シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2005年11月30日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 孔子が、「過ちをみて、なおさざるのが、真の過ち」といったことは、前回書いた。この意を簡単に解説したい。

 昔から、「過ちは2度と犯すな」という諺のような戒めがあるが、一度は本人の自覚もないまま、過ちを犯すことは日常的である。問題は、その過ちをいかに処理したかであり、処理法により善にも悪にもなるということだろう。人生のなかで、過ちはきっかけにすぎない。

 「犬も歩けば棒に当たる」くらい、人間も生きてれば、様々な過ちにぶち当たる。それが苦であり、病であり、死であると説いたのが御釈迦さまである。この世にそれらの悪が存在する意味が、ここに見い出される。

 「悪をみて、救わざることが、真の悪」と、御釈迦さまは言ったことだろう。親鸞聖人は、それを「善人もて往生を説く、況や悪人をや」といった悪人正機説で表した。

 神秘学では、このことこそが、本来の生きる目的であり、自らの自我強化につながるとしている。善と悪を判断するべき意識は、その副産物にすぎない。

 また更に、武士道を表す「義をみて立たざるは、勇なきなり」との格言も、上記を表現しているように思われる。儒学では、勇は三種の神器の草薙の剣にあたるとしていることも、前に書いた。

 一体、勇気とはなんだろうか? 



 人間は、この世に祝福されて生まれてくる。愛情という甘さのなかで、人生の一歩を歩みだす。保護者が必要なのは、この生きることに対しての、まず甘さが必要だからである。それは、植物の種のなかにある生命の核が、内気から、殻を破って外気に向かう、いわば地の天に対する憧れと大地の温かい温もりを濃縮し縮約したものだともいえる。

 生命のはじめには甘味が必要となってくる。茶道にはそれが見事に表現されているという。

 大まかにいうと、はじめのお茶は苦味のなかにほんのり甘さが感じられ、それに馴れてくると、苦味のなかの辛さが感じられ、それが板につくと、渋みがでてくる。そして最後は水のように淡としてくる。これは、お茶が変化したのではなく、人間のなかの味覚が変化していった結果だといわれている。

 「君子の交わりは淡として水のごとく」とあるように人間関係も練れてくると、淡き水の如くであるという意である。これは理解し易い言葉のように思えるが、実際、難解で奥深い。

 実際、人間の成分の7割は水からなっているとされる。だから、人間関係は、水と水との付き合いともいえるだろう。人間関係の商売を水商売ともいう。水のなかでも純粋で、純度の高いものが、淡のような微細で繊細性をもつと同時に大胆で、光輝くかのごとく自然の水の如くで、生命的であるというわけなのである。淡は最高の水という意味である。仏教の微細身とも符合しそうなものだろうか? 仏陀は水星で象徴される。

 清き水は汚れたものを洗い流すような救いの性質をもたらす。

 エゴや情念、欲望が多いと、その水は濁ってくる。無色から有色になるわけで、そこに味が生まれてくる。無色が味がないかというとそうではない。光のようにあらゆる無限大の味があるが、それが偏向していないということであるようだ。

 つまり全ての味を味わうことができるので、同時に全ての味を断念できるわけだ! あらゆることに精通し、知り尽くしたので、節度をもちえるということだ! とどのつまりは、あれもこれも味わいたいという欲がない。どんなものも味わえるという逆説を意味する。

 その奥義に達するにはひたすら過ちを正していく作業の連続だということだろう。

 神秘学では、人生のなかで、その奥義に達することができた人は、死後、モーセの十戒が、自らのなかで賛美歌のように鳴り響くという。そこに行き付かない者は、閻魔様にいままでの罪状を述べられるという。

 なぜならば、人間はほとんど水でできているからである。神の光がそこに当たると、濁った分だけが、浄化せず自らの水のなかに残るわけだ!



 大海で、浄化されないものは塩として残る。人生はよく塩の味に例えられる。甘塩は、浄化された辛い部分の名残りともいえるだろう。





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Last updated  2005年11月30日 14時56分49秒
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