受験国語の目安箱

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2005/06/11
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カテゴリ: 雑感エッセイ
 相変わらず楽天内や人気ブログランキング、教育ブログランキングを回りながら勉強させていただいているのですが、『学ぶことの意義』を私がどのように捉えているのか、また、自分が『競争と教育』の関係をどのように捉えているのか、私塾教育に携わる者として大いに刺激されるブログにいくつか出会いました。まず、これらの課題について意見表明をさせて頂いてから、次の「語句編」を書こうと考えました。過去の記事にある『国語ができない原因を考える(1)~(6)』のときのように根詰めて書くのではなくて、少しずつ分けてお話したいのですが、どうなりますことやら。

『学ぶことの意義(1)』

 「何のために勉強しなければならないのか」という疑問は学校に通う子どもなら誰でも一度は持つでしょう。大人が子どもに突然聞かれたらどう答えるのでしょうか。私自身は中3の秋、高校受験を控えてクラスの雰囲気が次第に受験モードになって行くときに強くそう考えていました。クラス日誌にこの質問を書いて提出しましたが、担任を困らせてしまったのでしょう、返却されたコメント欄には何も書かれていませんでした。後日、自問自答して「学んでいくうちにわかるのでしょうね。」と日誌に書き込んだのを覚えています。

 「何で勉強しなければならないの。」「りっぱな大人になるためよ」とか「勉強しなかったらバカになっちゃうよ」などと大人から言われ、子どもたちはどう感じているのでしょう。

15歳の頃の自分に答えるつもりで今一度考えてみます。

 まず、こうした問いが出てくるときは、勉強することのしんどさ、無意味さをぼんやりと感じているときが多いのでしょう。私の場合も、学校の朝学習で毎回のようにドリルをやったり、2学期末の進路指導面談の順番を待つ廊下で、同級の一人が志望校変更を余儀なくされ、涙を流して出てくる場面に立ち会ったりした頃であったように思います。特に2学期は地元の新聞社主催の模擬テストが毎月あり、選別されることへの緊張感や不安感が強まっていたように思います。そういう思いをにじませた問いには、まずちゃんとメンタルな部分でも大人は答えなくてはいけないと思うのですが、もしそうしたメンタルな部分でのフォロー、例えば「誰でもそう思うものなんだよ。」とか言われていたとしても、当時の自分は納得していなかっただろうと思います。ですから、今回のシリーズはあの頃の自分を納得させるための少し理屈っぽいお話です。

 もともと「学ぶことの意義」というのは、子どもの立場・学ぶ側の立場から答える「内発的な意義」と、教える立場・親や大人の立場・社会的な要請から答える「外発的な意義」があるだろうと考えています。これにしたがって、次のようなアウトラインを考えてみました。

1 内発的意義 子どもの立場・学ぶ立場から


  ・興味・関心(知的好奇心)の充足
  ・社会参加・資格を得ること
  ・実存的意味  世界観・人生観・自己肯定感・自己実現

2 外発的意義 大人・社会からの要請から

  ・親の願い 学歴信仰と不確実な社会
  ・社会の要請 
    人材・労働力の育成
    消費者の養成
    学問・研究者養成
    民主主義の担い手の養成


 以上のそれぞれに触れながらお話して見ようと思います。尻切れトンボに終わって自己不全感が残るかも知れませんが、3、4回に分けてやれるだけやってみようと思います。


 人間は生まれ落ちてから、他の動物と同じように探索行動を始めます。動物ならエサを探す自己保存の欲求ということでしょう。生まれたての赤ちゃんでさえ乳を探し求める吸啜反射(きゅうてつはんしゃ)というものを持っています。人間の場合は、もちろんそうした動物的な意味合いもあるでしょうが、動物の場合とは少し意味合いの違う探索行為もし始めるようになります。幼児がバッタを夢中になって追いかけたり、逆に出会った犬がかわいいと思って近づくと、吠えられて怖い思いをしてみたり。そうした探索行動に始発する知的好奇心が学ぶ動機の始まりなのだろうと思います。

 特に言葉の習得については、子どもたちによく話すことなのですが、君たちが今、日本語を話せることのすごさを考えてほしい。赤ちゃんで何も話せなかった状態から、毎日毎日、何度も何度も両親が話しかけ、やっと覚えた言葉がママだったとしよう。パパを見てもママ、他の人でもママ、動くものを見てもママ。それを毎回そうじゃないよ。私がママよと百万回でも訂正してくれる。そうやってみんなは言葉を覚えたんだ。気の遠くなるような忍耐と愛情で語りかけ、みんなは言葉が話せるようになったのさ。今は「うるせえ!クソババア。」ということもあるかもしれないが、いまみんなが言葉を話せるというのは、親や周囲の大人の愛情の結果だということは忘れないでもらいたいと。

 マザーテレサは「愛」の反対は「憎しみ」ではなくて「無関心」であると答えたといいます。子どもが言葉を話せるというのは、周囲の大人・親が関心を持ち続けたということです。言葉を大人から教えてもらっているときに「どうして学ぶ必要があるのか」などと考える必要もなかったはずです。大人が教えることと子どもの知的好奇心が一致していたと言えなくもないわけです。幼稚園や小学校低学年あたりぐらいで言葉や文字を覚えることが楽しくて仕方がなかったという人も少なからずいるはずです。



 与えられるもの以外に好きなことがはっきりとあるということはなんと力強いことでしょうか。「へたの横好き」という言葉もあります。まず学業成績に依らず、算数がおもしろい、国語がおもしろいという感覚は大切にしたいと思います。テストができなくたっていいじゃん、好きなら評価など突き抜けて追求する、子どもにはそんな態度でいてほしいなあと思うのです。

今日は「内発的意義」の途中までお話しました。

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Last updated  2005/06/11 11:55:13 PM


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