シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年06月10日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 無意識活動を観察すると、言語領域には、芸術作品としての人間を創造した存在を感じる。

 「言語関連の芸術作品は、その芸術手法により容認されたものとして検証できる」、

 ということを忘れないようにすべきである。

 もしこの事を、心に留めていたなら、フリッツ・マウスナーの「言語批判」のような、学者ぶった作品は、初めから排除されただろう。ここでの言語批判は全く間違った仮定、つまり、言語をよく見ると、言語は客観的現実(真実)を表現しないという仮定に基づいていることがわかる。

 しかし、言語が客観的現実を表現することは、第一に、言語の本来の機能なのか?

 絵画に関しては、光と影を使い、カンバス上の色の中に、外的現実(真実)を表現するのと同じ位、言語も現実(真実)を表現する。なので、人間活動の根底に横たわる言語霊は、芸術的感性によって把握する必要がある。

 以上の事柄については、ただ簡略化された概観が示されたに過ぎない。しかし、もし言語を作った芸術家が、人間の中で活動していた事を知るなら、人間の個々の言語の中でさえ(言語が様々に異なればそれだけ様々に)芸術的要素が、あらゆる種類の異なった形で働いていたことを理解できる。

 また、言語霊が(空気の中で働いていた、精神的存在を言語霊と呼ぶ)人間の中で、比較的低レベルで、自らを表現するとき、いかにあらゆるものを、個々の部分から組み立てようとして、原子論的方法で働くかが理解できる。「個々の音が1つの文章全体を構成するために結びつく」、ということは、このように生じる。

 例えば中国語で「シー」と「ピアン」という音を取り挙げるなら、それらは、言語形成の2つのいわば原子となる。「シー」という音節は「歌」、詩を、「ピアン」は「本」を意味する。これらの音を組み合わせると、「シーピアン」、つまり「詩本」の組み合わせとなる。全体として見れば、結果として「詩の本」となる意味が2つの品詞から生じる。これは、その概念と思想を形成する中国語の方法の、1つの例に過ぎない。



 「セム語のように、素晴らしい形成言語は、いかにその本質において考察すべきか」、

 ということがわかる。セム族の言語は、その基礎に、子音だけから構成された音がある。

 人間は、これらの子音と子音の間に母音を挿入する。なので一例としてq、t、lという子音を取り挙げ、間にaを2つ挿入するなら、そのとき、純粋に子音から形成された単語は、単なる外的音の模倣に過ぎないが、母音を加えることにより「qatal」、つまり、「殺す」という語が造られる。

 このように、音の複合としての「殺す」が、当初は、単に外(界)的プロセス(過程)を模倣する言語器官により生じることに、特筆すべき発展(進化)過程が見られる。そして魂が、その過程を継続し、母音によって、内的な経験が付け加えられる。

 つまり、音の複合体は更に発展し、例えば、「殺す」が主題へと差し戻される。これが、基本的なセム語の構成であり、そこでは、言語形成における様々な要素の組み合わせが、言語の枠組み内で表現される。

 この象徴化(つまり言語霊が、エーテル体の中で働くのがみられる)は、セム語においては主要な作動力となっているが、それは、個々の模倣音を一歩先へと進め、母音の挿入により、象徴へと変化させるセム語の特別な側面を示している。

 これが、セム語では、基本的に、全ての語が外界の環境に、象徴として関係するような方法で形成される理由である。

 対照的に、インド-ゲルマン系言語に現れる言語は、アストラル体の内的な表現、内的存在と呼べるものにより、より多くの刺激を受ける。というのも、アストラル体とは既に意識に結びついたものだからである。

 人間は外界に向かうとき、自分を対比させる。もし、人間が、エーテル体の観点から外界に向かうなら、人間は外界と溶け合い、それと1つになる。事物が、意識(アストラル体)の中に反射されるときにだけ、自身と事物との間に差異が存在する。

 (東洋が自然に対し融合的で、西洋が自然に対して対立的なのはここにあるといえる。東洋では言語はエーテル体、つまり気孔にあり、西洋ではアストラル体、つまり魂にある。)

 あらゆる内的経験を有するアストラル体のこの働きは、独立した存在性の反映である「である(Be動詞)」という動詞をもつ点で、セム語とは、対照的なインド-ゲルマン系言語において、その動詞を見ることができる。この事は、人間が、意識をもって、自身を外的印象から分離できたが故に可能となった。



 エーテル体は、意識からくる比較なしで、順繰りに語るだけである。これが、セム語においては「神、善きもの」と間接的に2文体で言わざるを得ない理由である。主体と客体の対比は特徴的要素ではない。外界に対峙する言語として、本質的要素として外界の知覚をも含むようなインド-ゲルマン系言語がある。

 それらの言語は、内面性を支える、つまり、強い個性、強い自我を発達(進化)させる為の基礎を与える、全てを支持するような方法で、今度は逆に人間自身に影響を与える。この事は既に、インド-ゲルマン系言語の中において明らかである。

 いま述べたこと全てに関して、何人は、もし、この分野を詳細に記述するなら、2週間はかかるという理由で、不十分な示唆と考えるかもしれない。例え不十分な示唆であっても、この連続講義に定期的に参加し、事の本質へと貫き至った人たちは、このような示唆が不正ではないということを理解するだろう。

 これらの示唆は、言語が芸術的感覚(それは発達(進化)する必要があるが)以外の方法によっては理解できないということを基本的に示し、人智学観点から、その言語の発生を意図的に示す事ができる。

 もし、個別自我の活動以前に、人間の中で言語を創造した(精神)力により実行された創造的活動に、全ての学問が、参加しなければ、恐らく失敗に終わるのは、この理由による。創造的能力だけが、言語の秘密を把握できるが、それは創造的能力だけが、自らを再創造できるからである。






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Last updated  2008年06月10日 20時57分09秒
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