シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年03月06日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 前回は、人間は必ず間違いを含む思考を行うということを述べた。そして、人間の思考は、真実に到達する手段ではなく、自己教育の手段であると述べた。

 さて、もし後で、思考の間違いを訂正するなら、訂正によって、自分を教育し、より賢くなり、自らの間違いと共に荒廃をもたらすことはない。

 このような考えをもてば、自分を道徳力により、益々強めるに従って、「献身」の意味を益々理解するようになる。そして遂には、人生の決定的瞬間において、外的(外界の)事物に関する知識と理解の獲得という希望を持って、思考に依存することを行わない地点にまで至る。

 この事は奇妙に聞こえるし、一見、そのような事は不可能に見えることも分かっている。どうすれば、我々は思考への依存を拒否できるのか?

 確かに、思考依存の拒否路線を取ることは不可能(考えないではいられない)だが、ある条件下では可能になる。我々は人間として世界の中に組み込まれているが故に、世界の出来事に関して、いつの場合にも判断を保留するわけにはいかない。

 我々は判断し、意見を形成しなければならない。これに関しては、これから、何故そうなのかを見ていくことになる。我々人間は、生きて活動しなければならず、常に真実の深層へと沈潜するのを、ただ待っていられるわけではない。

 我々人間は判断を要する(但し、我々の判断や意見が、正しい事を認めるに際し、十分注意するよう、自己教育すべきである)。我々人間は絶えず、いわば肩越しに自ら振り返りながら、最も鋭い知性を働かせている限りにおいて、正に最上の知性の場において、非常に不確かな地盤の上を歩き、どこまでも間違いを重ねる可能性があるということを、心に留める必要がある。

 この事は、自惚れの強い人には厳しい言い方かもしれない。自惚れの強い人は、何らかの事柄に関する意見が決定的であるかどうかを疑いはじめ、その意見がいかなる結論に達するのも全く不可能であると考えるからである。

 一寸周囲を見渡すと、非常に多くの人が、何か意見されると直ぐに

「しかし、私はこう思うのですが。」

 という(自分の意見を述べる)必要があると考えているのに気がつく。或いは、何かを見て、

「私は好きじゃない!」とか、「私は好きだ!」

 と直ぐに自分の意見を言うからである。

 安易な自惚れで、人生を生きることに満足しない人は誰でも、この種の態度を捨て去る必要がある。我々人間が、内(精神)的生活の進路を、真実の方向へと取りたいと願うならば、このような態度を捨て去る必要がある。

 むしろ、我々がすべき事は、次のような言葉で性格づけられるような態度の養成である。

「勿論、私は自分の人生を生きなければならない。そして、それは、私が判断を下したり、結論を出したりすることを意味する。だから、人生における実践を必要とする限り、私は判断力を行使する。しかし、私は、それを、真理の把握に使おうとは思わない。私はどこまでも注意深く、仕方なく下すことになった、あらゆる判断を、いつでも、ある程度の疑いをもって振り返ることにしたい。」

 しかし、通常の考察で判断を下すのでなければ、一体どうやって真理に関する考察に至るのか?

 既に以前、事物そのものに語らせるようにすべきであるという事、つまり、事物自身に、その秘密を告げるようにすべきであるということを述べたとき、この事に関する正しい心の持ち方について示唆した。世界の事物に対して、受動的な態度をとり、事物自身に自分の秘密を語らせることを学ぶ必要がある。

 もし、人間に、この事ができていたなら、非常に多くの間違いを回避できていただろう。この事ができた人物の素晴らしい例としてゲーテがいる。彼は真理を探究するとき、自ら、勝手な判断を許さず、事物そのものに自分の秘密を語らせるようにした。

 さてここで、単純明快な例を取り上げてみる。ここに2人の人物がいるとする。1人は判断する人で、もう1人は事物に自らの秘密を告げさせる人である。最初の人物が一匹の狼を観察して、その特徴を記述するとする。彼は他にもこの狼に似た動物がいるのを見て、それらの特徴も記述する。このようにして彼は「狼」という一般概念に至る。

 この考えを進めると、彼は次のような結論に至るだろう。

「現実には多くの個々の狼がいるが、私が心の中で形成した「狼」という一般概念、つまり、いわゆる(一般の)狼というものは存在しない、世界には個々の狼がいるだけである」、と。

 このような人物は、安易に個々の狼だけが問題なのであって、1つのアイデアとして心に抱く狼という一般概念は何ら現実的なものではないというような事を、自分の意見として述べるだろう。このような結論を導く人物の中に、自分で判断し意見を形成する人の驚くべき例を見ることができる。

 一方、真実そのものに、自らを語らせる人の場合はどうか?

 彼は、個々の狼の中に見い出され、全ての狼を等しく特徴づける不可視の性質について、どう考えるのか?

 その不可視の存在について、彼は自分に次のように言うだろう。

「狼を羊と比べて考えてみよう。ただ私は、この比較については、判断はしない、単に事実に語らせるだけである」、と。



「以前は、羊として走り回っていた物質は、今や狼の中にある、それは狼に吸収された。」

 この事実を見るだけで、狼の本性の真実を知るのに充分である。何故なら、外的感覚(観察)により追跡できれば、次のような結論、つまり、

「狼が他に何も食べるものがなく、羊しか食べなかったとすれば、狼は徐々に(狼のなかで進行する新陳代謝の結果)、狼のなかには、羊物質しかないという状態に至るに違いない」、

 という結論に容易に導かれるからである。

 しかし、実際問題として、狼は決して羊になることはなく、いつまでも狼のままである。

 事態を正しく評価するなら、以上の事実は、狼の中の物質部分が、いわゆる従来考えられてきた「狼」という構成体とは、全く違うものであるということを、非常に明白に示す。外的(外界の)事実の世界が教える通りに見るなら、「狼」という構成体は、我々の前にある、狼という物質体の他に、何か別のもの、何か不可視の最高度に真実な存在を明らかにする。

 (羊の物質部分を吸収するのなら、狼という物質は羊という物質になるだろう。しかし、狼は狼であるから、羊の物質部分を、狼という物質構成につくりかえる何かが、狼のなかに存在する。)

 そして、この最高度の真実こそが、たとえ狼が羊しか食せず、狼の中の単に感覚的に知覚可能な全てが羊の由来物になったとしても、羊にはならず、狼の状態のままでいることを可能にさせているものなのである。

 判断の実施と、現実が教える事象に任せる事との間に、明確な線を引き、区別することは、ときとして困難である。しかし、その違いが一度把握され、判断が実際の生活面に限定して用いられる一方で、真実へと近づくためには、世界の事物が教えるのに従うという態度が取られるなら、そのとき、我々人間は少しずつ「献身」の真の意味を、明らかにすることが可能な、魂の在り様へと至る。

 「献身」は、思考により、直接真理の探究をしようとする心の状態ではなく、事物から流れ出してくる啓示を通して、真理を求めると共に、その啓示を受け取ることができるほど、成熟するまで、待つことができる心の状態のことである。

 判断を行い、意見を形成しようとする傾向のある人は、どの段階においても、絶えず真理に至ろうとする。一方、「献身」は、様々な真理へと、いわば(強引に)押し入ることを始めたりしない。

 「献身」においては、むしろ、自分を自己教育により高め、世界の事物から、真理が啓示として、自分の中に流れ込みながら、自分の全存在を満たすという成熟段階へと到達するのを、静かに待つことを求める。

 忍耐が自己教育において、益々我々人間を先へと進めてくれることを知りながら、忍耐強く働くこと、この事こそが「献身」の気持ちに適ったことなのである。





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Last updated  2008年03月06日 22時22分42秒
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