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2023.06.08
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書名



ものがわかるということ (単行本) [ 養老 孟司 ]

目次


まえがき
第一章 ものがわかるということ
第二章 「自分がわかる」のウソ
第一章 世間や他人とどうつき合うか
第二章 常識やデータを疑ってみる
第三章 自然の中で育つ、自然と共鳴する
あとがき

引用





感想


2023年123冊目
★★★★

世間とズレちゃうのはしょうがない [ 伊集院光×養老孟司 ]
養老先生、病院へ行く [ 養老孟司×中川恵一 ]
ヒトの壁 [ 養老孟司 ]
地球、この複雑なる惑星に暮らすこと [ 養老孟司×ヤマザキマリ ]
年寄りは本気だ はみ出し日本論 [ 養老孟司×池田清彦 ]
科学のカタチ [ 宮﨑徹×養老孟司 ]
養老先生、再び病院へ行く [ 養老孟司 ]

養老先生の話が好きで、最近いろいろ読んでいます。
この本は、これまで読んだ本のなかでも一番良かったかも。

先日、「『子ども』という存在」みたいな内容の講演を聞く機会があり、「へええ!」「ほおお!」と色々刺激を受けたのだけれど、同時に違和感が拭えなかった。
それは、彼ら(児童の発達を研究している人たちや、実際に現場で働いている人たち)の言う「子ども」という存在が、まるで私たち(大人)とは違う、別次元の異星人みたいだと思ったから。

子どもは、すごい。


けれど、彼らが語る「子ども」は、延長線上にある「私たち」(大人)とまるで繋がっているように思えなかった。
隔絶された生き物。
種が違うかのように。

彼らは言う。
子どもは自由であるべきだと。

子どもは指導される存在ではないと。

ちょうどその後にこの本を読んで、その理由が分かった。
子どもは、「自然」だからだ。

都会には、人間が作ったものしかない。
自然は、人間の管理監督下に置かれるものだ。
社会的・経済的価値があれば有用とされ、そうでないものは邪魔者扱いされる。
養老先生は、都会の暮らしを「ああすれば、こうなる」合理性が徹底的に追求された社会だと言う。
都会において、幼児期はいきなり大人になれないから「やむを得ない」必要悪の時期に過ぎない。
しかし、「どうなるかわからない」「どうすればいいかわからない」、計算しても結果がでない、それが自然であり、子どもなのだ。
養老先生は、少子化と地方の過疎化は同じ現象だと言う。

養老先生はまた、こうも述べる。
情報化社会では、自分という存在が「情報」になる。
一度出力されたら変わらない「不変なもの」になる。
けれど本当は、人間は絶えず変わっていくものなのだ。
不変が前提になると、人は死(変化)を理解できなくなる。
そして情報化社会で一番苦労するのは、一番速やかに変化する人たち(子ども)である。

大人は、子どもを管理しようとする。
将来のために、「こうすれば、こうなる」ために。
私はたぶん、その視点から「子ども」を見ていた。
そのうえで、「よく管理する」ことを考えていた。無意識に。
完成された存在(労働力のある大人)を前提にした、不動で不変が当然の世界。
それは喩えるなら、「空き地」に建てるものを「より良い施設」にしようとするような。

けれど先だっての講演でほかの人たちが言っていたのは、「自然」としての「子ども」だ。
それは「空き地」ですらない。
野山、里山みたいな、境界のないもの。
養老先生は、自然(子ども)に対して出来ることは、ちゃんと世話して育てるための「手入れ」だけなのだと言う。

私が、「子ども」と「大人」の間に隔絶を感じたのは、相反するものをひとつのラインに並べていたからだ。
では私たち(大人)は、いつそう変化していったのだろう?
徐々に、自然から自然でないものへ。

で、ここらへんまで来て、ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出す。
やっぱりこれって「資本主義」と無関係ではない。

人新世の「資本論」 [ 斎藤幸平 ]
主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら [ チョン・アウン ]

少子化に対して「産めばお金を出す」という政策に「そういうことじゃないんだよな」と感じるのも、同じ根っこだろうか。
あるいは二酸化炭素の排出量を取引することに対する違和感もまた。
「ああすれば、こうなる」?



タイトルの『ものがわかるということ』。
それっていったい、どういうことなのでしょうね。
たくさん何かを知っていること?否。

養老先生は、若い頃は勉強すればなんでも分かるようになると思っていたのだそうだ。
自分がどこにいてもなじめない。世の中のことが分かっていないからだ。
本のように世界を読めば、社会のことも人の心も、分かるようになるのではないかと。
まえがきのこのくだり、幼い頃の私の渇望と同じで、社交的で人好きして人から好かれる(ように見える)養老先生もそうだったのかと驚いた。

自分の心を読むためには、一度自分の外に出なければならない、と養老先生は言う。
地球は青かったと知るように。
自分が変わるためには、部分的に死んで生まれ変わることが必要であるーーー。

細胞もそうだ。絶えず死に、生まれ変わっている。
その上で私は私である。
情報はそれを固定化してしまうんだろう。
変わっていく自分でもなお自分であること、を許容しないというか。
刹那の自分を「自分」とし、転向を、自己矛盾を許さない。

前に読んだ本に、生きるとは下りのエスカレーターを絶えず登り続けていること、というような表現があった。
そこにいて動かなければ、エスカレーターは進んでしまう。
動いていないように見えるようで、動いている。
変わり続けている。

私は子供の頃、世界のマニュアルが欲しかった。
この世界にある膨大な本を読めば、この世界のことが分かるのではないかと思った。
いつ悲しめば良いのか、いつ泣けば良いのか、いつ笑えば良いのか。
どう振る舞うのが正しいのか、眉を顰められないのか、叱責されないのか。
祈るように、貪るように本を読んで、読んで、読んでーーー、

分かったような気になっても、さっぱり分からない。
分かったと思った次の瞬間には、新しい疑問が頭をもたげる。
なぜ?どうして?
世界は広く、私が知ることが出来るのは僅かばかりに過ぎない。
「ああすれば、こうなる」のではなかったの?
たくさんのパターンを読んで学んでも、その数には限りがない。
私は、世界のマニュアルは多種多様で十人十色であることを知った。
残念でした、唯一無二の秘伝書は存在しない。
永遠に「わかる」ことはない。
私がエウレカ!と叫ぶ瞬間は訪れない。

でも最近、それでいいのだと思える。
それがいい。それでいい。
私は、わからないが楽しい。
世界は広くて、途方もなくて、手に負えなくて。
きっと死ぬまでわからないままで。
私の「なぜ」に、永遠に答えは出なくて。
だから、私はいつだって未知の世界におずおずと触れては熱くて火傷をしたりしながら、学び、知っていく。
ちっぽけな自分の人生を、誰にも渡さないために。

養老先生は言う。
わかろうとする努力は大切だが、わかってしまってはいけないのだ。


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最終更新日  2023.06.08 00:00:15
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