シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2006年01月13日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 宇宙の存在そのものを表現しているのが、道徳であるといわれる。宇宙を、神々とすれば、道徳からなっているともいえるだろう。何事も道にはじまり道に終わる。東洋哲学では、道は、宇宙普遍の法則とされ、徳は、その宇宙普遍の法則が、人間に現れた様をいう。人間の徳性は、宇宙の道によるといわれる由縁であろう。

 そのことは、以下の老子の出典からもわかるだろう。

 力に頼る者はろくな死に方はできない

 この上なく柔らかいものは、このうえなく堅いものを、意のままに動かすことができる

 では、これらの意味を、神秘学から、できるだけ解説してみたい。

 「道」とは宇宙の普遍法則なので、いうなれば、宇宙に、道がひかれているわけである。神々により、人間の進化たるべき神への道はひかれているのである。だから、日本の宗教は、神への道、つまり神道というのであろう。

 神々が、その神性から、愛を込めて道をひいているのに、その道を歩くことなくして、容易に進化へと続く道に辿り付けるのだろうか? 勿論、人間の自由をも認めるために、道を自ら切り開く力も、人間にお与えになったわけだろう。

 「道」という字は、人が首を掲げて歩くことの象徴像からきたという。



 つまり、道は、天と地の作用からつくられ、人間が歩くところとしているものである。

 神秘学では、天の作用は、23の精神世界、つまり、黄道十二宮、七惑星、太陽、月、地球、人間の関係であり、地の作用は、物質世界のことを意味する。人間は、精神世界から、物質世界に送られ、頭部から人体をつくり、地に活動し、精神を開拓していく生命体であるといえる。

 これをコンピュータの世界で、例えて考えるとわかりやすい。

 何度も書くが、神秘学では、人間を次の4つの体からなるとしている。
  1.肉体(からだ)、2.エーテル体(いのち)、3.アストラル体(こころ)、4.自我(わたし)

 これを、コンピュータで大まかに例えると
  1.ハード、2.ソフト、3.電力(エネルギー)、4.作業者(思考)
 のような感じであろう。ちなみに、東洋哲学用語では、1.肉、2.気、3.念、4.我 だろう。

 1と2は、コンピュータの部分で、3と4は、コンピュータの外の部分といえる。

 人間も、覚醒時は、肉体、エーテル体のなかで、アストラル体、自我が活動しているが、睡眠時は、肉体とエーテル体を残し、アストラル体、自我は宇宙空間へと、出て行くとされる。

 コンピュータで例えた場合、ニューラルネットワークは、人類全体の人生を意味し、個々のニューロンを模した起点は、個人の人生と模すことができる。その際の、情報のフィードバックによる起点の重み付けが、輪廻転生によるカルマにあたるだろう。



 しかし、このニューラルネットと、人間の大きな違いは、自動で行われるか、自動ではない、意志によるものの違いである。つまり、ニューラルネット自体は、コンピュータ内の虚構であり、その現実は、コンピュータの外にある実体の鏡である。

 恐らく、人間の魂は、各自の脳にこのような構図を形成させ、ニューラルネットは、この脳の構図を模した由来からくる、相似構造になっているのだろう。いわば、人間の魂が、脳にそのフラクタル(階層)構造をつくり、脳が、ニューラルネットというフラクタル構造をつくっているともいえる。

 神秘学によると、人体の肉体の、堅い部分は、柔らかい部分から動かされ、肉体は、より精妙なエーテル体から、動かされ、エーテル体は、より実体の精妙なアストラル体に動かされ、アストラル体は、より精妙な自我により動かされるという。

 物質は、力から構成される。現代物理学では、4つの力を根源としている。力は、ポテンシャル、エネルギーによるとされるが、エネルギーは何によるかは、わかっていない。ただ、エネルギー保存則があり、宇宙のなかに、エネルギーが満ちているとしているだけである。だから、数学的記述による負のエネルギーの概念が、物理学により規定されている。負の概念を使えば、打ち出の小槌のように、いくらでも正のエネルギーを取り出すことができるからである。現代物理学では、このような負のエネルギーからなる負の世界(ダークマター)が、我々の正のエネルギー世界よりも大きいとしている。

 ここにきて、科学こそがファンタジーではないのか?と思うだろう。無限にエネルギーが取り出せるのなら、エネルギー問題に困るはずはないだろうからである。そもそも、有限だからこそ、我々の物質世界が成り立つのだから。負のエネルギーなどは禁じ手ではないのだろうか? 科学は厳密だというが、ただ目をつぶっているにすぎないのではないか? 科学こそ、矛盾を含むものはない。科学は、実験結果を論理的土台にしているから、いくらでも飛躍できうる。



 結局、科学は科学の世界でしか成り立たない。つまり物質的世界での話なのである。生物に当てはめる代物ではない。それも、事象が生じた後の物質的分析、考察にすぎないのである。それはしばしば、それを行う個人の体験にだけ、意味をもつ、個人体験の法則なのである。科学の法則が、誰か発見者の個別的体験から生じたものであり、その体験を共有できない限り、普遍的真実ではありえない。

 だから、科学は科学的態度、他の労働者と等しく、科学者が、その体験を積み重ねることに意味がある。魚が水の世界でのみ、生きれるようなものである。科学を否定しているのではなく、より厳密に科学的条件を限定してるだけのことだ。適用限界を明確にし、より科学を肯定しているのである。自由な思想を限定しているのではなく、より道徳的にしているだけのことだ。科学の法則は、科学の言語空間にのみ生きることができる。

 日常の生活空間にそれを用いることは、あまりに寂しい体験を生じうるものだろう。科学では、知識は教科書からくるというだろう。だったら、教科書は宇宙より大きいものでなければ、あまりに貧弱だろうし、寂しすぎるだろう。第一、多様性や個性が感じられない。

 知識はどこからくるのかといえば、事象からくるのである。事象そのものが知識集合体であろう。それは、言葉で表すことはできないのが真実だろう。人間は感激したときに、言葉を失うことが、これを示しているだろう。

 神秘学でいえば、神々からくるものが知識であるだろう。それは人間を介した時点で、誤りを含むものとなるからである。

 ギリシャ時代、あらゆる事象は神々の顕現だと考えられていた。

 神秘学では、エネルギーは神々の叡智であるとされる。いわゆる道徳である。道徳は、いわば宇宙のエネルギー保存則を満たすものであるだろう。

 力に頼るもの。人間の知識力に頼るものは、ろくな死に方はできない。

 何かに頼るものは、死んだとき、そのものを失うからである。
 土台を失ったとき、土台に構築されたものは一瞬にして解消される。
 唯物論で生きるものは、死んだときに、本当に死んでしまうだろう。
 なぜなら、物質がなくなるからである。物質が解体されていくに従い、消えていくのである。

 そして、遺伝に頼るものは、それが故に間違いを犯すのである。

 人生のなかで道徳を学びとるものは、よりよく死に、生きることができる。





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Last updated  2006年01月13日 15時32分42秒
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