セカンドライフ 60代の健康 

セカンドライフ 60代の健康 

PR

×

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

毎度楽々

毎度楽々

Comments

ひつじの女 @ 久しぶりです ゴルフブログは、自分の趣味と合い楽しい…
Allora @ Re:変だと思いませんか?(03/09) 確かにそうです。 時代の流れ・社会の雰囲…
Allora @ Re:御礼(12/31) お元気でしたか。 パタット書き込みが途…
Allora @ Re:事件について(11/21) 犯人像として「旧社会保険庁職員」ですか…
毎度楽々 @ Re[1]:ユニクロで買い物(11/17) Alloraさん >ユニクロの物は結構持ってます…

Archives

2026.08
2026.07
2026.06
2026.05
2026.04

Favorite Blog

2026年 8月からのテ… New! 料理長54歳さん

真昼間から・・・ 潤翠。さん

土曜日の書斎 別室 monochrome45さん
Camera di Allor… Alloraさん
simarisu blog2 シマリス2さん

Calendar

2007.10.10
XML
カテゴリ: 雑学のまとめ

このブログをご覧頂きありがとうございます。

前回、前々回と「斜陽に立つ」という毎日新聞日曜版の小説を元にしてブログを書きました。

今回も、歴史ネタです。

幕末から明治維新に至る過程で疑問に思うのは「尊皇攘夷」の勤皇の志士たちが京都で盛んにテロをやって反対派を暗殺をしたり、長州藩に至っては軍事行動をするのですが、明治維新となってみると不思議と「尊皇開国」となってしまっています。

幕末には「尊皇攘夷」「勤皇佐幕」「公武合体」「開国」などの各論があったようです。

尊皇攘夷は、天皇を中心としたわが国を犯すものは打ち払い(つまり攻撃して)鎖国を継続すべきというものです。勤皇佐幕は、朝廷を補佐する機関としての「徳川幕府」体制を維持して外国からの侵略に立ち向かおうというものです。公武合体とは公家と武家、つまり京都にいる天皇を取り巻く貴族と江戸にある幕府が政策を一致させて政治を行おうというものです。

攘夷の考え方は、京都の公家衆の一部に見られた考え方のようです。日本を侵す外国勢力から朝廷を守れという意見でしょう。幕末の最大の政治論争は「攘夷か、開国か」でした。ペリー率いる黒船が浦賀にやってきて幕府に迫った出来事でした。1年間の猶予をもらうのですが、「日米和親条約」を結んでしまいます。

この時に幕府内でも「攘夷か、開国か」という論議ありましたし各藩のなかにもそういう議論があったようです。そして、外交権は天皇にあるのか、天皇から委任された幕府にあるのかという問題が生じてきます。

楽々が不思議に思うのは、「鎖国」した時には朝廷の許可などをとっていないと思います。そして、オランダ使節、朝鮮使節が日本に来航しても将軍に謁見しても天皇には謁見していないと思うのです。つまり、幕府の力が強い時は幕府が専一して外交権を行使していたわけです。

幕府の統治体制の緩みもあったと思いますが、ここから「尊皇攘夷」というような過激な思想主義が増殖するようになります。鎖国を続ける、異国とは貿易も往来もしないという考え方はそもそも「幕府」が決めた事です。朝廷から命令されたものではないのです。しかし、尊皇攘夷は朝廷の意向であるとして「勤皇の志士」が暗躍するわけです。

黒船来航によってそれまで幕府の力でねじ伏せられていた天皇を取り巻く公家衆の先鋭化した人々が幕府批判を始めます。この先鋭化した人たちが岩倉具視、三条実美などです。そして、長州藩が蜂起して蛤御門の変(禁門の変)を起して会津薩摩連合によって京都から駆逐されます。この時の火災で京都市街は「どんどん焼け」状態になります。天皇を味方につけ、京都を大火災に巻き込んだという理由で第一次長州征伐の原因となるのですが・・・

ここで不思議な事は、長州藩の尊皇攘夷の姿勢です。長州の尊皇攘夷も藩論が統一されていたわけでなく慎重派もいました。蛤御門の変の後に武闘派である尊皇攘夷派は慎重派によって粛清されます。遠く「関が原の戦い」「大阪冬の陣、夏の陣」で豊臣方についた毛利藩は創業の地である広島を追われて「周防、長門」の2国の大名として追われます。この事を幕末まで恨んでいたのでしょうか?領土回復の野心を260年間も維持していたのでしょうか?

慎重派もいたということですから、野心を維持していたとは思えません。徳川幕府を長州藩と同じで「朝廷」の御墨付きをもって諸大名の頂点にいるにすぎないと考えいたのでしょうか?だとすれば朝廷が徳川幕府ではなく「長州をこれからは幕藩体制のトップにする」と言う事を武闘派は期待したのでしょうか?

詳しいことは置くとして
ペリーの浦賀来航から明治維新までは15年ほどですが、この間に日本国内の「尊皇攘夷」という考え方から「尊皇開国」となって行く過程で多くの人が意見を変化させていきます。歴史は勧善懲悪のように簡単ではなく、政治権力闘争であり戦闘を伴う行為でもあり、無数のテロや弾圧抑圧もありました。

ニュースで伝えられる「ミャンマー軍事政権」などを見ていると明治維新の頃の日本を想起してしまうのですが・・・

亡くなられたジャーナリストの長井さんが「生麦事件」で薩摩藩士に殺されたイギリスの兵隊に思えるのですが・・・・大名行列を下馬せずに大名行列を乱したという理由で日本刀で惨殺した事件でした。

明治の時代となって「攘夷派」であった公家や新政府の要人が「2年間」という長い時間を掛けて 岩倉使節団 としてアメリカ、ヨーロッパを見聞して「開国」へと切り替わったようです。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007.10.10 09:51:20


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: