかる。生まれ育ったのは「甲子園に出られたら十分」の奥能登、七尾。 ひとつ目は、出身地だ。角中は1987年5月25日、「さいはての地」と呼ばれる奥能登、七尾で生まれた。年代的には、ダルビッシュ有(レンジャーズ)の1つ下、田中将大(楽天)の1つ上である。 同じく七尾出身で、金沢市内の高校に進み、小さい頃からの夢だった甲子園出場を果たしたある人物がこう話していたことがある。「七尾から金沢の高校に行くだけでも大変なこと。その上、甲子園に出られたら十分ですよ。それ以上先の世界は描けなかった」 そういう場所で生まれ育った選手が、なぜ、ここまで大きくなれたのか。四国IL出身者としてブレークした「なぜ」を解く鍵。 もうひとつの「なぜ」。それは、高校卒業後に入団した四国ILの高知である。当時も今もそうだが、独立リーグに所属するということは、つまりは、社会人チームからも、大学からも声がかからなかったということだ。独立リーグとは、言ってみれば、プロでは通用しそうもない選手たちがプロ入りだけを目指すという矛盾をはらんだ組織でもある。 そんなチームにいた選手が、なぜ。 それらの「なぜ」を解く鍵は、喜怒哀楽を表さない角中の性向の中にある。 角中は、こう弁明する。「人見知りする方なんで、感情を出すまでに時間がかかるんですよ」 それも間違いではない。しかし、そうした傾向は、それ以上に角中のもっと奥深いところ、幼少期の経験が大きく関わっているように思われる。 今の角中を構成しているのは、半分は資質で、半分は生まれ育った環境だ。 そこに野球があったから――。登山家のジョージ・マロリーが発言したとされる「そこに山があったから」ではないが、角中が野球を続けてきた理由も、端的に言えば、そういうことになる。「子どもをプロ野球選手に」という、父・稔の執念の結晶。 角中は、ある意味、父・稔の執念の結晶と言っていい。 七尾にある角中の実家で稔に話を聞き、思わず「角中選手の原点は、ここにあったんですね」と感嘆すると、稔はすかさず訂正した。「ここじゃない、僕が原点。僕がおらんかったら、普通の子ですよ」 角中のことを語るとき、稔は時折、挑みかかるような口調になる。「生まれる前から、子どもをプロ野球選手にしたいと思うとった。だから、仕込む前から、男つくらにゃって思っとったもんね」 稔の目は、甲子園を飛び越え、最初からプロ野球に向かっていた。「そのぶん、金も、時間も、かかったわい。ここまでする親、どこにおるね」ただひたすらに、バットを振った野球漬けの少年時代。 稔は角中が3歳になり保育所に入ると、毎日、1kmのロードワークを課した。本格的に野球の指導を始めたのは小学校に入ってからだ。車庫の2階でティー打撃をさせた。半年もすると、惚れ惚れするような振りをするようになった。両脇を極端に締める角中独特のフォームは、このとき身に付けたものだ。「1、2年生の間は、1日100球前後。でも毎日やらせた。正月も休んでない。僕がいないときは自分でスイングしとけ、って。9時頃家に帰ってきて、家内に『しとらなんだわ』って聞いたら、布団まくったよ」 稔は自宅で織物を織る仕事をしている。だが、母・久美は「あの頃は、野球が仕事やった」と笑う。 角中が小学4年生に上がるとき、自宅の隣にあった仕事場を室内練習場に改造した。照明を設置し、ネットを張り、50万円のバッティングマシーンを購入した。「中にあった織物の機械、14台もスクラップにしたわ。息子の野球の方が大事やと思って」 稔が宝くじを買わなくなったのも、この頃からだった。「息子に賭けて、こいつが1億円プレーヤーになる確率の方がはるかに高いと思ったからな。人にもそうやって言っとった」◇ ◇ ◇息子をプロ野球選手に、という父の信念の下でバットを振り続けた角中。厳しい環境でも野球を続けたのは「好きだから」ではなく、意外な理由だった。そんな角中が頭角を現したのは、高校卒業後に入団した四国IL・高知。打撃面でのある意識改革が、持ち前の勝負強さに磨きをかけていく――。
2012.09.15
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ここのブログに登場すると活躍するというジンクスは生きていますね。山本昌のところで日本大学つながりで出てきた東京ヤクルトスワローズ真中満選手が、昨日はやってくれましたね。ヤクルトの代打・真中がクルーンの155キロを打ち砕いた。1点を追う8回1死二、三塁から逆転1号3ラン。「犠飛を打ちたかったが、まさか入るとは…」という打球が右翼席最前列に飛び込んだのを確認すると、一塁で足を滑らし球場全体に歓喜と爆笑をもたらした。「クルーンの球は速いけど軌道は分かっている。対戦のないホセロよりくみしやすかった」と代打稼業で打率・455の技を披露。古田監督も「まるで神様だね」と監督賞を約束した。宇都宮学園高等学校(現:文星芸大附高)から日本大学を経て、1992年のドラフト3位でヤクルトに入団。 高校時代は、選抜ベスト4。大学4年の時は、東都大学リーグで首位打者を獲得。3年目の1995年、99試合に出場するも、翌年はほぼ二軍暮らし。しかし1997年に規定打席不足ながら3割を越える高打率で台頭し、飯田哲也が不振に陥った翌年レギュラーを奪取。ここから4年連続規定打席到達で、飯田に替わって「1番センター」の座についた。 1999年に自身初となる打率3割を達成。2001年には春先から一時は4割を超える高打率で大活躍し、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献した。 それ以後は青木宣親や宮出隆自らの台頭もあり、余り派手な成績は残していないものの、得点圏打率が高くチャンスに強い打撃は健在で、チームに欠かせない存在である。 驚くほどの俊足ではないが、選球眼の良さと思い切りの良さで活躍。しつこく食らいつくスタイルで、特に内角の難しいボールを体ごと回転して打つ様は特徴的。 2001年の日本シリーズ第3戦で大阪近鉄の香田勲男から放った本塁打(通称"回転ホームラン")は真中の打撃の真骨頂と言えるだろう。そのバッティングは翌2002年の春季キャンプでチームメイトの宮本慎也にモノマネされ、選手やファンの爆笑を誘った。動画が見れます!回転ホームランをクリックして下さい。回転ホームラン 一時は「若松二世」と呼ばれたように、170cmと小柄な体格ながらも鋭い打球を放つ好打者。眉毛が濃く目元もきりっとして好青年である。守備も堅実で、総じて安定感を感じさせる選手。胴長短足のドラえもん体型から放つ、ライトフェンスギリギリのホームランで、神宮球場のファンを魅了し続けている。 全力プレーを怠らない真面目な取り組み方は若手の見本で、大学時代に記者から真摯な姿勢が表彰されたこともある。気さくな性格で、チーム内ではいわゆる"いじられキャラ"でもある。2004年の春季キャンプ時にバレンタインデーのチョコレートを一つも貰えなかった真中が、女性ファンからチョコを貰い喜んで開けてみると、中は石鹸だったというドッキリを仕掛けられたことも。その女性ファンも、実は古田敦也らの"仕込み"であり、またもや選手・ファンらの爆笑を生んだ。 2007年は代打の切り札として活躍しており、古田敦也監督からは「ウチの(代打の)神様」と頼りにされている。
2007.05.09
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ほろ苦い一軍デビュー ゴールデンウィーク真っ只中の5月3日、QVCマリンでの千葉ロッテ8回戦のマウンドに上がったのは高梨裕稔だった。 ローテーション通りなら大谷翔平が投げるところだが、足の不安のため登板を回避。同一カード3連勝の期待は、入団2年目の右腕に託された。高梨にとってはプロ初登板である。 念願のデビュー戦は、ほろ苦い結果に終わった。 3回1/3を投げて被安打5、与四死球4の4失点。立ち上がり、岡田幸文にいきなり死球をぶつけた高梨は制球に苦しみ、四球を出しては足を絡めたロッテの攻撃に揺さぶられる。カウントを取りに行った甘いボールは、ことごとく打たれるという悪循環に陥った。 日本ハムは序盤の失点を盛り返せず2-7と完敗し、高梨は敗戦投手となった。 敗戦という結果はともかく、この高梨の初登板によって昨年入団した8人全員が一軍デビューを果たした。 プロ入り2年目の5月で全選手がデビューするというのは、日本ハムでなければ考えられない。この球団の若手起用は、とにかく大胆のひと言に尽きる。 積極果敢な起用の根底には、一軍の試合に出なければわからないこと、学べないことがある、という考えがある。学ぶべきものがあるのなら、早めに学んだ方がいい。いい選手は失敗を糧に、ひと回り大きくなる かつて、中日の山本昌にデビュー戦での思い出について尋ねたことがある。1986年10月16日、神宮球場での対ヤクルト26回戦。プロ入り3年目の左腕は1-5とリードされた6回にマウンドに上がり、広沢克己に2ランホームランを叩き込まれた。「初めて一軍に出て驚いたのは、キャッチャーの構えるミットがとにかく小さく見えたってこと。学生時代や二軍の試合はデーゲームばかり。ナイターに慣れていなかったんだ」 これもまた一軍にデビューしなければ、わからないことだ。 同じ野球でも、一軍と二軍は似て非なるものだ。結果を求められる一軍のプレッシャーは、鍛錬の場である二軍の試合とは比較にならない。その一軍のマウンドに高梨は立った。満員のスタンドの熱気、相対する打者が醸し出す威圧感は、いままで経験したことのないものだったはずだ。 2年目の春に巡ってきたチャンス、高梨は実力をほとんど出し切れないままマウンドを降りた。ストライクを取ることに四苦八苦し、打者と駆け引きをする以前に自分との戦いで負けてしまった。これはおそらく、一軍のマウンドに立たなければ経験できないことだったはずだ。 一軍で結果を出すためには……。 いまごろ高梨は、いままでよりも高い次元の悩みに直面しているだろう。それが明日の成長の糧になるのだ。 近い将来、高梨がふたたび一軍で出番を得て、今度はしっかりと結果を出したとする。それは初登板の失敗が生きたということになる。 早く一軍で通用する選手を育てようと思ったら、早めにチャンスを与えるのがいい。それがたとえ失敗に終わったとしても、いい選手は失敗を糧にして、またひと回り大きくなるもの。それが限られた人材を最大限に生かそうとする日本ハムの哲学。2015年組も、やがて次々と出てくることだろう。
2015.05.06
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今年はキャンプ序盤に腰を痛めた。本人は、まさか腰に来るとはといっているが、足を庇えば当然腰に来ると思う。しかし、キャンプ序盤というのは不幸中の幸いだった。フォーム改造に昨秋から取り組んで、懐を大きくつくることに取り組んだ。はた目には、グリップの位置を高くしたようにしか見えていなかったが、それは強いスイングを作るために取り組んだ課題だった。そしてバットも50グラムくらい軽くして910グラムにして、ヘッドを返せるようにした。去年までは、ぶつける感じのバッティングでボテボテのショートゴロがいっていたのが、ヘッドが返ることにより徐々になくなってきて、強い打球に変わりつつある。スパイクに工夫を施した。赤星は、O脚なので紐のラインを外に流すようにして、力が外へ逃げるのをブロックするスパイクを作った。サッカー選手の間ではポピュラーなシューズだそうだ。サッカー選手はO脚が多いらしい。野球選手の撫肩と同じなんでしょうか?今季も当然一番を打つ気でいたし、一番の方が盗塁王奪還には持って来いだが、二番でも勝負に挑む。鳥谷の出塁により大きく仕事が変わるが、二番という打順では、状況により進塁打、犠打、打率、出塁率、全て重要となる。打率というより何回塁に出るかが盗塁に影響すると赤星は言う。鳥谷が一番を打つ以上鳥谷の出塁率に大きく影響を受けるのは間違いないが、今年も虎視眈々と盗塁王を狙う。
2007.04.18
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今年の交流戦のMVPとなり、打率4割2分9厘、5本塁打と大活躍したソフトバンク・柳田悠岐。柳田といえば、一度見たら忘れられないのが、上半身がねじ切れそうなほどの豪快なフルスイング。6月3日には、推定150mの特大ホームランを横浜スタジアムのスコアボードに叩き込み、液晶の一部を破壊して観客の度肝を抜いた。その日本人離れした身体能力には、野球解説者の里崎智也氏も舌を巻く。「あれだけフルスイングできる体の強さがあって、かつ走・攻・守がそろっている選手は過去にもいなかったんじゃないですか。どこにも属さない『柳田タイプ』ですよ(笑)」その“マン振り”が代名詞でありながら「ホームランか三振か」ではないところが柳田のすごさ。今年はシーズン開幕からヒットを量産し、西武・秋山と3割8分前後のハイレベルな首位打者争いを繰り広げているのだ。高打率の秘密はどこにあるのだろうか?「デビュー当時はいつでもフルスイングしていましたが、実は昨年くらいから相手ピッチャーやカウントによってバッティングを変えるようになりましたね。それは右足の上げ方を見ていればわかります。大きく上げている時は思い切り振って、逆にあまり上げていない時は意外とコンパクトに振っている。そのあたりは、彼の個性を生かしつつ伸ばした藤井康雄打撃コーチの力も大きいでしょうね」(里崎氏)入団当初から王貞治会長も認めていたパワーに、状況に合わせたバッティングがプラスされたのだから、もう怖いものなしだ。さらにソフトバンク打線の層の厚さも柳田の好成績を後押ししているという。「彼は3番を打っていますが、その後には内川、李大浩(イデホ)、松田といった強打者が控えている。しかも、一塁に歩かせたら盗塁される可能性も高い。必然的に勝負を避けられることは少なくなると思います」(里崎氏)現在、柳田の盗塁数はリーグ2位タイの14個。もう少しペースを上げられれば、2002年の松井稼頭央(かずお)(西武)以来となるトリプルスリー(3割、30本、30盗塁)も十分に射程圏だ。スポーツライターの田尻耕太郎氏は、柳田の俊足にまつわる恐るべきエピソードを紹介してくれた。「今年の春季キャンプで50mのタイムを計っていたんです。そうしたら、なんと5秒55という数字が出てしまって…。『世界記録だ!』と盛り上がっていましたよ」ちなみに50mの世界公式記録は、カナダのドノバン・ベイリーが1996年に記録した5秒56。もちろん手動計測だし、距離も厳密ではないだろうが、それにしてもとんでもない話だ。もし柳田が陸上選手になっていたら日本人初の100m9秒台を達成していたかもしれない。ここまで別次元だと、本人も「オレは超人だ」とか思っているのでは…。「いや…6月14日に柳田選手を応援する『柳田デー』というイベントがあったんですが、そこで自分にキャッチフレーズをつけるという話の流れになったんです。そこで彼はなぜか『普通の一般人』と答えたんですよ(笑)。謙虚というか天然というか…」(田尻氏)ウケ狙いかガチなのか、さっぱりわからない。プレーだけでなく思考も規格外のようだ。とにかく、これからも「普通の一般人」には想像もつかないような進化を見せてくれ!
2015.07.04
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その言葉に、彼のピッチング哲学が集約されていた。「ノーヒットノーランをやったからといって、2勝、3勝になるわけじゃないので」 6月26日の千葉ロッテ戦。8回、先頭打者のサブローにヒットを許すまでノーヒット投球を続けていた日本ハムのダルビッシュの試合後のコメントである。 投手という生き物は、勝つという目的のために、極限まで無駄なもの省き、削る。その過程はレース用の車のボディをつくる作業と似ている。そういう意味では、ダルビッシュは近年稀に見る究極の形だ。ゲームを完全に支配し、絶対に“勝つ”投手。 投げた、勝った――。 勝つことがこれほど当たり前に映る投手は、いつ以来だろうか。 昨年、21勝を挙げた楽天の岩隈久志は、安定感は抜群だったが完投タイプではないためゲームを支配し切ったという印象に欠ける。西武時代の松坂大輔にもこれほどの安定感はなかった。やはり1989年、90年と、連続20勝を挙げた全盛期の斎藤雅樹(元巨人)以来ではないだろうか。 あの頃の斎藤も、まさに「投げた、勝った」だった。 ただその斎藤もノーヒットノーランは経験がない。 斎藤だけではない。意外と、やっていそうでやっていない投手は多いのだ。 前述の岩隈、松坂もそう。上原浩治(オリオールズ)も、斉藤和巳(ソフトバンク)も、古くは、江川卓(元巨人)も、北別府学(元広島)も、東尾修(元西武)も、山田久志(元阪急)も、村山実(元阪神)も、稲尾和久(元西鉄)も。そして、こういう言い方は失礼だが、意外な投手がノーヒットノーランを達成していたりする。その最たる例が1985年の日本ハムの田中幸雄だろう。実働8年、通算25勝の投手だった。名投手、必ずしもノーヒットノーランを求めず。 つまり、「主な記録」の欄にノーヒットノーランがあるかないかは、必ずしも、投手の優秀さを測る物差しにはならないということだ。1試合を無失点に抑えることならまだわかる。しかし、1試合を無安打に抑えることと、チームを勝利に導くことは、同一線上にはない。むしろ逆行することさえあるかもしれない。 投球とは、9回をいかに最少失点で乗り切るかという、いわばトータルコーディネートだ。そのためには、一発のない打者に抜いたボールを投げて軽打を食らうこともある。だが、そこで力を温存しておいたことが、必ずどこかで生きる。点に結びつかない被安打は、トータルで考えれば、決してマイナス要素ではないのだ。「俺のときは手を抜いてる」と打者に言わせる凄さ。 パ・リーグのあるチームで下位を打つ選手にダルビッシュのすごさについて尋ねたとき、彼はこう言って苦笑していたものだ。「俺に聞くなよ。あいつ、俺のときは明らかに手を抜いてるんだから。たぶん俺はあいつの本当にすごいボールを見たことはないと思うよ」 言ってみれば、そのスタイルこそが、勝つことを追求し続け、ダルビッシュがたどり着いた機能美とも呼ぶべき究極の形なのだ。 先日の試合でも、そんなスタイルを象徴するシーンがあった。8回、サブロー、橋本将に連続安打を浴び、無死一、二塁となったあとは、後続を連続三振に切って取るなど、3人できれいに片付けてみせた。高校時代から、当たり前のように勝ち続ける男だった。 思えば、東北高校時代の3年春、ダルビッシュは、選抜大会の1回戦で熊本工相手にノーヒットノーランを記録したことがある。 しかし、あのときも実に淡々としていた。「何とも思わない。単にヒットを打たれなかっただけ。(試合の)最後の方で人に言われて、ノーヒットでびっくりした。でも、意識はしなかった。(ノーヒットノーランは)人生で、たぶん初めてだと思います」 ダルビッシュは、ノーヒットノーランなど目指してはいない。いつやってもおかしくないと思うが、やらないと思う。だからこそ、あれだけ当たり前のように勝ち続けられるのだ。 可能性があるとしたら、熊本工業戦(2-0)のときのように僅差の場合だろう。1点も与えられない、ランナーさえうかつに出せないという展開が続き、結果として、ヒットが0本だったという場合。 先日の日本ハム戦のように5-0と点差が開いてしまったら、まずありえないのではないだろうか。 ただ、くどいようだが、ダルビッシュに完全試合やノーヒットノーランは似合わない。
2012.02.23
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