シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2006年02月20日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 神秘学では、物質世界の奥に、精神世界があるとしている。物質世界は、精神世界よりつくられたとする立場に立っている。それは、我々人間が、何らかの商品や製品をイメ-ジし、設計図を書き、材料を集め、モノを作るのと同じで、人工物は、人間によりつくられたように、この物質世界は、神々によってつくられているというわけなのである。

 人間は眠っているときに、この精神世界に滞在するといわれている。ただし、人間の4つの身体のうち、自我とアストラル体(こころ)が、滞在するのであるという。眠っている間は、エーテル体(いのち)と肉体のみが横たわっている。そしてそれを制御しているのは、人間の代わりの宇宙の自我とアストラル体だという。

 寝る子は育つという諺の意味はここにあると思う。

 人間は、精神世界に滞在するが、自我とアストラル体のなかには、感覚器がないので、精神世界を知覚することはできないという。物質世界にいるときは、肉体に感覚器を有し、物質を捉え、それに対する分別知も、エーテル体が担う記憶により有しているから、物質世界を知覚できるわけなのである。

 しかし、起きているときは、物質世界の知覚が優位なので、精神世界を知覚することはできない。このことを、古インド人は、マーヤ(幻想)と呼んだ。なぜなら、物質世界の知覚が、精神世界の知覚を邪魔するからである。

 太古、月の時代といわれる、現代の地球期以前の状態では、物質世界は存在しなかったので、月期人間は、精神世界のみを知覚できたという。その知覚の仕方は、いわば、精神世界の形象(イメージ)をみるような感じであったという。プラトンがいったイデアのようなものであろう。そのように喩えしか用いえないのは、我々の言語は物質世界を表すことを目的としており、精神世界を表すのには適していないからであるという。

 読み書きは、物質世界を表記するために発明されたという。

 この月期のイメージに近い表現は、我々が眠っているときにみる夢が、それに近いものだという。ただし、月期の場合は、精神世界の行為とその形象(イメージ)がある法則をもって認識しえ得たという点で、大きく異なると言う。現代人がみる夢は、あまりに言語教育が行き届いた為に、その影響で、全く精神世界とは対応していない混沌とした矛盾の多いものであるという。

 ちなみに、夢のない深い睡眠の場合は、月期の前の太陽期の太陽人間の知覚に近いというが、これも近いというだけで、実体はまるっきり違ったという。なぜならば、太陽人間には、太陽系で起こったことを全てその知覚で、知ることができたが、現代人は、もはや何の知覚もできない真っ暗闇の昏睡状態だからである。



 現代人はこのように、あまりに肉体にある感覚器を伴う分別知に頼ってきたので、自ら体験するのではなく、普遍的知識とされるもの、専門知識に依存して、いわゆるその分野の権威主義者が証明したとするものを、暗記による記憶により、肉体とエーテル体を形作ってきたため、肉体とエーテル体が、古代人よりも、密接に深く入り込んでいるという。

 そのため、ある意味、古代人よりもストレスを感じやすく、精神衰弱的であるといえる。太古人では、考えもつかない現代病の多くが、この肉体とエーテル体の密接な関係にあると考えられるのである。寄生虫やらウイルスに感染しやすく、アレルギーになりやすいのも、この物質世界に繊細過敏に反応している証ともいえるだろう。

 古代人が瞑想と精神的集中に没頭したのにはわけがある。それはできるだけ、寝ている状態である、アストラル体(こころ)と自我を、エーテル体と肉体から離した状態に近いものをつくり、物質世界から離れ、精神世界を知覚し、アストラル体(こころ)と自我に、精神世界を知覚するための感覚器をつくりあげることにあった。精神世界の感覚器とは、霊眼と霊耳である。仏教では蓮華(チャクラ)と呼ぶ、現代でも比較的分かりやすくいえば、心眼のことである。

 お釈迦さんも八正道のなかで、正しい瞑想と精神集中を唱えている。

 我々現代人でも、人工物の機械が故障あるいは調子が悪いときは、その設計図までいかなくても、説明図をみて、人工物がどのように構築されているのかを知って、直すだろう。これは、本来は自分で直さなければいけないところを、専門家分業のために、代換して、専門家に任せ、お金と信用で解決しているわけである。

 しかし、人工物でない、天然、自然の場合は、専門家は皆無である。我々は、原点に戻って、天然、自然をつくっているものを吟味する必要、洞察する必要がある。それを普遍的抽象的に求めるのが、科学であるが、これは、いわば、専門家に任せ、お金と信用で解決する方法で、生涯、依存心が残ることになる。金と信用がなければ、依存心から、不安に突き落とされるのである。

 対して、自らが自らの独立した人生を築き、責任をもって事象や体験にあたるならば、天然、自然の背後に、自らが生じた体験故の洞察力が浮かびあがる。これこそ精神世界であるといえるのである。実際に、神秘学では、この精神世界の存在を神々の世界であるとしているのである。

 ここに、依存心の代わりに独立心が生じ、物質のような一時の無常なものに、対する信頼の代わりに、自らの独立心、故の不変なる信仰心から、永遠なる神々への揺らぎない信仰が生じるのである。

 これは自らの責任と義務が揺ぎ無い限りにおいて、変わらないものである。私が私である故に、その信仰心は揺るぎがないのである。

 我思う故に我在りのごとく、我信じる故に神在りといえるのであろう。

 信じるものは救われると、キリストがいったことは、この意味であろう。



 物質世界に囚われることなく、その奥を見つめることが、瞑想や精神集中に求められる。すると、それに伴い、言葉や分別知に捉われない、体験が生まれてくるという。読み書きでは知覚できない精神を知覚できるようになるという。それには、日ごろの肉体の感覚器官を使わないように、瞑想し集中することであるとされる。

 知覚器官を、瞑想と集中によって内的に揺り動かし、自分のなかにある未組織のものを、組織化しなければならないという。

 天使や霊魂は読み書きができない。

 天然や自然の創造は、読み書きでなされるものではない。

 だから、それらと交信するには、読み書きから離れなければならない。そのために、太古では、瞑想や精神集中が行われたのである。



 現代人は、自分の知りたいことすべてに、秘儀参入なしに到達したいと思われている。

 そして、物質世界のみが自分に関係するという信仰を持つようになっている。

 このような信仰は怠惰な依存心から生じるものである。カネを払い地位を与えるから、専門家に任せておけばよいという無責任性、権威主義性からきているといわざるをえないだろう。これは科学主義というな名の宗教主義といわなくて、なんというのだろう。

 自ら努力して掴むことこそ、自らの故の真実といわねばならないだろう。

 一体誰のための人生なのだ!

 主である神にこそ仕えよ!汝の主とは、「わたし」という自我であり、それは自らがなすものである。他人任せにしてはならない。

 物質は決して主ではない。汝の肉体の主が、「わたし」という自我であるように、物質の主は、それをつくった精神なのであり、神々なのである。

 人間は神々の精神からなる、故に、「わたし」という自我が、理解できないことはない。ただ真実を求める努力と、他人任せにしている依存心や怠惰な安易な抽象的主知主義の無理解があるにすぎないのである。

 自ら真実を求めるために、体験という人生があるのである。





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Last updated  2006年02月20日 21時09分32秒
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