全6件 (6件中 1-6件目)
1
江戸後期、天保の改革に取り組んだのが、老中水野忠邦じゃ。それを手伝ったのが、小田原の百姓から農政改革の手腕を買われて武士の資格を与えられていた、二宮金次郎じゃ。後世になって尊徳という。終戦後までは、どこの学校に行っても天皇陛下のご真影と二ノ宮金次郎の石像があったのじゃ。金次郎の像は、薪を背負いながら読書する、という今では危なくてお勧めできない勉強の姿じゃ。金次郎は、戦中の「全体主義」・「勤勉」「忍耐」「従順」の象徴とされてしまったのじゃ。金次郎の逸材ぶりは、あの時代にあって、「農本主義」「民主主義」「男女平等」「報徳主義」など近代国家に必要な思想や哲学を持っていたことじゃ。それは彼が14歳の時に病に倒れて亡くなった父親の教育に拠るところが大きい。幼少の頃より、父親から「論語」「大学」など儒教的な教育を受けて育ったのじゃ。それと自ら進んで人に尽くすことを、父の人々に接する態度から学んでおる。 今の子供達のイジメ、自殺、引きこもりなどの問題は、翻せば親の、大人たちの問題の投影なのじゃ。その親世代の代表が、わしらの年代なのじゃ。高度経済成長時代にあって、消費は美徳,躾はパー!学生時代はバリ封鎖でマージャン・パチンコ・酒・たばこ。 誠に、申し訳ございません。今の子供達の悪いところは、すべてわしたち、親の責任でございますのじゃ。だからわしは、仏法を広めておるのじゃ。仏法は実践であり、科学であり、哲学であり、宗教でもあるのじゃ。
2006.10.31
コメント(4)
葬式が終わると、ご住職に「お布施でございます。」と言って、何がしかの金銭を渡すのが一般的ですね。「お布施はいくらですか、はっきりしてくださいよ」「お心しだいで結構ですよ」なんて言われても、少なく渡してお勤めをいい加減にすまされたらかなわない。現代では葬式仏教しか残っておらんので、お布施の意味が誤解されて伝わっておるのじゃ。布施とは、悟りを啓くための修行のひとつで「布施波羅蜜」という「行」なのじゃ。人間は欲によって苦しむ。愛は渇愛であり、執着であり、無常の世にあって常住、不変を望むから苦しい。だから、その「欲」を取ってもらうために自分の所有物、金品を施して同時に人のため、世のためにお返しして役立てていただく。これが、布施行の考え方じゃ。恵んでやる、とか施してやる、ではないのじゃ。お布施させて頂きます、なのじゃ。これをインド語でダーナという。これが転じて旦那、檀那となって、乞食が物乞いするときの語り口になったと言われておる。布施とは元々、何かをしてもらったお返しにすることではない。無償の愛、即ち慈悲なのじゃ。現代の坊主の法事は経済行為=職業だから、法事料はいくらと決めればよいのじゃ。殆どの人が仏教に帰依して法事をしているのでもなく、もともと釈尊は葬式だの法事だのと、一言も言っておらん。これは中国から伝わった時に儒教的要素が加わったためなのじゃ。親孝行と先祖供養は儒教の専売特許じゃからの。今はお坊さんも若いから、はっきり「料金」として聞いたほうが宜しかろう。
2006.10.30
コメント(2)
バラモン(司祭者)・クシャトリア(王侯、武士)・ヴァイシャ(庶民)・シュウードラ(隷属民)、これがヴァルナ(四姓)制度の階級じゃ。世襲制度だから「奴隷」に生まれてくると、一生奴隷なのじゃ。バラモンは、人生を4段階に分けて考える、「四住期」という習慣を理想としていたのじゃよ。師の元でヴェーダを学ぶ「学生期」、結婚して後継者をもうける「家住期」、出家隠遁する「林住期」、最晩年、旅の途で死ぬことを目的とした「遊行期」の4期なのじゃ。一方、「沙門」と呼ばれた、新しい思想家は年齢に拘わらず出家し、森林や洞窟などに住み、施食を受けて修行に励んだのじゃ。ゴータマはどうやら、この沙門の影響を受けて出家したらしい。妻子を捨てて出家したのじゃから、とんでもない奴じゃのう。ところが、考えようによっては、王子様だから、妻子を残して出家できたとも言えるのじゃよ。ある意味贅沢なのじゃよ。まぁ、しかし、無一文になって、断食やら荒行、難業をするのだから、ご立派なことよのう。
2006.10.27
コメント(0)
釈尊」は七人」目の過去佛と言われる。過去佛がいると言うことは、未来佛もあると言うことじゃ。釈尊が入滅してから56億7,000万年後の未来に我々衆生をお救い下さるために、今は兜卒天(とそつてん)にあって修行をしておられる菩薩様を「弥勒菩薩」と言うのじゃ。菩薩と言うのは、仏陀(悟りを啓く)になるための修行をしているものを言うのじゃ。昔は「出家者」に対して言ったものじゃが、大乗仏教的にはみな菩薩じゃ。梵語(サンスクリット語)で弥勒菩薩はマイトレーイヤと言う。釈尊の時代では、出家して自らが悟りを啓いて解脱するために修行をしたのじゃ。それにたいして、在家でも修行できるし、自分の救済だけでなくみんなの(苦からの)救済のために「布施=行」を行うことが大切だとしたのが、「大乗仏教」じゃ。大乗というのは大きな乗り物と言う意味で狭い小乗の徒を馬鹿にして言った物なのじゃ。今はそれは差別用語だと言うことで「部派仏教」とか「上座部仏教」と言うんじゃよ。さて、お釈迦様、当時は「ゴータマ・シッダールダ」は釈迦族の王子様だったのに何故、妻子を捨てて出家したのでしょうね。
2006.10.26
コメント(1)
死にたくない、歳をとりたくない、病気になりたくない。生まれてきちゃったことはしょうがないとしても、生きていくって事は、大変じゃのう。「人間は社会的動物である」って言うじゃろ。渡る世間は、、、じゃないが人と人の間にも「苦」があるのじゃよ。たとえば「愛する者との別れ」「会いたい人に会えない」これを「愛別離苦」と言うんじゃ。次に会いたくない奴に会っちゃう「怨憎会苦」。欲しいものが手に入らない、大事にしているものが奪われる「求不得苦」。そして自分の体(五感)が自分では如何ともしがたいという「五蘊盛苦」。この四つを足して八苦なのじゃ。最後の「五蘊盛苦」は前の七つの「苦」の総合と言う説もある。仏教では「愛してはならぬ」と教える。「愛」は「渇愛」である。喉が渇くからと言って、塩水を飲めば飲むほど喉が渇く。「愛」は「執着」(しゅうじゃく)であり、これが「苦」の根源である。四苦・4×9=36苦、八苦・8×9=72苦、合わせて108苦。これが「煩悩」の数と言われておる。除夜の鐘が百八つであるのは、この煩悩を祓って「無病息災」を祈念するためなのじゃよ。
2006.10.25
コメント(1)
本日はブログ第一話じゃ。よく、金も暇もなくて四苦八苦しているというのを聞くじゃろ。これは仏教から来ているのじゃ。インドではお釈迦様が生まれる前から、「輪廻説」というのがあって、人は生まれ代わり、死に代わりして何度もあの世とこの世を行ったり来たりするのじゃ。「一切皆苦」とされるのこの世に生まれ変わらないためには「解脱(真理を悟る)」して涅槃」に入るしかないのじゃ。悟りを啓いて涅槃に入った人を「仏陀」と言うのじゃ。涅槃に入ると、もう「苦」の現世に生まれ変わることはないのじゃ。この世に生まれて来るということは「苦」が始まると言うことなのじゃ。「苦」とは「欲」の裏側じゃ。そうでありたくない、と執着するから「苦」が生ずるのじゃ。
2006.10.24
コメント(4)
全6件 (6件中 1-6件目)
1