受験国語の目安箱

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2005/06/13
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カテゴリ: 雑感エッセイ
 『何のために学ぶのか(1)』に引き続き、論を進めようと思います。前回は「学ぶことの意義(1)」として内発的な意義、自らの興味・関心(知的好奇心)を満たすための学びがあるだろうということを述べました。今回のお話はそこから発展して、自ら社会参加するための学びの意義というのもあるだろうということです。前日のアウトラインの順序とは多少前後することも出てくるかと思いますのでご了承下さい。

「学ぶことの意義(2)」

 学校は自らの学びの場であると同時に人材育成・配分の機能も併せ持っていて、それは学ぶことと分かちがたく結びついています。村上龍の『14歳のハローワーク』が売れているということですが、自分が将来どうなりたいのか、職業観と結びついた学び方をしている子は「何のために学ぶのか」という疑問は持ちにくいのかもしれません。東京の開成中の合格発表のときの子どもたちが、医者になる、弁護士になる、官僚になるとインタビューに答えているのを見ました。アイデンティティという言葉を使えば、早期アイデンティティ達成型と言われる子どもたちです。参考文献のリファーができないのですが、調査をしてみると東大生のかなりの割合がこの早期アイデンティティ達成型であったと言う話を教育心理学の授業で聞いたことがあります。確かに将来の自己イメージがなければ、ハードな勉強をずっとこなし続けることは難しいのだろうなと当時、納得していました。

 しかし、普通、小学生・中学生と会っていてこんな明確な人生設計を持っている子にそうやすやすと出会うことはまずありません。医者、弁護士、官僚なんて大人が吹き込んだにちがいないと感じてしまうのです。それは与えられた自己イメージであって、せっかく御三家といわれるような難関校に合格したものの、思春期・青年期になって、もう一度自己イメージの問い直しをするにあたり、親との関係の悪化を経験してきた何人かの学生の話を聞いたこともあります。もっと素朴に漫画家になりたい、スポーツ選手になりたい、宇宙飛行士になりたいという夢を持っている方がまだ自然な感じがします。漫画家になりたい子は、美術のスケッチだけでなく、ストーリーを考えるために歴史や国語に関心を持つかもしれません。さらに科学漫画を描こうと思うなら理科にも大きな関心を寄せることでしょう。サッカーや野球の大好きな少年はスポーツをやっていればよいと考えるだけでなく、イチローや松井のように世界で活躍することを考えたら、海外進出まで考えて英語は勉強しておこうと考えるのかも知れません。もっと考えの深い子は、ボールの動きを捉えるために理科や数学で習う放物線や等加速度運動が役立ちそうだと気づくかもしれません。もちろん、それを計算によって導き出すのではないでしょうが、グラフを書いてみたり、物体の到達時間を計算してみたりしたことが、スローモーションでボールの軌道や自分のフォームのチェックを行うときに理解の助けになっていることに大人になってから気づくのかもしれません。

 大人になったときには、学校で習ったこととそのままズバリに出会うのではなくて『子どもの時の体験と相似形のもの』に出会うはずです。これは知的領域だけではなく、人間関係においてもそうです。幼稚園ではすでにいじめや集団内での順位性(権力関係)を体験するでしょうし、小さな恋も経験するかもしれません。学校で習ったことなんて全く役に立たないよという論調が世の中にあるのですが、全部が全部役に立たないとは思いません。人は一歩前に進もうとしたとき、それまでに身につけたことのうち、使えるものは全て使って新たな課題とその解決に取り組むのだと思います。

 「将来の夢」をある程度持っている子はいいのですが、「将来の夢」について実際に聞いてみると「特にない」とか「普通の生活がしたい」という返答がかなり多くあります。それだと受験勉強に疲れて「何のために学ぶのか」という疑問を持ったときには「何のために生きるのか」という問い返しになってしまうのだろうと思います。若者の無気力とかニートの問題が提起されるようになっていますが、「生きるめあて」を立てることで「学ぶことの意義」も生まれてくるはずだと思うのです。逆に、そんな目あてもなく、ボーっと学校生活を送っているとしても、出会った学問や体験から「生きる目あて」を見つけ出し、さらに学ぶということもあるでしょう。その元になるのはやはり「感動」とか「感激」なんだろうなと思うわけです。「すげえッ!」とか「おもしれエーッ!」というものに出会っていかないといけない。

 さらにそこから、感動した体験を「消費」する方ではなくて「作り出す」方に頭が働くようになれば、子どもたちの心も変わっていくのではないかと思うのです。日本の社会はティーンエイジからヤングアダルトの文化を中心に若者を「消費者」として扱いすぎる傾向があるのだろうと思います。「消費」ばかりに目が行く文化ってなんかローマ帝国末期の「享楽的な文化の香り」がして「退廃と衰退」の様相を感じさせます。映画化もされた工業高校や高専の生徒たちが取り組む『ロボコン』(ロボットコンテスト)などはそうした普通の子たちが「作る・生み出す」取り組みの1つなのでしょう。普通の子たちが「ものを作る」「生み出す」ことに意欲的に取り組める社会になったら「なぜ勉強するの。」なんて問いは影を潜めるのかもしれません。

 ここまで、子どもたちが社会参加を意識して学ぶという姿勢が「学ぶことに意義」を与えるというお話をしました。それは何かの資格を得るという勉強の仕方にも当てはまるかも知れません。しかし、もう一つ付け加えておきたいことがあります。仕事とは結びつかないことに関心を持つ学びというのもあるはずです。「文学」というと外れているし、「教養」「雑学」といってもまだ意味がおかしい気がします。ここ数日、ずっと「実学」の反対語を考えていました。福沢諭吉が『学問のすすめ』で真っ先に想定していたのはこの「実学」でした。実践・実際に役立つから「実学」というのですが、医学や法学、工学などがそうです。技術とかスキルと呼ばれるものを重視します。これに対して、直接には役に立たないことを考える学びというのもあるだろうと。実践に対して「実学」というのであれば、ものごとの原理を明らかにするのは「理学」です。今の「理学」は自然科学(理科や数学)の研究をさすのですが、実は「哲学」の旧称でもあったりします。哲学っていうとなんか人生とか、幸福とかを考えるイメージもありますけれど、およそ、ものごとの根本原理を究明するのはすべて哲学です。そうすると、「実学⇔哲学」となるのですが、どうも腑に落ちないのです。ほかに実学の反対語として、「虚学」「死学」「座学」なんていうのが見つかりました。「虚学」は虚実(実体のないものとあるもの)という熟語からでしょう。「死学」は役に立たないから死んだも同然。「座学」はもともと軍隊の実践に対して講義を通じて学ぶ教科について言われたものです。

 私がイメージしているのは、事の被害者や加害者になった人たちの切実な学びというのがあるだろうということです。それは役に立つとか立たないとかというレベルではなくて、これを考えなければ生きてはいけぬという学びです。これを職業と結びつけたり、単に興味・関心が動機であると片付けてしまうにはあまりに浅薄です。民族紛争地域から「平和」を考えに来た学生や、国籍上の差別の犠牲者として生きてきた経歴を持ち祖国と日本の歴史について研究する学生、また障害のある兄弟のために福祉を学ぶ学生と話をする機会もありました。この人たちは「学ぶことの意義」が「生きざま」と結びついているのです。生きることに役立つから、これも「実学」でいいんじゃないとは軽々しくいえません。確かに「実学」的な部分も学んでいるのでしょうが、自分の出会った苦しみや悲しみ、つらさの経験から、もっと「悟り」たいといったほうが近い感覚なのです。そしたら「悟学」というべきかなんて思ったりしますが、いずれにせよ、実存的な意味合いの強い学びということができます。これは「生きることは学ぶこと、学ぶことは生きること」というフレーズにピッタリなのかも知れません。





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Last updated  2005/06/14 03:47:00 AM


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