シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2009年12月28日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 では、犠牲を拒むケルビムが生じさせるものとは何か?

 ここで究めて困難な課題へと近づいた。長い瞑想を経た後で初めて、これから考察する概念を把握できるようになるだろう。 ここに提示する概念は長い思考の後に、初めて見つけられる真実である。

 時間の創造が古「土星」上で生じたことを人智学徒は知っているが、いま「諦め」と呼ばれる状態は、その時間の創造に結びつけられなければならない。時間霊アルカイとともに、古「土星」上で最初に時間が生じたということと、古「土星」以前の時間について語ることには意味がないということを、以前述べた。

 さて、この進化の過程の中で繰り返しが生じ、その時点から時間は続き、継続、存続という概念は「時間」という言葉に包含される。「時は継続する」と言うとき、それは、アカシャ年代記の中での「太陽」や「土星」に関する記述の検証から、時間は「土星」紀の間に創造され、「太陽」上にも存在していた、ということを意味する。

 さて、もし、「土星」と「太陽」に関する全条件が、これまでの講義の中で特徴づけたような形で続いていたら、「時間」は進化の過程の中で生じた全ての構成要素の1つとなっていただろう。進化における全ての出来事から時間の要素を取り除くことができなかっただろう。

 これまで見てきたのは、時間霊が古「土星」上で創造され、時間が、あらゆる存在の中に埋め込まれたということである。だから、それ以後の進化について、思い描き、想像する全事象は時間の文脈の中で捉えなければならない。

 もし、生じた事象が提示してきた事実(犠牲を捧げることや与える徳)からのみ構成されているなら、この全ては時間を前提とするものでなければならない。時間に左右されることなしに存在するものは何もなかった。

 存在するようになった全て、また、消えゆく全て(従って、時間に関係する全ての存在)、つまり、全存在は時間に左右されることになった。ケルビムが、犠牲を拒絶し、同時に犠牲の煙の中の存在を拒絶したのは、この犠牲の煙の中に含まれる(時間の)性質の拘束から脱する為だった。

 さて、犠牲の煙の中に含まれる性質の中には、特に時間と共に、生成、消滅する経過がある。だから、犠牲の拒絶全体の中に横たわる存在とは、時間の条件を超えて成長するケルビムの能力である。拒絶したケルビムは時間を超えて進化(前進)し、もはや時間に左右されない。



 (トローネの犠牲を拒絶することで、時間に左右されない永遠性を手に入れたケルビムが存在する。)

 この事実は特筆すべきことで、いま、つまり、古「太陽」進化の中で時間と永遠が分離した地点へと至った。古「太陽」進化期の間のケルビムによる断念により、その進化期の間に生じた条件の結果として、永遠が生じた。

 自身の魂の中を覗き見て「拒絶」と「諦め」を受諾するとき、ある効果が魂の中に生じるのを見るのと同じように、今、ある種の神的、精神的存在たちが「犠牲」と「与える徳」の遺産の拒絶で、「永遠」と「不死」が古「太陽」上で生じるのが見られる。

 「土星」上での時間の存在を見たのと同じように、今、ある状況を通して「太陽」進化の局面から時間が引き剥がされるのを見る。既に述べたように(勿論、次のことに注意して欲しいが)、永遠は「土星」紀の間に既に準備され始まったのは、実際には「太陽」紀ではない。

 けれども、時間の発生を概念の形で表現できるほど明確に捉えることができるのは「太陽」紀だけなのである。我々人間の概念と言葉は、何か、そのような事実が古「土星」とその進化において存在していた、ということを十分に特徴づけできるほど正確ではないので、時間からの分離、つまり永遠の存在を「土星」上で知覚するのはほとんど不可能である。

 今、「諦め」(古「太陽」紀における神々による拒絶)と「不死」の達成の両方の意味を知るようになった。この事実の更なる結果とは何か?

 著書「神秘学概論」によると(とはいえ、その中の記述は、ある意味でマーヤのヴェールがかけられている)、「月」進化紀が「太陽」紀に続く(「太陽」紀の終わりには、全ての存在条件が一種の黄昏、宇宙的なカオスの中に沈められ、そして、再び「月」として現れる)ということが分かる。

 犠牲の顕現を再び熱として見れるが、「太陽」上で熱となる(内的な)存在も「月」上では外的な熱として現れる。以前、「与える徳」であった存在は、「大気」或いは「空気」として再び出現する。「諦め」、「犠牲の拒絶」もまた継続する。

「諦め」と呼んだ存在は古「月」上で生じる全ての中に存在している。それは真実である。

 つまり、「太陽」上で「諦め」として経験できた存在を、「太陽」から古「月」上に存在する全ての存在の中にある力として、また同時に、外的世界の中に存在するものとは異なる存在としても考察しなければならない。

 「犠牲」として存在していたものは、マーヤ(幻;物質世界)の中では、「熱」として現れ、「与える徳」であったものは「大気」、或いは「空気」として現れ、「諦め」として存在していたものは「液体」、或いは「水」として現れる。



 「熱」が幻想で、その背後には「犠牲」が存在するのと同じように、「大気」、或いは「空気」が幻想で、その背後には「与える徳」が存在するのと同じように、物質としての「水」は、外的な現実としては、単なる物質的な幻想で、真に存在するものは、すなわち、ある存在たちが別の存在たちから受け取れたはずの「犠牲の拒絶」の反映なのである。

「諦め」が、現象下に横たわっているとき、「水」は、世界の中を流れることができる。

 (そういえば、日本には、過去の怨念や怨みを「水に流す」という表現があるが、この表現から水には「諦め」や「怨念や怨み等の思念の拒絶」という意味があることが連想される。)





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Last updated  2010年01月06日 16時54分57秒
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