シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年08月27日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 なんでも、五輪野球代表として、惨敗した星野監督が、次の国際野球大会のWBCにも監督として挑戦するという。この話を聞いて、思わず戦中を思い浮かべてしまった。

 NHKで、太平洋戦争の証言をみているせいであろうか、敗軍の将を、その責任もとらせずに、再び、貴重な兵隊をつけて、戦場に送るとは、太平洋戦争の数多き失敗のなかに、見い出された、いわば失敗の鉄則のようなものである。

 このような話が野球という1スポーツでよかったと思う反面、野球ファンとしては、許し難き不義のようなものを感じた。その後、故障した選手もいるのだから。少なくとも、仕事にマイナスなわけで、戦場ならば、戦死に相当するだろう。

 戦中でない、60年すぎた、いまでも、NHKの不祥事幹部を、下請けの会社に雇用したり、汚職、不祥事官僚を、天下りさせたりして、悪を庇うような、日本人の性分は一体、どこからくるのか?

 司馬遼太郎は、自分が学徒兵としてノモンハンに送られた経験を糧に、太平洋戦争の過ちを、自ら独自で、検証し、不祥事を起こした幹部が、何度も、同じ地位に戻ってきて、何度もまた同じ過ちを繰り返し、結局、軍隊内部から崩壊していったことを、小説に書いている。

 司馬ではないが、私も、少し日本人の欠点から考えてみたいと思った。

 日本人の欠点は大きくわけて3つある。

 1.主語がない。

 2.曖昧である。



 このように書くと、日本人でなく、日本語の欠点のようにみえるだろう。それは、日本人の欠点がそのまま日本語という母国語に顕れているといってよい。

 では、少しづつ解説していく。

 1.主語がない。

 日本人は、主語をあまり使わない。だから、個性がなくなるのである。自然、命令口調になり、なんらかの組織に属する環境を必要とする。そして、主語を使うときは、特別なときで、好き嫌いの感情を表すときに用いる傾向にある。

 この事は、西欧人と比べると顕著で、西洋は、主語がほとんど先頭にくる。それだけ、西洋人は、個性的、個性表現を心掛けているようにみえる。

 西洋人は、はっきりと、相手に、自分は何々したいというし、私は、あなたを愛するとはっきりという。そこに個性を感じさせるのである。ここから、西洋人は目的意識が強いのに対し、日本人は、自分の目的というよりも、どことなく、周囲や環境に流されて、自分というものよりも、周囲の状況からやらざるを得ないという感じで、自分を表現する。

 だから、日本人には個人主義が根付かないようにみえるのである。この自己表現という点で、日本人は、西洋人に大きく遅れているようにみえる。まずは、自分を表現する事から何事もはじまるからである。

 日本人の場合は、自らの個性というより、何者かの権威や、属する団体の威光をかりて、自らを表現する傾向がある。○○所属の何何ですといった感じである。西洋人は、名前をいって、何をやっているかという感じである。所属は、二の次という感じが強い。だから、所属団体を変えても御構い無しである。

 もういい加減、集団主義はやめる時代ではないだろうか?

 集団主義というのは、動物と変わらないからである。少なくとも、人間という個性が奪われるからで、芸術性が、育たずに、創造性が生まれないからである。



 曖昧であるというのは、非論理的で、厳密でないという意味である。この事は、日本語で、科学論文を書くと、顕著に顕れる。日本語と、英語では、全く違う意味となる。恐らく、日本語の方が、集団性のなかで、省略されて使われる隠語のような表現が多い為なのだろう。

 これは、日本社会の上層階級に行けば行くほど、曖昧になる。自然、細部を省略した、命令口調にならざるを得なくなるわけで、意思伝達が、非常に乏しくなる。多くの会社の上層部、お偉方が、「あれ」とか、「それ」とか、「あの」とか、全く、具体的な言葉を使わなくなるのは、このような弊害の端的な例である。

 だから、詳細な検討や、過ちの訂正がなされないうちに、事態は進行し、勝手な解釈が横行し、事態が収拾つかなくなると、結局、現場任せの無責任で、事勿れ主義が横行する。失敗者は何らかの処罰もされずに、過ちもまた繰り返される。

 主語がないので、集団性が一層形成され、一人の人間では、どうにもできない流れとなり、集団性に呑み込まれていく。

 3.公私混同が激しい。



 日本人は、このことを「和」といっているが、勿論、本来の「和」ではない。和とは、個性の善い部分全てを合わせることである。そのような日本人の弊害は、「赤信号、皆で渡れば怖くない」というギャグに端的に表されている。

 日本人を沈没した船から飛び込ませるには、ほら、皆、飛び込んでいますよといえばよいという世界的ジョークがあることでわかる。

 この皆でやるということから、公の場と、私の場の境界が曖昧になってくるのである。この傾向は、戦場でいかんなく発揮された。皆、特攻しているのだから、一人だけ特攻しないのはおかしいという論理になるわけである。そして、その命令は、上官の負けたくないというプライド、公的な人の命よりも、自己保身という、私的な欲求から出ているのである。

 そのような論理から、村八分が生まれ、戦時中の政治犯投獄のような、思想弾圧が生まれてしまう。上層部は、自己保身のために、私的なものを、公的なものに優先させる。だから、後に、責任がとられないし、第一、主語がない。

 本来、論理にはなりえない非論理事項が、論理になってしまうのが、日本人の特質である。

 日本人の犯罪者に、この傾向は顕著に現れる。皆がやっていたから、犯罪でも、やっていいという理屈を述べる。欧米の場合、このような理屈は成り立たない。なぜ、他の人に従ったのですか? あなたの判断力はどうなっているのですか? となる。

 自分も日本人なので、日本人が変わる時期にきていると深刻に思ったので、書いてみた。勿論、これらの欠点を補完する長所もある。

 1.親切である。 2.真面目である。 3.謙虚である。

 である。しかし、昨今、西洋文化の進入により、これらの長所は失われ、逆に、欠点の方が目立ってきたというのは、どういうことなのだろう。特に、戦中のような、鎖国的な雰囲気の環境、つまり、保守的なタカ派が台頭する時代に、日本人の欠点が顕著になる。

 国際大会は、技能を通した、人間的な交流が重要なのだから、勝敗に拘らず、最善のプレーを心掛けるべきで、故障選手を使ってまで、ましてや、様々な選手に、平等に機会を与えてやるべきなのではないだろうか?

 打たれたから、エラーをしたから、といって、その挽回で、もう一度使うのはいかがなものだろうか?

 同じレベルでプレーしているならわかるが、相手がレベルが高くて、そのために、そのような結果が出ていたとしたら、相手に対して、更には、使われた選手に対しても、精神的なダメージを誘発させるものではないだろうか。

 どうも、日本の選手が、ギコチないようにみえたのは、目の錯覚だったのだろうか?

 なにより、一番残念なのは、プレーする選手よりも、監督の方が目立っていた点にある。前回のWBCは、イチローや川崎、松中、福留、松阪、上原等々、選手の活躍が、目立っていたし、王監督以外のコーチはいまでも、名前に挙がらないほどである。

 また、星野で、リベンジでは、監督が目立つばかりだろうね。監督とは、いかに、戦える一流選手を集められるかなのではないだろうか? 大方の野球ファンや現場は、五輪前から、故障選手ばかりで、厳しいとわかっていたのではないだろうか?

 優秀な監督なら、その時点で結果がみえていたと思うのだが。ある新聞には、五輪前から、すでに暗黙糧に出場辞退選手が多発していると書いてあったし、どうも、選ばれるのが嫌というのが本音のようで、いまでは、選ばれなくてやっぱりよかったと、ホッとしているのではないだろうか。

 いずれにしても、上層部と現場での温度差にかなりの隔たりがあるのは間違いない。





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Last updated  2008年08月27日 21時56分16秒
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