シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年02月12日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 これまで言及してきた事実、いわば人間の良心が分解されたものとして、植物の花を認めるのなら、外界の存在は、いわば、人間の魂の像なのである。(人間)内部に存在するのは、外なる自然とは、似ても似つかない親近性を持たないように、一見みえる力なのである。

 骨が骨となれるのは、骨が、鉱物として出現する炭酸石灰や燐酸石灰を憎み、その前から後退し、自身のなかに収縮して、外界の自然のなかの炭酸石灰や燐酸石灰とは別のものになることによる。

 人間が、物質的形姿を持つことができるには、人間の物質のなかに、憎悪と冷酷さが必要であるという見解にまで跳躍できなければならない。

 このとき、内(精神)的な意味とでもいうべき言葉を獲得する。人間の骨が、ある一定の堅さをもつとき、その適度な堅さは骨には良いことで、骨は、霊的な冷酷さの物質的模像として、この堅さをもつ。しかし、人間の魂が、ある種の堅さを持っていたら、社会生活にとって良いことではない。

 人間の物質的本質は、人間の魂とは全く異なる必要がある。人間が人間である可能性、人間の物質的本質は、人間の魂-霊(精神)とは異なるという可能性は、正に、物質と霊が相反関係にあるという点にある。人間の物質的本質は、周囲の物質的自然とも異なり、魂と物質が全く異なる変化を行うのが不可欠なのは、上記の相反する性質に依る。

 私(シュタイナー)がかつて、宇宙論、哲学、宗教を扱った講座(☆3、*1)で述べたことに対して、この重要な補足、つまり、人間と、ヒエラルキア(天使)との結びつきの為に不可欠な、この補足、つまり物質と霊の相反関係を、再度、ここに付記する必要がある。

☆3…講座で:ルドルフ・シュタイナー「人智学における哲学、宇宙論、宗教」(GA215 全10講 ドルナハ 1922年9月6日-15日)参照。さらにルドルフ・シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25 ゲーテアヌムにおける「フランス講座」のための論文集1922年9月6日ー15日)参照。

*1 シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25)の邦訳は『霊界の境域』(西川隆範訳 水声社)に所収。

 丁度、いま、これまでの要約の出発点と同様な出発点を獲得したこの時点で、唯一、この補足を加えることができる。この地上で鉱物界、動物界、植物界の個々の存在とは何であるかを霊眼で見通すように、地上で、物質的自然の出来事と人間の営みが、時の経過と共に進展していくように、人間は、ヒエラルキア(天使)の営みを、霊として、覗き見ることができる。

 このように、死と新たな誕生間の生を、すなわち霊界での生活を見つめると、人間が、死と新たな誕生間に行なうことを、丁度、人間がこの地上で誕生から死までの間に行なうことを、伝記的に記述できるのと同じように、事細かに記述することができる。

 そして、人間が死の門を通過していくときに、人間を通じて霊界に持ち込まれた人間無理解と人間憎悪に基づく全てが、再度、転生のときに、人間に付与され、それを高貴なものに改良しながら、人間の形姿が再び創造されることは、宇宙が本質的に望むべきことである(つまり、カルマの解消は宇宙全体が、地上の人間に望むことである)。



 この残余が、この数世紀の間に地球へと流れ込み、その結果、霊的な地球大気圏のなかに、地球のアストラル光とでも呼ぶべき光のなかに、混入物として、外から人間へと出現する人間憎悪と人間侮蔑の衝動の総和が見られるようになった。

 これらの衝動は人間の形姿にはならなかったもので、地球の周囲のアストラル光のなかを巡り流れている。これらの衝動は、人間の中へと作用するが、今のところ(1920年なので、20世紀初頭)、個々の人間には作用しない。これらは人間たちが地上で互いに形成するもののなかに作用を及ぼす。

 これらの残余、宇宙のゴミともいえる存在は、文明のなかに作用を及ぼす。そして、この残余の総和が文明の内部に引き起こしたものは、私(シュタイナー)が1914年の春ウィーンで(☆4、*2)、余儀なく、次のように述べざるをえないものとなった、

「現代文明には、霊的な癌、霊的な癌の病、霊的な腫瘍が混入している」、と。

☆4 1914年の春ウィーンで:ルドルフ・シュタイナー「人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生」(GA153 全6講 ウィーン 1914年4月)参照。文明が霊的潰瘍に冒されていることについてシュタイナーは第6講で語っている。

*2 シュタイナー『人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生』(GA153)の邦訳は『死後の生活』(高橋巌訳 イザラ書房)。


 死と新たな誕生間の現象を扱ったウィーンでの講演会(チクルス)において、上記を述べたが、当時の人々が、自分から耳を傾けることはなかった。けれども、それ以来、人々は、当時の発言が真実であったことを、多少は経験することになった。

 当時人々は、文明を通じて流れ込んでくる、この癌腫について、よく考えることなく生きていた。人々は、文明の腫瘍形成が、真に存在することがわからず、腫瘍形成は1914年から突発した。今日、この文明の腫瘍は、精神(霊)が全く損なわれた(失われた)唯物的な機械文明の実質として姿を現わしている。

 文明のなかに生きているものを、統一ある精神(霊)の形成物とみなすこともできる。人間形成の際に、使用されなかった人間憎悪と人間の冷酷さの流れが入り込んだ、この現代文明にとって明らかなのは、腫瘍として、現代文明に流れ込んでいるものが、現代文明の寄生存在として生き抜いている、ということである。

 現代文明は、何か根深く寄生的存在を持っている。それは、まるで、寄生生物、細菌に冒された生体組織の一部のようである。人間の思考に蓄積された残余物が、人間との生きた結びつきを持たないまま存在している。

 極めて日常的な現象に、この寄生物がいかに出現しているかを、少し考察するなら、以下のような例に現れていることがわかる。

 何かを学ぶ必要のある者が、学ぶべき内容が既に目の前にあるので、熱中して学ぶのではなく、ただ試験に通る為、もしくは、正しいとされている官僚を演じる云々の為に、権力の座に座りたいが為に、学ぶような例である(精神的な道義的理由からではなく、物質的な寄生的理由による)。

 その人間にとって、受け容れるものと、その人の魂において、本質的に、精神(霊)を受け容れることへの渇望能力として存在するものとの間に、もはや基本的な繋がりが無いので、これは丁度、渇望(飢え)を感じるように作られなかった人間が、絶えず食べ物を、自分の中に詰め込むようなものである(空腹感もないのに、ひたすら食べ続けること)。



 現代文明において、人間から切り離されたようになったままの多くの残余は、正にヤドリギ(寄生植物)とでも呼べるもの(霊的に考えて)で、人間がその心、心情の根源的衝動から生み出すものの上で生きている。その多くは、この文明の寄生的存在として生き抜くというように(いわば根無し草の如く)生きている。

 そして、この事を霊眼で観る人、この文明をアストラル光のなかに見る人にとって、既に他ならぬ1914年に強度の癌形成が見られた。このような人にとって、文明全体が何か寄生的存在に冒されたようにみえた。ところが今や、寄生的存在に加えて、また別のものが登場してきた。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2008年02月12日 20時03分16秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: