シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年10月15日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 提出してもらった要望は、連続講演を進めていくなかで自然に消化していきたい。勿論、なかには、重複することもあろうが、少なくとも、ある部分まで、全要望が集約していなければならないだろう。

 その際、この講座で質問されたり、示唆されたりすることを、ある基礎をつくりあげる前に語るか、つくりあげた後に語るかは曖昧にできない。従って、今回は、御要望を見て、気づいた点を考慮に入れながら、できるかぎり、これからの講演のための基礎をつくりあげる試みを行う。

 既に、最初の考察の為に、骨-筋肉組織の形成と、その内(精神)的効力を起点にしようとした。そして、以前、少なくとも、とりあえず、病気のプロセスの具体的な観察と治療の必要性へと進み、1つの実例と、それに適した観察を結びつけるために、心臓組織における循環から出発しなければならなかった。

 さて、今回は、治療全般の可能性とその本質についてのより深い人間観察から得られる見解について、原則的な前置きを、更に述べておく。個別事項については、引き続き、考察のなかで立ち入っていくが、まず、この原則的な説明を優先する。

 そもそも今日の医学研究が、どのような性質なのか、想定してみると、少なくとも大筋において見いだせることは、治療は病理学と並んで現れているが、両者の間に、明確に見通せる関係が成立していない、ということではないだろうか。

 とりわけ治療においては、今日往々にして、単なる経験的方法の独壇場となっている。合理性、つまり、理念に基づく実践において、実際に原理を打ち立てることのできるような、そのような合理性は、とりわけ治療においては、ほとんど見つけることができない。

 周知のように、19世紀における、この医学上の思考方法の欠陥は、医学上のニヒリズム派にさえ通じてしまった。このニヒリズム派は、全て診断に基づき、病気が識別できれば満足し、治療における理念(ラツィオ)に対しては、全般的に懐疑的態度をとった。

 さて、医療体制に対して、いわば純粋に理に叶った要求をするなら、第一に、そもそも診断に関連した時点で既に治療を暗示する事実が存在しなければならない。治療と病理学の間に、外(唯物)的な関係が保たれているだけではいけない。

いわば病気の本質から、治療プロセスに関する見解を形作ることができるような形で、病気の本質を認識できなければならない。



パラケルススの大変興味深い箴言、

『医者は自然を通じて試行していかなければならない』(1)

 は非常によく引用されるが、このような箴言からはじめることを、近年のパラケルスス関連の研究文献が、充分に心得ているとはいえない。



 このような箴言から直接、取り組まなくても、どのみち、自然そのものから、治療のプロセスを密かに学びとることを、模索しなければならない。確かに、自然自らが、病因に対して策を講じるような病気のプロセスが、自然のなかにあるときには、このような試みもなされる。

 しかし、このような場合は、既に損傷があり、自然が自ら自衛策を講じる場合、その治療処置に関して、自然そのものを、特異で、特別な存在として(いわゆる異常な病気として)観察することに通じ、やはり真の自然観察というのは、正常なプロセスを観察するものでなければならない。

 すると、次のような疑問が起こる。「治療処置に関して、何らかの見解を得る為の手懸かりとして、正常なプロセス、いわば正常なプロセスと呼ばれているものを、自然のなかに観察できる可能性があるのか?」、という疑問である。

 すぐに気づくが、この事は多少とも考慮を要する問題と関連する。病気のプロセスが、自然のなかに正常な在り方で存在しているときには、当然、自然のなかに正常な形で治療プロセスを観察することが可能である。

 すると、一体自然そのもののなかに、自然を通じて試行し、自然を通じて癒すことができるような、病気のプロセスが既に存在しているのか、という疑問が生じてくる。

 この疑問に対しては勿論、この連続講演が進むにつれ、はじめて完全な答えが与えられるが、今回は、せめて少しだけ、この答えに近づくことを試みる。

 けれどもその際、即座に言えることは、ここに呈示したような道は、今日通用しているような自然科学に基づいた医学が注がれ、覆われ、隠されてしまっているということである。現在のような前提では、これまで述べてきたような道を歩むことは非常に困難である。

 というのも、大変奇妙な事に、他ならぬ19世紀における唯物論的傾向が、ここで、骨組織、筋肉組織、心臓組織に続いて付け加えるべき組織、すなわち神経組織を、その機能において、根本から、完全に誤解するような事態を招いてしまったからである。



 私(シュタイナー)は、このような自然観察に対して、「魂の謎について」(2;1917:GA21)という著書のなかで、異議を唱えた。この著書において、第一に示そうと試みた事は(この真実を実証するために、経験面から加えることは、この通常の観察法によってこそ数多く得られるが)、神経組織と関係するのは、本来の表象(イメージ)プロセスだけであり、感情のプロセスは、間接的ではなく、直接的に、生体組織の律動的現象に関連しているということである。

 (思考は神経組織に直接関係するが、感情は神経組織ではなく、律動的現象、つまり主に心臓である。心臓は体内の感覚器官で、物質とエーテルの対流を生じ、そこから感情が生じるようである。感情から鼓動が現実となるようである。)

 今日の自然科学者は通常、感情プロセスは、律動組織とは直接関係なく、この律動プロセスが神経組織に中継されることにより関係する、つまり、感情生活も、神経組織によって営まれる、と考える。

 私(シュタイナー)は、更に、意志の生活全般も全く同様に、間接的ではなく直接的に、新陳代謝組織と関係していることを示そうとした。つまり意志のプロセスに関しても、神経組織にとっては、この意志プロセスを知覚すること以外の何もできないわけである。

 神経組織を通じて、何らかの意志を実行するのではなく、意志を通じて、人間のなかで起きることが知覚されるのである。



 いわゆる運動神経を切断し、感覚神経を切断して、両者を繋ぎ合わせることが可能で、そこから、また均一の神経が生じるという事実があるが、感覚神経と運動神経があるという見解と、この事実とが、全く健全な理性によって、どのように関係づけられるのか、一瞥していきたい。

 感覚神経と運動神経といったものは、本当は、存在せず、運動神経と呼ばれている神経は、四肢の運動、すなわち、人間が「意志する」ときに、四肢の新陳代謝において起こっていることを知覚する感覚神経に他ならない。

 つまり、運動神経とは実際のところ、人間自身の内部だけを知覚する感覚神経なのである。それに対して、感覚神経と本来呼ばれている神経は、外界を知覚する。

 この事実は、医学にとって非常に重要な意味を持つが、このように、事実そのものを、明確に見据えることによりはじめて正当に評価できる。というのも、以前、結核の例を得る為に、出発点とした病気の諸症状に対しても、感覚神経と運動神経の区別で済ませてしまうことが、実際困難だからである。

 従って、賢明な自然観察者は、どの神経も、周辺(皮膚表面)から(皮下)内部へ、或いはその逆へと、一方に伝わるだけでなく、周辺(皮膚表面)から(人体の)中心へ、或いは(人体の)中心から周辺へも、双方向に伝わるということを既に受け容れている。

 この事は同様に、どの運動神経にも2つの回路があるということになる。すなわち、神経組織から、例えば「ヒステリー」等を説明しようとすると、互いに反対に流れている(双方向の)2つの回路を容認することが必要となる。

 つまり、事実に立ち入る瞬間、神経組織に関する、従来の仮定に完全に矛盾し、以上のような2つの回路のような神経の特性を容認することがどうしても必要になる。

 例えば「ヒステリー」の場合に起こっていることのように、生体組織のなかで通常神経組織に定められている神経について(上記の2つの回路のように)知るべき性質が、神経組織に関する唯物的(通例の)考え方を習ったことで全て塞がれてしまったといえる。

 (唯物論で、2つの神経を運動神経と感覚神経と区別するのではなく、霊学論で、1つの感覚神経の2つの双方向の性質と考えるべきであると、シュタイナーは主張している。)

 以前、例えば、結核の場合に生じている、神経により知覚されている病態(ヒステリー)を、新陳代謝に起因する事象により特徴づけた。このような事実こそ留意する必要があるのに、代わりに人々は、神経組織の伝播の可能性や、その伝播のなかだけ、「ヒステリー」を探究し、全てを神経組織のなかに置き換えてしまった。

 (私は、このシュタイナーの着想に触発され、いま独自にエーテルネットワーク理論を考察している。ニューラルネットを、双方向性をもたせた2つの回路に喩え、このシュタイナー講座の両極性を、エーテルネットワークで、数的にシュミレーションし、説明しようと試みている。

 エーテルの前は、アポトーシスという細胞死から考えてみたが、本質は、エーテルを考えた方が納得行くような気がするからである。端的にいえば、気孔をニューラルネットの発展モデルで説明するようなものである。)

 このように、更にまた別の観点が与えられた。とはいえ、「ヒステリー」の遠因のなかにはやはり心魂的な原因もあることは否定できない。心痛、失望感、実現可能なものも不可能なものも含めて何らかの内的な興奮、これらが「ヒステリー」の徴候のなかに入り込んでいる。

 けれども、神経組織以外の生体組織全体を、いわば魂生活から切り離し、神経組織だけに直接、魂生活を関係づけたことで、全てを神経組織に負わせることを余儀なくされている状況である。

 (唯脳論という馬鹿げた唯物論的思考の極致まで生まれている。脳学者は、脳から脳が生まれると考えているようである。それでは、脳以外は何のためにあるのか? 意味不明である。)

 全魂生活を神経組織のみに負わせる事により生じてきた見解は、第一に、もはや多少とも事実には裏付けされないもので、また第二に、魂を人間の生体組織に更に近づける手懸かりをも何ら与えないような見解である。





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Last updated  2008年10月15日 21時30分28秒
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