シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年03月01日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 被告が心身(神)喪失を理由に、裁判の判決を情状酌量の余地ありとする、精神病流行の昨今を象徴する無罪判決があった。なんでも、被告は、「悪魔にやれと命令された」というが、それが真実ならば、その悪魔そのものが、被告本人を餌として巣食っているといわざるをえない。つまりは、被告そのものが悪魔の化身といえるだろう。まだ「神に命令された」というならば、被告に善悪の判断はなく、百歩譲って、心身喪失の理由となるだろうが、悪魔とわかりながら、なぜ、従ったのか、不思議である。

 このような一見すると、被告の意味不明な言動は、現代の覚醒意識からすれば、心身喪失のようにみえ、このような問答は、「一休さん」という頓智アニメにあった、屏風のなかの虎を出してみろ、というようなもんである。

 心理学ではこれを心身喪失の状態として、未解明なままに結論を先送りしているようだが、現代脳科学の観点からすれば、この状態を、脳に何かしらの損失があると結論するのが妥当な線なのだろう。なので、責任能力無しとして、無罪になるのだろう。

 被告に、「では、その悪魔をここに出してみなさい」というわけには、いかないが、被告から、悪魔が出てくるまでは、とても、被告の言うことを信じることはできず、そもそも、自らの判断を放棄し、他者の命令を鵜呑みに行うことの、いわば理性を失ったその状態こそが、罪悪なのではないか?と思える。

 なぜ、他の誰でもなくて、悪魔なのか?、少なくとも悪魔が悪いことを命令したという判断は被告には認識でき、その悪因を悪魔のせいに帰している。この判断は理性的ではないとするなら、今度は、理性を失わせるに至る本人の自覚症状の有無が問題になる。こうなると、被告の日常の生活態度が、問題とされ、生涯に渡り、監視や管理が必要とされるだろう。

 悪魔に限らず、人からいわれたことの善悪の判断なく、すぐ鵜呑みにして、行う人格の持ち主なのか?ということになる。このような人物の場合、健全な生活を営むことは非常に困難だろう。日頃から健全な生活を送れ、逆にいえば、少なくとも、事故当時のみ、悪魔が憑依することは、考えられない。

 しかし、このような責任回避の姿勢は、いづれにしろ、何らかの連帯責任として、負うべきであろう。ましてや人が死んでいるのだから、無罪というのは、おかしい。法令上の責任能力が問われるのだろうが、殺人までいってしまえば、悪として、かえって責任能力を、充分に負わせべきものに思われる。

 では、秘教から考えてみると、もし、悪魔が取り憑いていたとするなら、取り憑かせた本人の責任にあるといえる。悪魔が取り憑くとしたら、悪魔と同じ考えをその人物がもっていたといえるからである。このような体質を霊媒という。霊媒は、秘教では厳禁である。とくに、悪魔を呼び寄せるのは、黒魔術といわれ、最も悪しき所業とされるのである。

 確かに、本人は無意識のうちに、霊媒体質を生じさせたと弁護するだろうが、それなら、なお一層、自らに刑罰を課し、意識的に行為を行うような訓練を課し、霊媒体質を改善しなければならない、甘んじて罰を受け、自らのなかから、悪魔に惹かれる部分を絶たなければならない。



 なので、秘教からもいえることは、被告は少なくとも悪と共犯であり、悪魔が実情の責任を負えない限り、被告が代わりに負わざるをえず、もし、犯罪を、悪魔のせいの類の発言に帰するとするなら、その発言の真意、いわゆる減刑の意図等が、全く見られないような状況、例えば、かえって重罪が課せられる場合であっても、その発言の正当性を訴えるかどうかにあるように思われる。

 地で行われる裁判は、天にも影響を与える。なぜなら、人間は、宇宙に対する小宇宙であり、天の裁きは地にも及ぶからである。

 被告は、地において、生きたときも裁かれ、死んで猶、生きたときの記録を基に、最後の審判が行われる。

 地においても、天においても、神の名において裁判は執り行われねばならない。

 地において、悪魔を見い出したなら、すみやかに裁かれる必要がある。

 「汝が、悪魔の命令に従ったならば、それは汝の神への信仰が無きに等しいことを意味する。だから、汝は無信仰の罰を受けなければならない。」

 「汝が、もし、悪魔ではなく、神に従ったと偽り、殺人までに及んだならば、神への信仰が偽りであることを意味する。汝は、偽りの信仰の罰を受けなければならない。」

 「もし、地において、なんらかの神への信仰への正しい道が得られないならば、決して、汝は天国に召されることがないことを覚悟しなければならない。」

 「汝が信仰を忘れ、悪魔の命令のなかに、神の名を呼び、助けを見い出さなければ、それ自体、罪といわねばならない。汝は、主たる神の名を忘れ、悪魔に魂を売りし者として、人々に記憶されるであろう。」

 「もし、地において裁かれなくても、全ては、汝の主たる神が、最後の審判で証言者として裁くだろう。そのときを待つなかれ!最後のときを待つなかれ!!」

 地においても、裁判は厳粛に執り行われるべきである。





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Last updated  2007年03月01日 21時34分06秒
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逃避する司法。  
武侯仁従  さん
>被告が心身(神)喪失を理由に、裁判の判決を情状酌量の余地ありとする、精神病流行の昨今を象徴する無罪判決があった。なんでも、被告は、「悪魔にやれと命令された」というが、それが真実ならば、その悪魔そのものが、被告本人を餌として巣食っているといわざるをえない。つまりは、被告そのものが悪魔の化身といえるだろう。まだ「神に命令された」というならば、被告に善悪の判断はなく、百歩譲って、心身喪失の理由となるだろうが、悪魔とわかりながら、なぜ、従ったのか、不思議である。

心神喪失は減刑等の理由として適切でしょう。マインドコントロー等邪悪な精神科学も発達してますし。
ただ、それで無罪は疑問。私は減刑で留めておくべきだったと。この件が逆に精神障害者への差別の助長にもなる。また社会の偏見の強化にもなるのでは?
かの事件の時以外はかの被告は正常に判断できると考えてます。で減刑で有罪の判決が妥当だったと。
ではそれをなぜ出来ないか?この手の精神障害や心理療法の要加療な受刑者を治療しつつ受刑させれる施設は日本には存在しない。また法務省・司法はその手のことに金も知恵も懸けない。
いま刑務所には結構「コミュニケーション能力の成長不足・困難」な受刑者が多数を占めている。かの人々の刑罰は行えても、更生の技能は叩き込めても、それを生かす「コミュニケーション能力」の涵養はなおざりである。現場の刑務官にそのことの愚痴を聞いたことも。

もう憲法・取調べの不透明等、司法の逃避は許されない。
再見! (2007年03月02日 18時22分51秒)

Re:逃避する司法。(03/01)  
5dolphin  さん
どうも現代孔明こと武侯仁従さま
 確かに、減刑が妥当のように思われますが、この種の差別の根底には、犯罪を犯したときの精神障害者の猶予にあると思うのです。また、刑が軽くなるのを前提にして、精神障害者を装うような人も問題です。
 法の下に何人も平等になるように、司法は、孔明さまがおっしゃるような施設、善悪の判断を有する責任能力を育成する施設が早急に必要ですね。
 これは現代心理学の盲点だと思います。幾ら心理的に説いても、精神障害治癒が成されない限り、つまり、善悪の理性的判断をもたせられない限り、心理学が何の意味をもつのか?不思議です。 (2007年03月05日 09時43分41秒)

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