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2023.06.01
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テーマ: 読書(8559)

書名



私のものではない国で (単行本) [ 温又柔 ]

目次


1 “日本語”は私のものでもある
2 “縛り”をほどく対話
3 読み、詠い、祈るものたち
4 “中心”とはどこか

感想


2023年117冊目
★★★

はい、私また勘違いしていました。

2022.05.01  彼岸花が咲く島 [ 李琴峰 ]

の方が書いたエッセイだとばっかり…読み終わってもなお気づいていなかった…。


1980年、台湾・台北市生まれ。両親ともに台湾人。幼少期に来日し、東京で成長する。2009年「好去好来歌」ですばる文学賞佳作、16年『台湾生まれ日本語育ち』で日本エッセイスト・クラブ賞、20年『魯肉飯のさえずり』で織田作之助賞を受賞。



けれど「日本語がお上手ですね」と言われる。
名前でガイコクジンだと区別される。
そのことに対する違和感と不快感。
自分がどこにも属していない感じ。
そして同時に自分が特別であるような。

「私達日本人は」。
そういう言説を何事もなく流せるのは、なぜか。

「わたしたち」と、私も使いがちだ。
それは、(黄色い肌をして、黒い髪と目で、日本語を話して、日本の文化習慣を身につけていて、日本人の両親から生まれ、日本国籍を有している)「わたしたち」。
そこからはみ出している存在なんて想像もしない。

2023.04.06  ジャクソンひとり [ 安堂ホセ ]


著者は自分を「在日台湾人」というよりも「台湾系日本人」というほうが自分にぴったり馴染む気がするという。
これ、

2020.11.04  アフリカ出身サコ学長、日本を語る [ ウスビ・サコ ]
2021.07.07  アフリカ人学長、京都修行中 [ ウスビ・サコ ]
2022.01.17  ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」 [ ウスビ・サコ ]


日本人であること、の型は一つという幻想。
その鋳型にハマらない者は日本人ではないという意識。
歴史的な経緯があるとはいえ、そろそろその認識を改めないといけないだろう。
ジャパニーズを修飾する言葉がたくさんある世界になる(なっている)。

私は鋳型のイメージをスライムに置き換える。
それはドロドロしていて、てろてろと流れる。
青のスライムは溶けて、黄色のスライムと境界で混じり合う。
そこはグラデーションを持った緑色になるだろう。
赤のスライムとなら、紫に。

著者は本が好きで、文字を覚えてから日本語の本を読み、自分が物語を書くようになって、そこに登場する人物が皆日本人であることを不思議に思う。
そうじゃない物語があるのではないか。
著者は、言語は眼鏡のようなものだと言う。
生まれたときにかけた眼鏡が一体化しているけれど、それは裸眼じゃない。
言語を行き来することは眼鏡を掛けかえること。

私は小学生の頃、日本の物語だけが溢れていることがどうしても気持ち悪くて、翻訳された海外の児童書(それも今考えれば、アメリカやイギリス、フランスなんかに偏っていたわけだけど)しか読めない時期があった。
日本語で書かれる物語が自分にしっくり「はまらない」のは何故なのだろう。
聞き覚えのあるような名前の彼ら。
「私と同じ」である子どもの彼らは、あまりにも違い、あまりにも遠い。
海外の物語であれば、その違いをただ文化の違いだと、別の国の物語だからだと受け入れられる。

日本語で描かれる日本の世界に対する疎外感。
生まれついた眼鏡で見える世界が歪んでいたのなら。

彼女とその感覚を共有しているように思い、けれど彼女がファミレスで「〇〇ちゃんのお母さんって日本人じゃないから」と話をしていたママ友たちに「何人ということは関係がない」と言った場面は、「それはちょっと」と思った。

そこまで言う必要ある?いや、正しいんだけどさ。それはひとつの逆の力の使い方過ぎない?

で、私が感じたその「えー」という気持ち、これって何かに似ているなと思った。
自分が言われたことがあることに。

聞き流せばいいじゃない。それくらい我慢できなくてどうするの。たいしたことないよ。そんなこと生きていればいっぱいあるでしょ。たかが〇〇くらい。目くじら立てること?あーこわ。これだから✕✕って。だって✕✕であることで良い思いすることだってあるでしょ?得していることは言わないんだよね。下駄履かせて貰ってるのにさ。どう感じるかなんて人によるでしょ。被害者ヅラしていればいいんだもんね。

あ、これって「女だから」と一緒だな。
著者も書いている。

私はポストコロニアリズムの問題とジェンダーの問題に強い関心があるんです。2つの問題の核は、密接に繋がっている。というのも、植民者は被植民者に対して、「かわいい」「育てがいがある」から、「進歩させてあげよう」「教育を施してあげよう」というような態度で接しがちです。被植民者のほうもまた、力のある者の庇護下で「成長したい」「相手に認められたい」と望んでしまう。こうした、出発点からして不均衡な関係性というのは、社会的にも肉体的にも「力」を持つ男性と、「知識を得たい」「学びたい」と願う女性の関係と通じるものがあるんじゃないかと。


そして、思う。
誰かが何かを口にする時(著者は自分の正しさに溺れることなく言葉にするべきことをしたいと願う)、その言葉に嫌悪感を覚えるなら。
自分がそのマジョリティに属し、その偏見と特権に浴しているからだ。
誰かがそれにより傷ついているのだと知らされる。考えろと迫られる。
まるで無防備なところを攻撃を受けたように感じる。
反抗されたことへの不快感?
痛いと言われたその傷を「たいしたことない」という権利が、誰にあるのか。
血を流す相手に、そんな傷たいしたことないだろ、平気なふりをして笑えと。

この本を読んでいて、何度もその自分を突きつけられた。

マジョリティはマイノリティに「どうして?」と問う、少数派の個はそれに答えなければいけないという圧力があるという指摘。
たしかにそうだ。
無邪気に尋ねていた。
おそらく相手からしたら、うんざりするほど問いかけられた問いを。

あるいはマイノリティの文学を好んで読むこと。
それはマジョリティの「マイノリティの物語にも感情移入できる私達」を満たしているだけではないかと著者は述べる。
そうかもしれない。
「どうして?」その問いを、パッケージとして消費するために。

先日会社で、日本語が不得手なベトナムの人たちにもわかりやすいよう、ユニバーサルデザイン的なことが出来ないかと(日本語にふりがなをつける&ベトナム語併記とか)提案してみた。
偉い人の答えはこうだ。

「日本に来たなら、日本語を話すべきでしょ」

相手が自分たちに合わせるべきだ。フランスだってそうでしょ?フランス語話せないとフランス人じゃないって言うじゃない。日本も同じだよ。日本語を話してもらわないと。

会議の最中で、私は口を開けて、閉じた。
言うべき言葉があったのに、言えなかった。
フランスと日本の違い?言えるけど、そこまで詳細なデータを語れるわけじゃない。
私だって、マイノリティを擁護している気になっているマジョリティに過ぎない。
自分は違うのだといい気になっているだけなのかもしれない。当事者でもないのに。

でもそこに、「わたしたち」と語れない存在を、織り込み済みにしておきたかった。
「わたしたち」を広げて行きたかった。
「わたし」と「あなた」を、溶け合うそのあわいの色を。


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最終更新日  2023.06.01 04:29:28
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