シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年07月24日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 最後は泣き落としまでして、国民にすがり票を獲得しようという、恥知らずな与党政治家には、愛想が尽きたので、この際、無視したいと思う。今度の参議院選挙は、日本が滅ぶか、与党が滅ぶかのどっちかの選択である。

 充分に日本国民は将来を鑑みて投票して欲しい!

 日本全体を考慮すれば、いま何が必要なのか? は自ずと明らかになるだろう。

 民主主義の最後の砦はやはり国民の意志にあり、ときの政権に対する選挙への投票行為にある。

 政治を語ると、あまりにも愚痴ばかりになるのでやはりここでやめる。

 そこで、やはり政治家に最も必要なものが何なのかを語りたい。

 政治家に必要なものは、いうまでもなく、哲学である。

 哲学といっても、現代人が考えている陳腐な哲学ではない。さしずめ、現代人が考える哲学とは、「知を愛する」という言葉の意味でしかないからである。

 これは、哲学の父ソクラテスにより、既に否定された概念なのである。知識をいくら身につけようとも、人間は全能の神にはなれない。それは、知識をいくら身につけようとも、無駄であり、人間は必ず間違いを犯すということなのである。



 「無知の知」とは、知識が無意味であり、人間はあえて知識を身につけるべきではないと言ったのである。人間は、無知であるべきだ!と説いたのである。これが無知の知の真の意味である。

 だから、「知を愛する」という哲学の解釈は陳腐で皮相的といわざるをえない。

 哲学とは、「知を愛する」ことではなく、むしろ「無知を愛する」ことなのである。

 ソクラテスが、無知を愛するとは、何事かと現代人は思うだろうが、それは本来の哲学の意味を認識すれば明らかになる。

 哲学とは、ギリシャ語の「フィロソフィー」からきているが、元々は、イア(エア)神からきているのである。それは通説では、フィロ-ソフィーから、フィロ(愛する)とソフィー(知)に分解し、「知を愛する」と解釈しているが、本来、そうではなく、ソフィーを更に、ソフ-エア(イア)に分解し、つまりソフは、エア神に対する冠詞で、ソフィアとは、エア神のことなのである。

 だから、フィロソフィーは、「エア神を愛する」となるのである。

 では、エア神とは、どういう神なのか? というと、神話により女神ナチュラであることがわかる。女神ナチュラとは、自然の奥に潜む女神であり、自らの意志から自然をつくる女神のことである。

 また、エア神は、古代人には叡智と解されていた。だから、「自然を支配し、浸透する叡智」の意である。

 だから、「知を愛する」から転じて「叡智を愛する」になると現代人は錯覚するだろうが、そうではない。古代人は、自然の奥、背後には、実際、神々の叡智が潜み、神々の意志が、自然を創造していることを体感していたからである。

 だから、古代人は知識という、表層的なもの、つまり自然を分類し名付けたものなど信じず、自然の奥にあり、それを構成し、創造した神々の意志と叡智を信じたのである。



 だから、哲学とは、実は一種の宗教と言ってもよい。自然の万物の背後には神々の意志と叡智があるのだから、その叡智と意志に帰依していこうというものなのである。

 だからこそ、ソクラテスは、「無知の知」を説いたのである。つまり、「自然の表層的な知識を獲得するのではなく、自然の奥に潜み、自然を構成し、創造する神々に帰依しなさい」という意味なのである。禅でいう、いわば「大愚の勧め」といえよう。

 「あれこれ分別知をつけ、人間同士競争しあうのではなく、人間や自然のなかにある共通の神々の働きに帰依し、和合していきなさい。」という意味といえよう。

 つまり、中医、漢方でいう「天人合一」でもある。

 知識とは、これとは逆に天と人を分け隔てるものなのである。



 人間は、知識を求めると、知識に囚われ、利己的になる。やがて、知識を用いて、他を出し抜き、自分を愛する余り、知識により、独占し、我儘を行うようになる。

 だから、知識とは両刃の剣といえよう。古代では、知識を「才」と呼んだ。

 才を求める者は才に溺れる。

 古代人は、才、つまり知識よりも、徳を重んじた。徳とは端的にいえば神々への帰依なのである。

 徳、つまり神々への帰依、献身があれば、自ずと才は身につくのである。徳はあらゆる才を集めた形態ともいえる。徳が場面場面に応じて展開し、才と顕れる。

 だから、才なんかよりも、徳を求めることが肝要で、徳が身につけば、才はその付属であり、自然についてくるものなのである。

 だから、哲学とは、神々に帰依、献身し、「徳を身につける」ということになる。

 神々に帰依、献身すれば、神々の叡智や意志を感じ取れ、物事がいかに進行していくかが予めわかるようになる。これが「覚り、悟り」である。

 人間が知識や才から下す判断には必ず間違い、過ちがある。だから、人間はなるべく判断を下さず、物事の奥にある神々の意志や叡智を認識し、物事が自ずと進行するのに任せる。これを王道という。

 人間は、自らが下さざるをえなかった判断の過ちや間違いを訂正するしかできないのである。だから、人間は知的になるより、馬鹿になって、常に過ちや間違いを訂正していかなければならない。

 人間は愚者になるべきである。これはキリストが「十字架を背負いなさい」といった意味でもある。

 つまり、「人間よ、日々悔い改めなさい。あなたたちは、常に判断し、知識を求め、他を裁こうとするが、そのことが原罪なのである。知識の背後に自己愛、つまりエゴがある。知識を捨て、神々の日々行う裁きに身を委ねなさい。あなたたちは、常に間違いを訂正することでしか、生きられない存在なのである」

 人間は愚者にこそなるべきで、愚者のように日々、失敗から学び、勇気をもって訂正し、罪を贖っていかなければならない存在なのである。

 過ち、間違いを訂正することで、そっくりそのまま自己教育がなされ、その自己教育こそが、魂を磨き、天の道に続くものである。

 すると、自然の奥の神々の叡智と意志の治癒的作用を認識するだろう。

 日々、神々は、宇宙から治癒的作用を送っている。パラケルススは、「自然の奥にあるこの治癒作用から、学び、人体の治療に生かしなさい」といった。この古代医術の集大成の名残が中医、漢方にある。

 この神々の叡智と意志を認識することが、本来の哲学の意味なのである。

 この哲学を身につけたものは、予見力が身につく。だから、総理大臣は首相と呼ばれ、大臣は、相と呼ばれる。「相」とは、木に目がついたもので、「見通す、たすける」という意味をもつ。

 つまり、将来を見通し、世間をたすけるという意味で、深くは、神々の叡智、意志を見通し、神々をたすけるという意味になる。

 このような哲学の深い意味を、単なる「知を愛する」とした現代人の精神の堕落さを古代人はいかに見ただろうか?

 そもそも哲学が「知を愛する」という意味なら、知識欲だけの大学の哲学科でしか学ばない、特殊な専門分野になってしまうだろう。そんな無駄なもんを古代人が考えるわけがないだろう。論語読みの論語知らずといってよい。

 西洋文明が没落し、東洋文明が破綻するのも頷けるところでもある。





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Last updated  2007年07月25日 01時23分10秒
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