シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年07月09日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 アレクサンダー・ストラコシュの質問
■最初の質問:そのような理解は現実に対応しているか?
 基本的な幾何学において行ったことは、数学の全領域においても可能であることから、数学的対象を、原型と物理的イメージとを仲介するつなぎ目として理解することは、この中で提示された物理学を支持するのに必須の計算の遂行の基礎を提供できると考えてよいか?

■第2の質問:これは、思考をコントロールし、高めることにより、到達できる、いわゆる超経験的な領域への道であり得るのか?

 シュタイナーの答え;
 質問を正しく理解すれば、原型と物理的イメージとの間の中間的段階としての数学の領域にアプローチできるかどうかを尋ねているのだと思う。数学の各領域を純粋に精神的、経験的な観点から眺めてみる。数学の空間的、幾何学的な領域のものなのか? それとも、代数を想定した質問なのか?

 アレクサンダー・ストラコシュは幾何学に関して考えていたと答えた。

 このまとめの中で、既に、どのようにして通常の幾何学図形に到達するかに関して、なかば強調的に示唆してきた。経験的なアイデアの抽象化によって、それらを見出すのではなく、まず数学的かつ幾何学的な図形は、ある種先験的なものであり、それらは人間の意志の本性から導き出されるので、我々人間が数学的な図形を経験するときには、その数学的領域において活動的であると同時に、数学的現実に関わることが常に可能である、と言うことができる。

 なので、そのような幾何学的図形は、経験的なレベルにおいてさえ、外的な現実(そして、それを単にイメージの形でのみもつことが可能)と存在の直接的な内容(そして、それを内的に経験する)との間の一種の中間的な段階を既に表現している。精神的な意味で、経験的な見方をすれば、幾何学を理解するときには、原型と物理的イメージとの間の中間的段階を把握していることが示される。



 イメージは組み合わせである可能性もあり、必ずしも、原型に対応しているとは限らない。我々が直面する単なるイメージがどれも原型に対応しているとは限らない。しかし、もし、ある一定量の現実を取り込んだ中間状態をもつとすれば、我々に必然的なのは、それに対応する特定分野の現実を見出しえる、ということである。

 そして、我々はそのような領域を無作為に勝手に結びつけることはできない。

 我々人間には原型を日常的方法で結びつけることは不可能であるといえる。我々は原型を、明確な経験として存在する、原型自身の領域の中に探す必要がある。

 こうして、この中間領域、すなわち、数学的対象と知覚された合法性(中間)の領域と呼んだものを、正しい方法で把握するには、我々はその構成を絶対的で固定された原型と際限のない数(無限数)のイメージとの間の中間状態としても理解する必要がある。

 つまり、数学の全て、特に幾何学を、本質的に運動をもつもの(動きのあるもの)、少なくとも潜在的形態においては、全て、現実の中に存在するものとして説明しなければならない。例えば、三角形を静的で、動きのない実態として想像することはできない。

 静的な断面を三角形として捉えるのではなく、その概念に関する全体的で包括的な視界を見通す必要がある。

 では、三角形とは何か? 

 それは直線に囲まれた領域であり、その角の和は180°である。我々は、その3辺の長さが無限に変化するものとして想像しなければならない。この定義は無数の三角形、もしくは流動する1つの三角形を生み出すことになる。

 このような、ものの見方は、結果として流体(流動的、微分)幾何学を生じさせることになる。この流動的な幾何学が自然界にとって、何らかの意義をもつということ、例えば、それが結晶化の法則に関する1つの側面に対応していることを証明できなければならない。

 なので、第一の質問に対する答えは「はい(対応している)」である。この観点は実際、現実に対応する1つのアイデアに基づいているが、その概念全体を明確にするには、やるべき多くのことが残っている。

 これらのこと全てに関係するもう1つ別の課題に関しても触れないわけにいかない。近年、人々は、高次の現実の領域に参入するとき、高次の次元に頼るという習慣を形成している。我々の秘教概念の基礎を形成した形式主義では、必ずしもそうではなかった。



 ここで注意して欲しいのは、今述べているのは(物理的な)存在の領域、或いは平面に関してのもので、そのため、「アストラル」という言葉は、私(シュタイナー)がブリュンメルとの対話の中で、物質(肉)体と「自我」間の段階を記述するときに用いる用語のアストラルとは、異なる意味で用いている、ということである。次の段階であるルーパ平面は1次元の範囲内にあるものとして想像する必要がある。そして、アルーパ平面について想像するとき、我々は点へと至る。

 このように、我々が精神的なアイデアへと向かうときには、次元の数は増えるのではなくて、むしろ減る必要がある、と言うことができる。我々が上方から下方へと向かうときにも、この現象に出会う。

 例えば、次のような一連の思考を試みるときにも同じで、我々は精神、魂、そして体を問題なく区別することができる。では、地上を歩き回っているような人間の中にある精神的要素とは何か?

 この精神的要素は極端に濾過された形態で存在している、と言わなければならない。我々人間は、抽象的思考を、精神に負っている。つまり、それは我々の中の精神的要素といえる。それ自体では、単に感覚的に知覚可能な対象や出来事だけを感じ取るが、その知覚方法自体は本来精神的なものといえる。

 我々が思考の精神性を体(肉体)的要素にまで下って辿るとき、それは人間の物理的身体の中に1つの表現をもつが、一方、包括的な精神的要素は、そのような(物質的)表現をもたない、ということが分かる。大まかにいえば、我々人間が役割を演じる精神的世界の3分の1は、物理的人体の中に表現をもつ。



 反対に、我々が上方に移動するときには、イメージの中に取り込まれていない新しい要素を発見することになる。とはいえ、我々が下方に移動するとき、出会うのは単なるイメージではない。現実がその中に入ってくる。

 夜、肉体とエーテル体がベッドの中に横たわるとき、アストラル体と「自我」は単にそこから抜け出して、(肉体とエーテル体を)空にするというのは本当ではない。アストラル体と「自我」が離れている間に、高次の力が肉体とエーテル体に入り、それらを生き生きとさせる。

 同様に、1つのイメージもその原型に起源をもつ要素のみを含んでいるのではない。そのイメージが1つのイメージとなり、実体に属すようになるとき、これらの高次の要素が入ってくる。

 そのとき、興味深い質問が生じるが、その質問とは、単に想像に結びつけられたイメージは、いかにして1つの現実的イメージになるのか?というもので、それは、ここで触れた別の課題が入ってくるときに生じる質問で、ここでは更に、2次元に関して考えるとき、最初の一連の思考は第1の次元を照らし出すことができる第2の次元に直接導く、という解答をしておきたい。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007年07月09日 22時04分16秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: