シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年08月14日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 さて、更に、魂生活が健全で、最高度に明晰なものと考えられている人々について、ずっと衝撃的な例を挙げることができる。哲学分野で最も卓越した人物の1人と考えられている、ドイツの哲学者について触れる。その哲学者は、自らの経験を次のように述べている。

 「彼はかって、ある人物と話していたが、その中で、2人が共に知る、ある学者に話が及んだ。その学者に話が及んだ瞬間、その哲学者が思い出したのは、パリのイラスト集と、その次に、ローマの写真集だった。その間、その学者についての会話が続いていた。その哲学者は、何故、会話中に、最初はパリのイラスト集のイメージが、つづいてローマの写真集が現れる、というようなことが起こったのかをよく考えてみた。

 そして、実際、彼は何とかして、その正しい繋がりを確立した。彼らの話題に上った学者は特筆すべき、顎鬚を生やしていた。この顎鬚は、直ちに、同じような顎鬚を生やしていたナポレオン三世のイメージを、その哲学者の潜在意識の中に呼び起こしたのである。そして、このナポレオン三世のイメージはフランスを経由してパリのイラスト画へと導きながら、彼の意識の中へと押し進んで来た。

 そして、同じようなバンダイク髭を生やしていた別の男のイメージが彼の前に現れる。イタリアのヴィクトール・イマニュエルのイメージである。そして、このイメージがイタリアを経由してローマの写真集に導いた。ここには、充分に意識的な魂生活において、全く異なる事が生じている間に、気儘で出鱈目な一連の考えが展開しているのが見られる。

 さて、ある人の中にパリのイラスト画が現れ、もはや会話の糸を手繰ることができず、そのすぐ後に、次のローマの写真集についての考えが続くことを仮定してみる。彼は出鱈目な思考生活に左右され、誰とも秩序だった会話を持つことができず、一纏りの考えから次の考えへとリズムも論理もなく導くような病理的な魂生活の中に織り込まれてしまうだろう。

 しかし、話題の哲学者は更に先へと進み。そして、この事を別の場合と対比させるのだが、彼は、それによって、これらの事柄がどのように関連しているかを認識できるようにしたいと思っていた。彼は、かつて、税金を払うために税務署に出かけたことがあった。そのとき彼は75マルクを払いに行った。そして、彼の哲学はともかく、彼はシッカリした男なので、この75マルクを、彼の支出簿に記入し、そして、別の仕事に取り掛かった。

 彼は、後になって、そのとき払った税金の額を知りたいと思ったが、思い出すことができない。彼は考えた。そして、哲学者なので、体系立てて、その仕事に取り掛かった。彼は連想によって、その額を思い出そうとした。彼は税務署に向かう自分の歩みに集中し、そして、財布の中に金色の20マルク札が四枚入っていたということ、更には、そのとき、釣りとしてもらった5マルクのイメージを思い出した。彼はこの2つのイメージを思い出し、そして、後は簡単な引き算によって、今や、彼が払ったのは75マルクであった、ということを見い出した。

 ここには、全く異なる2つの出来事がある。最初のケースでは、一連の意識的な思考によるコントロールを一切受けない、いわば、自発的な魂の生活が、その役割を演じているもので、これがパリのイラスト画のイメージとローマの写真集のイメージを創り出した。

 2番目のケースでは、魂がその踏み出す一歩一歩を選び取りながら、いかに体系的に振る舞うかを見ることができる。これら2つの魂の過程には、かなりの違いがある。しかし、かの哲学者は精神的な探求者であれば直ちに気がつくようなことに注意を向けることができなかった。



 2番目のケースでは、哲学者は注意力全てを思考の繋がりを決定する方向へと向けている。この事は、最初のケースでは、イメージが出鱈目に生じたのに対して、2番目のケースでは、意識的な魂生活のコントロール下にあった内容を説明する。

 とはいえ、そもそも何故、以上のような出鱈目なイメージが生じるのか?

 この哲学者が見落としているのはその点である。人生の観察者で、このようなケースを知り、問題の哲学者の性格を考慮する立場にある人なら(たまたま、その事を知っているだけでなく、その男も知っている場合)、次のような仮説を立てるだろう。

 「その哲学者は、彼には格別興味のない人物について話し合っていたので、会話に集中し続ける為に、ある程度の努力を必要としていた。その為、ある量の魂生活が、この会話に関与しないままに取っておかれ、それが内に向かった」、と。

 しかし、興味のない会話に注意を割かねばならなかった彼には、結果として生じる一連のイメージをコントロールする力がなく、出鱈目に生じることになった。この事は、そのようなイメージが、いかに意識的な魂生活の背後で、影のように生じるかについての示唆を与える。このような例は無数に挙げることもできるが、特に、この例を取り上げたのは、それが非常に特徴的であり、この事によって多くの事を学べるからである。

 さて、次のように問うことができる。

 「そのような出来事は、人間の魂生活をもっと深く探求するように我々を促すのではないのか?

 また、そのような魂生活の裂け目は、そもそも、どのように生じるのか?」と。

 ここで、今回取り上げている、あまり愉快でないテーマに関する経験を、以前、しばしば取り扱ってきたものに、全く自然に適合させることができる領域へとやって来た。その例の中で触れられた哲学者は、彼の経験を記述しようとして、謎に直面するが、事実を一度告知してしまえば、そこから更に続けようとしない。

 それは、科学が、事物や人間の本質に関しての認識の手前で、どんなに多くのことを語れるとしても、立ち止まってしまうことから来ている。

 人間の本質に関する観察が示すのは、人間は、物質科学により成される以上の手法で眺めなければならず、外なる人間と内なる人間を区別しなければならない、ということだった。あらゆる領域において、通常の科学から理解されている知見とは異なる手法で、睡眠に注目すべきことを示してきた。



 睡眠中、何かが人間から去って行くが、それは、ベッドに残る部分と同じくらい現実的なもので、その内なる人間は、眠りに落ちてから目覚めるまで、その真の故郷である精神世界に引き渡される、ということを、通常の意識では理解できず、また、人間が通常の魂生活を支えるために、起きてから寝るまでの間に必要とするものを、精神世界から抽出する、ということを、通常意識では認めることもできない。

 眠っている間も、その法則と共に、そこにある外なる人間と、起きている間だけ外なる人間と共にあり、眠っている間は分離する内なる人間を別々のものと見なし、はっきりと区別しなければならない理由が、ここにある。この区別をしない限り、人生における最も重要な出来事を理解できない。

 便宜的に、あらゆるものを統一体と見なし、別の考えを容れず、至る処に一元論を確立しようとする人たちは、人間を内なる人間と外なる人間の2つに分けるということのために、人智学者に二元論者の烙印を押す。しかし、そのような人たちは、水を水素と酸素に分ける化学者もまた、酷い二元論者であると認めないわけにはいかないだろう。

 もし、元素をもっと深い処に横たわるもの(素粒子)として認識しないなら、高次の意味で一元論者であることは不可能である。ところが、最も身近な存在の中にだけ、統一を見る人たちは、多様な生の本性を観察すると同時に、多様性から、生命を説明できるような事柄の認識を、自ら妨げているといえる。

 さて、外なる人間と内なる人間の内にある個々の構成体もまた区別すべきである、ということも示した。外なる人間の中で、最初に区別したのは、見たり触ったりできる肉体である。更に、その肉体を形成し、作り上げる、エーテル体と呼ぶ別の構成体がある。肉体とエーテル体は眠っている間、ベッドの中に残る。



 魂の最も低次の構成体を感覚魂と呼び、2番目の構成体を悟性魂、或いは心魂、3番目を意識魂として記述した。だから、内なる人間に言及するときは、あらゆる種類の意志衝動、感情、概念、考えが区別されないままに入り交じった状態について語るかわりに、魂の中にある、これら3つの構成体を注意深く区別できる。





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Last updated  2008年08月14日 18時47分58秒
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