シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2006年02月21日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 昨今は、なんだか、巷では、般若心経がブームであるらしい。般若心経については、それぞれの捉え方があるだろうから、私の思うものを、有体に要点だけを述べたい。このことはとあるブログでのやりとりでも再確認したことなのだが、私風に、神秘学で述べたい。

 般若心経は、瞑想と精神集中に入る前の予備、準備の心得であると思う。

 前回で、精神世界は物質世界から、いわば解脱し、訓練することで、感じることができるようになることをまとめた。般若心経はその入門書だと思われるのである。

 そこには、空、無を感じろということが得々と述べられているように思われる。空、無とは、我々が、日常起きているときに感じる、感覚の物質世界の記憶の果てにあるものである。黙想とは、何も感じないことだと教えられるが、まさに、言葉によらない、いわゆる思考であろう。

 言葉にはできないが、いわゆるイメージの思考であるといえるだろう。一時期前に、右脳思考というものが流行った。これはイメージ思考だとされた、対して、左脳思考は論理、言語であるとされたが、脳科学ではそのように結果的にしか理解できないが、以前に神秘学で話したように、人間の左半分は、物質的で、右半分が、エーテル体(いのち)的であるとされるので、右半分の右脳が、イメージ思考であるのは、エーテル体(いのち)が活動している証でもあるのである。

 エーテル体(いのち)は、アストラル体(こころ)から制御されうるので、いわゆる肉体(物質)的思考の左脳の論理思考よりは、より精神的であることがわかるだろう。人間の場合、脳は、精神と物質を繋ぐ、いわば翻訳機の役目をするので、アストラル体(こころ)主体で翻訳するか、それとも、肉体主体で翻訳するかで、人間の意志(自我が司る)が決定する判断が正誤に関わってくる。

 アストラル体(こころ)主体で判断すれば、より精神に近い領域から視点が得られ、設計図が物質をつくるように、未来思考になり、現代で言うポジティブ思考になるが、肉体主体で判断すれば、物質に近い領域の視点から、情報が物質的に限定的な立場からやむを得ず判断され、知識的で、分析的で、より静的で、現状維持の方向になり、結果に拘り、過去に執着する形になり、いわゆる現代でいうネガティブ思考となるだろう。

 これは右脳思考が、しばしば限定された知識である言葉では表現できずに、左脳思考が、知識から言葉により常に論理的に表現されることで、示されるだろう。

 だから、お経を読むときは、言葉ではなく、こころで感じないといけないといわれるのは、正にこのことを言っている。有体にいえば、イメージで、思考することだと思われる。空や無とは、常識から自由になれ、言葉とか、論理に捉われるな、自由に思考を巡らせということなのであろう。そのことを心眼というのだろう。



 悪いことを行えば、悪いイメージが残る。悪いとは、その場限りの思考であり、依存的であり、破壊的である。なぜなら、それは物質が存在して初めて成り立つ思考だからである。逆に、良いことを行えば、良いイメージが残る。良いイメージは創造的なので、永遠である。そしてそれは精神そのものであり、独立したものだから、死んで肉体という物質を失っても、永遠に残るものなのである。

 よいものは、その創造者がいなくなっても残るものである。なぜなら、それは人のこころに永遠に生きるものだからである。

 だからして、般若心経では、永遠と言葉によらない、空や無を説くのである。なんだからわからないから、自らイメージ力、こころだけを働かそうとするのである。ただし、そこに般若心経が、人間を進化に導く有り難い教本であるという感謝する意志がなければならない。お釈迦さまのお言葉ならば、有り難いものであり、嘘をいうようなマヤカシではないという信仰がなければならないだろう。

 だから、般若心経に何が書かれていようと、そのこと自体は問題ではないだろう。いかに空と無を感じ得るかなのである。その態度を深めようとするのなら、何もお経でなくてもよいだろう、異性の肉体の本や恋愛の本でも可能ならばよいだろう。だが、それはいいすぎで、そのようなあまりに欲情を誘惑するようなものは、かえって幻想を精神性を欲望で歪め得るので、よくないだろう。あまりに動物的になってしまうだろう。また、学術書のような無味乾燥の専門用語の言葉で書かれていれば、物質的思考を誘発させるだろうから、これも論外であろう。

 お経が最も適当なので、それで感じられなければ、他の本はもっと、感じられないだろう。なぜなら、お経は物質世界でなく精神世界を基に書かれているのであるのだから。だから、ある意味、お経が分からないのはその通りなのである。物質世界の言葉ではわかるはずがないだろうし、物質世界の言葉で解釈したら、虚偽を生み、ウソになるからである。

 実は、聖書もお経のようなものなのである。精神世界を知らねば、わかるはずがない。聖書も物質世界の言葉である唯物論で歪められて解釈されている。これこそ、偶像崇拝の悪しきものである。イスラムのいうことは正しい。聖書を唯物的に解釈してはならない。それこそ偶像であろう。

 聖書にも、お経と同じように、空や無で感じとらなければならない。いわゆる心眼である。ギリシャ時代、聖書は実際心眼でみられたという。心眼で見た結果がヘレニズム文化を生みだしたのである。芸術や美術は、皆、心眼で感じなければいけないものである。常に精神的意味を問わなければならないだろう。

 天使や神々が描かれたのは、まさしく心眼でみたイメージ像なのである。

 物質的な知識言葉や論理思考よりも、空や無をいかに感じたかである。

 空や無のなかに、精神的な世界、躍動をいかに、こころというアストラル体に写し取ったかである。アストラル体のアストラルとは「星」のことである。実際、星はこのような精神像をもっていると神秘学ではいわれている。

 東洋では、空や無を、霊や仏と呼んだ。



 イメージ思考においては、物質世界も精神世界もない。ただ、そこに、それを思う私があるだけである。

 ただ過ぎ去ったイメージを悔やみ、これからくるイメージを恐れるのはなぜであろうか? それは、イメージを完全に、永遠の命の真実として、認識し、捉えていないからであろう。

 イメージはどのイメージも、「こころ」がつくりだす意味において変わりがない。すべては、「こころ」から生まれるものである。

 だからこそ、「こころ」を真実にイメージで満たすことが肝要なのである。

 さあ、がんばって、真実のイメージを生む「こころ」をつくりだそう。その「こころ」に真実の覚醒した「私」が宿るのである。





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Last updated  2006年02月21日 22時11分19秒
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