シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年08月13日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 人智学の本連続講義(魂生活)の第1講「言語」で特徴付けたような観点から、非常に多様に現れる人間の魂生活、或いはもっと広い意味での生活に光を当てることが、かって行った連続講義の使命だった。

 今回は、悲惨や苦悩、恐らく、希望の喪失をもたらすような人間生活の領域全般を観察する。

 今回の内容を補完するために、次回の主題は、「人間的意識」と題して、自我意識の人間的尊厳、価値、力が最大限に表現される高次へと、人間を連れ戻す領域について触れる。そして、最後に、今日、暗く、最も戦慄すべき人生の側面から、我々の前に現れるように見える存在の、健全的な側面を示そうと努める「芸術の使命」に関する考察をもって、この連続講義の締めくくりにする。

 では、「不調と心的障害」に関して述べるとき、誰の魂の中にも、人間の最も深い苦しみのイメージと同時に最も深い人間的共感のイメージが生じる。そして、このように、魂の中に生じる全ては、人間の魂の中に存在する、最も奥深い深淵を、この連続講義の中で得られるものと期待される光で、照らし出すような挑戦でもある。

 特に、魂の前に示された、これまでの考察によって、前進することに益々精通する人は、人智学的な観察方法を用いれば、ある意味、人生における、この悲しみの章に光を当てることができる、という希望を持つだろう。

 というのも、なんらかの文献上の知識をもつ人であれば、ただし、ここでいう文献とは急速に広まっている素人のものではなく、むしろ専門家の文献で、そのような知識が、人智学的観点から見た場合でも、ある意味、非常に遥かな地点まで達し、魂に関連する事実の評価に、豊かな素材を提供するということに気づく一方で、同時に、どの文献においても、現代の様々な理論や観点、思考様式を集約した経験や、科学的観察に骨組みを与えているという点で、ほとんど役に立たないことが、あまりにも明らかになるからである。

 特に、この領域において、いかに人智学が、真正で本物の科学、つまり、科学的事実や結果、経験として、人間が出会う全てと調和しているかを、はっきりと見て取ることができる。けれども、同時に、各段階において、人智学が、魂の経験と現代の潮流となっている科学的観点から、魂の経験を説明する手法との間に矛盾を見い出す、ということもまた理解できる。

 他の領域と同様に、ここでも、主題(テーマ)を概略的に扱うことしかできないが、おそらく、これから扱おうとしている、悲しむべき状況との関連においても、益々、自身の方向性を見い出せるように、実生活の中にも流れ込むように、適切な理解の獲得のための刺激を与えることになるだろう。

 「不調」と「心的障害」という言葉を使用するにあたり、その両者が基本的に異なったものであることを、我々は意識している。にも関わらず、実際に「心的障害」を受けている状態として記述できるような魂生活を正確に観察する人が見い出す、「不調」との相違は、単純に、程度の差異に帰せるような表現や外観の違いでしかないであろう。



 しかし、そのような観察は、ある思考の方向性から、個別的区分を曖昧にさせ、実際、健康で正常な魂生活と「心的障害」という言葉で記述できるような状態との間に、はっきりとした線を引くことができない、と言うような傾向をもつことから、間違った説明を行いやすい。

 その種の記述には、「不調」と「心的な障害」の間の区分けが曖昧な場合に、強調される、ある種の危険が含まれている。そして、その危険は、その記述が間違っているということにあるのではなく、それが正しい記述であるという事実の中にある。

 この事は矛盾のように聞こえるかもしれないが、間違った記述というのは、ときとして、説明可能で、一方的な方法で実践に移せるような正しい記述よりも危険が少ない、というのは事実である。正しい記述がより危険なのは、その記述の正しさの中に本来備わっている危険に気づかないからである。

 ある文脈の中で、何かが正しいと証明されるなら、それで十分だと考えられがちなのだが、あらゆる正しい事柄には、その反対の側面があり、我々が見い出す、いかなる真実も、ある種の事実と経験の観点から見たときだけの真実にすぎない、ということに気づくべきなのである。

 危険は、その真実が他の領域にまで外挿される瞬間、つまり、それがあまりにも遠くまで拡張され、教条的信念になるときに生じる。たとえ、「真実が存在する、ということを知っていても、一般に大したことは達成できない、真の認識において重要なのは、その知識が有効に働く限界を知ることである」、と言われるのはこの理由による。

 確かに、通常の健全な魂生活が、ある限界点を越えるとき、病理学的な徴候になる、という現象を観察できる。この記述を、充分な意味(重み)をもって認識できるのは、親密なレベルで人生の観察に正しい形で慣れている人だけである。

 ある人が何らかの概念を理解し、それを正しい瞬間に別の概念に結びつけることができず、そのため、それを新たな、そして全く不適切な状況下で適用し、以前の状況下では正しかったが、後に正しくなくなった考えに基づいて行動するなら、誰が、そこに「心的障害」の題字の下に括られる病理学的側面があることを否定するだろうか? 誰が、これは病理学的な状態に近似している、ということを否定するだろうか?

 もし、その状態が程度を越えて起こるなら、それは「心的障害」への直接的な徴候なのである。けれども、他方で、その気苦労の多さと、ぎこちなさの為に、仕事をうまく進められないという人々もいる、ということも否定できない。

 そこに見られるのは、通常の魂生活における、1つの状況(ある考えを展開できないという状況)だが、「不調」について語るのをやめて、病理的な「心身の障害」について語り始めるべき地点へと接近できるのは、そのような状況である。

 例えば、誰か(これは本当に起こることだが)勘違いしやすい人がいて、周りにいる人の咳払いが普通の咳ではなく、当人に対する人々の悪口のように聞こえる、つまり、そのような幻想を与えることを仮定してみる。

 もし、当人が、そのとき、その生活と行動を、この幻想に適応させるなら、当人は「心的障害」を持った人と考えられることになる。



 ある人が、「誰それが私について、何々のことを言った。」と言ったにも関わらず、その誰それが、その何々を言ったという形跡がない、というようなことがある。通常の魂生活が、その健全な道筋から外れ、魂的な障害へと変わるのは、どの地点においてなのかを決めるのは、このような訳で容易なことではない。

 次に述べることは、矛盾しているように見えるが、この分野において、何らかの考えを喚起するのに役立つだろう。

 「並木道に立っている人が、近くを見るときには木と木の間の正しい距離を正確に知覚できる一方で、他方で遠く離れている木は、互いに少しずつ接近しているように見えるために、木々の間にロープを張ろうとした際、遠くに行けば行くほど、遠くの木々が接近して見えるので、張り渡すロープの長さが益々短くなると考えるなら、健全な観察から間違った結論を引き出す例といえる。

 (つまり、視覚において、近くの木々の間の距離よりも、遠くにある木々の間の距離が、近づいてみえるので、遠くにいくほど、木々を囲むロープが少なくてすむと考えることを意味する。これは、地球圏で成り立つ法則が、地球を越えた宇宙にも成り立つと考えることと同じである。実際は、成立しない。

 また、家族間のルールを持ち出し、公共の社会、例えば職場で、そのルールを適応しようとするのと同じである。つまり、ローカルルールを、そのままグローバルにしようとするのに無理がある。)



 錯覚のような観察が病理的と言われるのは、単に、正しい方法で説明できないからである。さて、誰かが幻覚を抱き、それが通常の物理的意味において、現実と考える場合と、先ほどの並木道で、木と木の間を遠くに行く程、益々短いロープで結びつけようとする人との間の矛盾とを比べてみることができる。

 論理的には、これら2つの事柄の間に原則的違いはない。だが、幻覚は何と容易に、間違った判断へと我々を導く一方で、他方で、並木道の観察では、滅多に同じような間違いをしない! このような事全てが馬鹿馬鹿しい問題と考えるかもしれない。

 しかし、これらの点を逐一考慮する必要がある。というのも、もし、考慮しなければ、すぐに話が脱線し、通常の魂生活が、いかに容易に混乱させられるものであるか、ということを理解できないからである。





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Last updated  2008年08月13日 20時29分57秒
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