シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年10月29日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 動物相の場合においても事情は変わらない。このような洞察が無ければ、人間と植物薬との関係に到達出来ないのと同様に、外の動物界において形態を与える諸形成力を、人間は自分の(内部の)腸内動物相から取り去ったということについて意識できず、治療用血清の使用に関しても、正しい理解に至ることはない。

 この事からわかるが、このように人間と環境との関係を、事実に即して、見据えない限り、理性、つまり、このような真相の体系化は不可能である。更に、もう1つ、非常に重要な事を指摘する。

 少し前(1920年)に滑稽にも、至る所で、唾を吐くことが禁止されたとき、甚だ酷い状態になったが、この唾吐き禁止を体験された人もいるだろう。

 人々は、この唾吐き禁止により、結核を撲滅しようとしたが、この唾吐き禁止が滑稽なのは、誰もが知るべきことだが、病原菌、結核菌は、ありきたりの分散した太陽光により究めて短時間で殺されてしまうので、僅かな時間の後、痰を調べてみると、痰のなかには、結核菌は死滅させられているからである。

 太陽光は即座に、この病原菌を殺すのである。だから、通常、医学上の前提が正しい場合でも、このような唾吐き禁止令は、なおも究めて滑稽なものと言えるだろう。このような禁止行為は、せいぜい、ごく一般的な衛生という面では意味もあるが、最も広義の予防医学にとっては意味のないことである。

 事実を正しく評価し始めた人にとっては、この事は非常に大きな意味を持つ。なぜなら、この事は、結核の動物相、ないし植物相に属する存在で、つまり病原菌は太陽光の下では自らを維持できない、ということを示しているからである。

 病原菌は太陽光の下では自らを維持できない。太陽光は病原菌には都合が悪い。病原菌が自らを維持できるのは、どのような場合なのか?

 それは人間の体内にいるときである。それでは、なぜ、人間の体内でなら自らを維持できるのか?

 病原菌に、元凶を求めるように見るのではなく、それが体内で活動する状態こそ、探究すべきである。しかし、このとき、注意を払っていないものがある。



 人間は、この光に囲まれている。しかし、人間と外界との境目において、この光、つまり純粋にいえば、エーテル的存在に、非常に重要なことが起こっている。つまり光が変化させられているのである。光は変化させられなければならないのである。

 丁度、植物化プロセスが人間によって(体内で)阻止されるように、この植物化プロセスが、いわば中断され、炭酸の発生というプロセスによって植物化に抗する働きかけがなされるのと同じように、光の生命のなかにある存在も、人間によって中断される。

 従って、人間のなかの光を探究すると、外の光とは何か別の光、つまり光が変容した存在となる。人間(人体)の境界を、内に向かって越える瞬間に、光の変容が見出せる。

 すなわち、人間は自らのなかで、単に通常の外界に計測し得る自然現象(植物等)を変化させているだけでなく、計測不可能な存在、つまり光(の生命力)をも変化させているのである。

 人間は光をも別の存在に変える。太陽光の下では直に死んでしまう結核菌が、人間の内部では、よく生存するということは、次のような事実を、正しく評価すれば、端的に証明できる。

 その事実とは、人間の内部に生じる、この光の変容の産物、既に、この産物に結核菌の生命元素があり、すなわち、結核菌が体内で増え過ぎるとき、この変化した光の状態に、なんらかの異常があることになる。

 更に、そこから出発して、結核の原因のなかには、人間のなかで、この変化させられた光、この光の変容に関して、本来起こるべきでない何かが起こっている、ということも有り得ることで、結核菌は常に存在しているが、通常、人間は、結核菌を沢山、過度に取り込むことはない、という事実を理解できるだろう。

 実際、結核菌は常在している。ただ通常は充分な数ではないというだけで、人間が結核に屈服すると夥しく増える。この変容させられた太陽光の発達に関連した何らかの異常がない限り、通常、結核菌が何処にでも見つかるというわけではない。

 さて、また、この分野の学位論文や研究論文の類を、次のような事柄から引き出すのは(ここでは観点としてしか与えることができないが、その経験的素材は、次のような事柄から蓄積されるだろう)、困難ではないだろう。

 つまり、人間が結核菌に適した土壌となる場合に生じる状態は、人間が太陽光を十分に取り入れることができないか、或いは、その人の生活習慣の為に、充分な太陽光を得ていない為に、その人のなかに入ってきた太陽光と、太陽光を変容させて加工した産物との間の均衡が崩れ、その人が、これまでずっと自分のなかに備蓄していた変容光から、貯えを引き出さざるを得ない、ということである。

結核菌に適した土壌;太陽光と、太陽光の変容光との均衡が破れ、備蓄した変容光を引き出す場合



 人間と外界の太陽光との間の相互プロセスが正しく実現されないと、このような影響下では、丁度、痩せていく場合に、自分に必要な脂肪が肉体から取り去られるように、変容光が肉体から奪われることになる。

 そして、このような場合、人間は、上部を病ませるか、或いは上部にとって必要なものを、下部から引き出す、すなわち変容光を、下部から取り出して、下部を病ませるか、というジレンマの前に立たされるわけである。

 この事からわかるが、人間は、とりもなおさず、その生体組織の為に、外から入ってきて変化させられた計量可能な実質を必要とするだけでなく、人間を正しく観察すれば指摘できるが、人間のなかには、変容した形ではあっても、計量できない実質、エーテル的な実質も存在しているのである。

 しかし、この事から看取すべきことは、このような原理を通じて、太陽光の治癒的作用の為の正しい見解を打ち立てる可能性を、いかに生み出していくか、ということである。

 例えば、一面において、周囲の太陽光との相互プロセスが秩序を失っている場合、再び秩序づけるために直接その人を太陽光に曝すことによって、或いは他面において、変容光を取り出す時に不規則になる状態を調整するような実質に、その人を内的に曝すことによって、治療を行うことができる。



光による治療原理
 1)太陽光摂取の秩序回復の為の適度な太陽の外的曝露
 2)変容光の内的搾取による不規則な変調の為の薬剤投与


 ここで、世界全般を観察できる人にとって奇妙な事が起こってくる。そのような人は(些か下品な言い方だが)、しばらくすると(いま述べることは一見反駁される可能性もあるが、そもそも共感も反感も無いという意味で全く客観的といえる)、顕微鏡で観察する全て、つまり微小世界の観察全般に対して、一種の激しい怒りを覚えるだろう。

 なぜなら、顕微鏡での観察は、そもそも生命と、生命を妨害する存在との、健全な把握の可能性に導くというよりも、むしろ、健全な把握から、逸脱を生じさせるものだからである。

 というのも、健康、病気に関わらず、人間において、関わってくる真のプロセスは全て、顕微鏡(ミクロ)的なものというよりも、巨視(マクロ)的なもののなかに、遥かに、より良い研究の可能性を与えるからである。マクロコスモスのなかにこそ、このような事柄の研究の機会を探す必要がある。

光による治療原理
 1)太陽光摂取の秩序回復の為の適度な太陽の外的曝露→太陽光の研究
 2)変容光の内的搾取による不規則な変調の為の薬剤投与→薬剤の探求





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Last updated  2008年10月29日 18時53分59秒
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