シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年04月24日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 病気が前世の錯誤から生じることは、以前述べた。病気は、前世の人生のなかでの主に、利己主義による、感情の高まり、熱情性の欲望による誤りに対して、その誤りを改善する機会として、次の転生に、魂が、それを刻印することにより、今生の肉体に顕れるという。

 前世のなかの誤りの誘因は、悪魔ルシファーの誘惑によると、秘教では説かれている。このことが、病気は、悪魔によるものといわれ、聖書の原罪の説明ともなっている。

 また、今生において、病気に罹るのは、前世の過ちの代償行為なのであるから、実は、病気に罹ることは救いでもある。

 病気に罹ると、苦痛に襲われるが、苦痛があるからこそ、自らの罪深さを知り、それを改めようとする人間の行為に顕れるといえよう。もし、苦痛がなければ、病気に罹っても、それを克服しようとはせずに、罪深さを知らずに更に罪を上塗りするだけであろう。

 だから、病気に伴う苦痛は、癒しに通じるものであり、苦痛とは、人間の進化の正しい道に軌道修正するための警告であり、救いなのである。苦痛は、神々が与えた救いなのである。

 実をいうと、苦痛のない病気も存在するのである。この苦痛のない病気こそ、ヨハネの黙示録に預言された777の悪魔ソラトである悪魔アーリマンのことを意味する。

 苦痛のない病気に罹ると、魂は、実在を失い虚と化す。魂が虚と化さないために、器官は、損傷を自ら起こすのである。魂が虚となり、悪魔アーリマンの奴隷となる前に、器官自らの意志により破壊されるのである。

 だから、苦痛なく、病気が進行し、悪くなった器官は、自ら損傷活動を行い、破壊されることにより、魂が虚となるのを防ぐのである。



 器官が損傷し、破壊され、人間全体から除かれたとしても、病気が癒されたわけではない。それは悪魔の手の内に堕ちないための臨時の処置であって、除かれたとしても、前世の過ちの代償行為、つまり、現世における苦痛を体験し、精神的な癒しが成されない限り、根本から治癒したとはいえないのである。

 過ちを身をもって自ら体験しない限り、過ちを克服したとはいえないといえる。

 では、苦痛の体験、いわゆる精神的な癒しとはどういうことかというと、それこそが、愛であるという。

 愛とは、本来、言葉では語れないものであり、愛とは、そのような抽象的、物質的なもので表現しえないものである。だが、人間は、愛を実感できる。

 赤ちゃんが、母親の乳を吸う姿、母親に抱かれ眠る姿、或いは男女が異性を超えて理解しあうとき、或いは敵同士、隣人が憎しみを超え、理解しあうとき等に、誰しも愛を見い出すだろう。

 愛とは、1つになること、いわば一体感というべきものに例えられるだろう。

 なぜ、愛がそのような一体感を伴うものかというと、魂そのものが、愛からできているからであるという。

 魂は、希薄になった愛からなるという。それゆえ、魂は愛を発し、愛を求める。魂は完全な愛、完全なる球体、つまり完全体という愛の一体感を求めるという。

 この宇宙は、この愛と、もう一方の光からなるという。

 愛がそのまま光となれば、闇は生まれなかったという。だが、神々は、悪を転じるための善、悪を善になし、最善の善を求めるために、あえて悪を生ましめ、そこに悪魔ルシファーの野望が生まれたという。

 悪魔ルシファーは、光を愛に浸透させ、浸透する叡智を生み出したという。悪魔ルシファーにより、不純なる闇が生まれ、神々と離れた私で1つとなる利己的な自我が誕生したという。悪魔ルシファーの御蔭で、人間は神々の命令に背き、自由の身になったのである。



 人間は不純な光、闇をもつようになり、同時に、外界には多様な錯誤、ルシファーの不純な光と連動する悪魔アーリマンの物質の幻を信じるようになったという。

 これが聖書の原罪の意味であり、ここからわかるように、物質とは、光が硬化したもの、凝縮したものであるという。

 ちなみに現代物理学の素粒子論でも、QED(量子電磁力学)により、フォトン(光子)とウィークボゾン(核力の弱い力)は、本来同じものから生まれるとされている。超弦理論までいくと、超対称性により、電子のようなフェルミオン(物質粒子)と、光子(力媒介粒子)が本来同じものという見解が表れる。つまり、現代物理学の見解は、秘教に近づいてくるのである。

 シュタイナーは、電子は、光が凝縮したものに相違ないという見解をある講演で述べている。

 さて、話を戻すと、例えば、水が氷になるように、相転移するように、光が、周囲の影響から、硬化し、その境界に物質が生まれるとしているのである。



 つまり、闇の部分が、受肉において、病気を生じる要因となるのである。

 闇とは、魂のなかで、もはや愛では無くなった部分なので、魂のなかで、愛で満たされなくなった部分が、病気を生ましめるともいえる。

 だから、利己主義により、愛でなくなった魂の部分が、病気をもたらすのである。

 これを逆にいうと、病気を愛で克服することで、再び、魂を愛で満たすことができるといえる。

 つまり、病気を癒されるべき、苦痛と感じさせるのは、自らの魂に愛が足りないという警告そのものといえる。

 このような観点を、カルマから考察すると、現代的特徴が顕になる。

 前世の過失ゆえのカルマにより、現世に病気が課されるのを、魂の愛を満たすことで治癒せずに、なんらかの損傷を受けた器官を除いたり、機械的に補完することで、本来、体験されるべき苦痛が、回避されたとしても、魂の体験そのものは空疎、空虚なものとなり、かえって錯誤が錯誤を生み、複雑なものにならざるをえないといえるだろう。

 これでは、ただ、カルマの課題を先送りし、複雑にしているだけで、新たなるカルマの更なる深刻な課題が次の転生で生じるだけであろう。

 このように外的で機械的な技術により、健康な生活を通して、快調な身体を得て、物質的な生活を楽なものにすると、魂は、かえって反対の方法で影響を受け、その魂は、しだいに空虚さ、不満、満たされなさを感じるように影響を受けていくという。

 純粋に唯物論的な生活において一般的に求められるように、外的な生活が快適に、健康になればなるほど、魂には、自分のなかで、進歩するための励ましが少なくなり、魂の荒廃が平行して生じるという。

 そして、今日ほど、外的には快適な生活を送りつつ、荒廃した、怠惰な魂をもって生きている人々が多い時代はかつてなかったという。このような人々は、センセーショナルなことを追っかけ、金があれば旅行し、見物し、同じ場所に滞在するなら、毎晩娯楽を求めるという。

 しかし、魂は荒廃したままで、ついには何を求めればよいのかわからず、結局、外的な生活が健全で快適になると、魂は病気がちになるという。

 このような現代への課題は、正にいま問われている表面的な病気の治癒ではなく、愛の足りなさへの自戒の念といえるだろう。つまり、魂の錯誤の改善、つまり進化のために、病気が課され、病気の苦痛を通じて、自らの愛のなさを自覚し、愛を学んでいくといえるだろう。苦痛を十字架とし、背負い、苦痛を通じて、自らの癒しから愛を学ぶ行為は、キリストがゴルゴダの十字架刑で行った行為である。

 鞭打ちの刑に処され、弟子に裏切られ、自らの十字架を背負って歩き、その十字架に磔にされた苦痛、それは全て、人類の救いの為であり、人類の進化のためであることがわかる。この行為が聖書により原罪の克服とされたのは、この意味による。

 要するに、人類の魂の愛のなさを目覚めさせ、人類の魂への愛への目覚めを教えたのである。隣人を愛し、汝の敵を愛せよ。それこそが、魂の正しき進化の道であると。

 さて、このキリストの行為により、人間だけが、悪魔により十字架を背負わされた存在であるという。つまり、錯誤故に、なんらかの病気に罹る存在なのである。

 動物、植物、鉱物は、悪魔により十字架を背負わされた存在ではないという。人間のみが、進化の十字架を背負い、病気に罹る存在だという。勿論、ここでいう病気とは、魂の病気、錯誤から生じる病気のことである。動物、植物も病気のようなものに罹るが、人間の病気とは、根本的に質が異なるという。だから、なんらかの動物実験が成功を治めても、そのまま人間に通じることはないという。

 秘教によると、そもそも、人間の病気が、動物や、植物や、鉱物を基にした薬から治療可能なのは、人間以外には悪魔の過失、つまり魂の不純さが宿っていないからだという。つまり、人間の自らにある光のなかの不純な闇の部分が、動物や、植物や、鉱物の完全な光により、解消されるというのである。

 人間の叡智でもある悪魔の闇が、人間以外の種がもつ、光により克服されるというのである。人間のアストラル体の闇は、主に動物から採取された薬剤により克服され、エーテル体は植物、肉体は鉱物の薬剤が主であるという。

 このことを、パラケルススは、自然のなかに、人間の病気を癒す薬剤(プロセス)が存在するので、自然を注意深く観察しなさいと説いたという。

 この行為が、現代の医師の役割に通じる基盤となったのだろう。

 このような、病気の闇を、自然のなかの光で物質的に克服することに対し、魂のなかに愛を目覚めさせ、克服させる行為、つまり、魂の進化への精神的な励まし、苦痛を自ら克服することを体験させる援助の役割に通じるものは、現代の看護師の基盤といえるのだろう

 医師に男性が多く、看護師に女性が多いのは、この役割の相違由縁なのかもしれないが、秘教を理解するなら、異性の違いは表面的なもので、その本質とは、患者と治療試行者の両極端ともいえる立場にあるといえる。

 患者と治療試行者の両極端の立場とは、電気の陽極と陰極のような、いわば引力を意味するという。引力を通して、患者のなかの愛に乏しい魂に、愛を注ぐ行為、愛を補給し、愛を流し込むような働き、行為が、治癒行為として求められるという。

 患者の愛のなさ故の病気に、治療試行者として、まずは愛を確立しなければ両極となりたてない。だから、医師や看護師には、愛がなにより最も必要とされる存在といえるだろう。愛が基盤になりえない治療行為は、カルマを複雑にし、将来、更なる課題を人類にもたらすだけなのである。

 さて、現代には、霊界などないと断じて言い切る人々がいるが、この現世の存在に対して、あの世では、霊界を、この世に知らしめようと、活動する死者がいるという。

 この両者は、この世とあの世で、両極性を成しているという。秘教では、どちらの両極端も誤りであり、振り子のように、どちらかが極端になれば、他方から揺り返しが起こるとしている。

 中世では、霊界を中心とした神秘主義が、大きな流れで、科学者が弾圧の対象とされたが、現代では、逆転現象になっているといえる。どちらも一方のみでは存在せずに、両極端があり、中立がある。中庸が人類の進むべきところで、人間は、両極端な体験を通じて、自ら魂の中庸の精神を、この宇宙のなかに見出していく。

 両極端の過失を改める働きこそ、正に愛の行為といえる。

 これがアリストテレスが説いた魂の中庸の精神なのであろう。





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Last updated  2007年04月25日 01時30分05秒
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