シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年09月10日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 このように今日の書物(教科書)には載っていない別の自然史というものがある。それでは、今日書物(教科書)に載っている自然史の最終結果とは、一体どのようなものなのか?

 それは、アルベルト・シュヴァイツァーの著書の続編に他ならない。この続編の前書きは実に、近代精神の産物で、かなり悲しむべき1章である。というのも、私(シュタイナー)が当時論評した第1巻には、少なくともまだ、我々の文化に欠けているものを、つけ加える、ある種の力と洞察があったが、続編のこの前書きにはなく、事実、本当に悲しむべき1章である。

 なぜなら、この1章で、シュヴァイツァーは、結局、知はいかなるものも与えることができず、人間は、認識によるものとは別の世界観と倫理学を、何処からか獲得する必要があるということを、自分が最初に見抜いた人物であると豪語しているからである。

 さて、認識の限界については、既に充分語られてきた。人が、自分を認識の限界について語った最初の人物であると思うことには、いささか近視眼的である。認識の限界については既に自然科学者たちが、ありとあらゆる言い方で語ってきているからである。だから、この巨大な誤謬を、最初に発見したなどと自慢するには及ばないだろう。

 しかし、この事を度外視しても、シュヴァイツァーのような卓越した思想家(この第1巻に関する限り、彼はやはり卓越した思想家である)が、次のように語るに至った事は、この事を意味するものに他ならない、

 「我々が、世界観や倫理を持とうとするなら、知と認識は全く問題にならず、これらは我々人間に何1つ与えはしない」、と。

 今日正に書物に載り、公に認知されている知と認識、そのような諸々の科学や、認識は、世界のなかに意味を発見する(シュヴァイツァーの言うように)事に通じていくことはない。

 というのも、結局、このような人物(科学者)たちが、世界を眺めるなら、実際、次のようなこと以外には何も浮かんでこないからである、
 「鷲から動物の紋章を作ることができる、ということは別として、他に、鷲が飛翔することは科学的に特に意味がないとか、確かに雌牛が牛乳を与えてくれることは、地上の食糧として有用である」、とかいうようなものである。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007年09月10日 19時54分32秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: